迷宮
禁書が、導いていた。
リリムには、そうとしか言いようがなかった。足がどこへ向かうべきかを、頭で考えるより先に体が知っていた。禁書から流れ込んだ知識の中に、行き先が刻まれていたのだろう。あるいは、禁書を抱えていた男の記憶が、まだ自分の中に残っているのかもしれない。
夜の森を歩き続けて、どれくらい経ったか。月が傾いていた。足元の枯れ葉は霜を帯び始め、踏みしめるたびに乾いた音がした。
そして、辿り着いた。
何もない、ただの森の一角に見えた。うっそうとした木々の下、重い霧が立ち込め、他と変わらない暗闇が広がっているだけだった。しかし、確かに何かが違った。空気が違う。肌に触れる冷気の質が違う。そして、一本の枯れた木が、闇の中でかすかに光っていた。
木の表面は、無数の古代文字で覆われていた。
リリムはその文字に触れた。指先に伝わる冷たさと同時に、黒い光が走った。足元の地面がわずかに揺れ、霧が晴れるように景色が一変する。木の根元から石造りの階段が現れ、その先に古い扉が闇に沈んでいた。扉の中央には、禁書のシルエットと一致するくぼみがあった。
リリムは禁書をそのくぼみに差し込んだ。
石造りの扉がゆっくりときしみ、内側に開いていった。奥からは冷たい風が吹きつけ、腐敗した臭気が漂ってくる。暗闇がそこにあった。底の見えない、深い暗闇が。
リリムは一歩、踏み込んだ。
*
回廊は石造りで、苔むした壁に古代の碑文が刻まれていた。リリムが触れるたびに、頭の中に断片的な映像が浮かんでは消えた。誰かの記憶だった。何百年も前に、この場所を歩いた誰かの。
足音が石畳に響く。天井から水滴が落ちる音がする。それだけだった。生き物の気配はない。しかし、静かすぎる。静かすぎて、かえって何かの息遣いが聞こえてくるような気がした。
しばらく進むと、回廊が広間に繋がった。
その瞬間、空気が変わった。
広間の中央に、影が立っていた。
人の形をした影だった。輪郭は揺らいでいて、顔はない。それなのに、赤い光だけが目の位置にともっていた。そしてその影は、リリムとまったく同じ背丈だった。
影が、口を開いた。声はなかった。しかし言葉は直接、リリムの頭の中に響いた。
(お前は期待に応えられなかった)
リリムの胸が、ざわりとした。
(誰からも見捨てられる存在だ)
わかっていた。この影が何なのかは、なんとなくわかった。自分の中から引き出したものだ。長年かけて積み重ねてきた、自分への言葉が形になっている。
「知っている」
リリムは言った。声が震えていた。それでも続けた。
「そんなこと、とっくに知っている」
(才能がないお前は、どこにいても同じだ)
(父に愛されなかった。姉の影でしかなかった。そして、あの倉庫で――)
「やめて」
リリムの拳が震えた。影が一歩近づいてくる。その赤い光がゆっくりと揺れ、どこかで見た目の形をしている気がした。
(それでもお前は、闇の力を使って四人を……)
「やめろ!」
リリムは拳を振り下ろした。影に向かって、全力で。しかし拳は空を切り、影はにやりと笑うように揺れて、別の場所に立ち上がった。
(逃げることしかできない。それがお前だ)
リリムは荒い息をつきながら、影を見た。
怒りが、あった。でも怒りの下に、もっと重いものがあった。悲しみとも違う、もっと根元的な何か。認めたくなかった言葉たちが、影の声になって聞こえてくる。
(そうだ、これが本当のお前だ。何もできない、誰にも愛されない、ただの落ちこぼれだ)
リリムは目を閉じた。
深く、息を吸った。
そして、開いた。
「そうかもしれない」
声は、今度は震えていなかった。
「才能がなかった。誰にも認めてもらえなかった。ひどいことをされた。全部、本当のことよ」
影が動きを止めた。
「でも」
リリムは手を掲げた。指先に、黒い霧が集まっていく。体の奥から、あの熱が湧いてくる。
「それが全部だとは、思わない。私はまだ、ここにいる」
闇の力が、一つにまとまった。それは怒りでも悲しみでもなく、もっと静かで、もっと冷たい何かだった。
リリムは呪文をささやくように唱えた。闇の炎が指先で静かに燃え、刃の形を成した。
「弱い私になんか、負けない」
刃を振りかざして、一歩踏み出した。影は最後の抵抗を試みるように手を伸ばしたが、闇の刃がその中心を正確に貫いた。
影はかすかな声を上げて、霧散した。
広間に、静寂が戻った。
リリムはしばらく、その場に立ち尽くしていた。息が荒かった。体が震えていた。でも、胸の奥に、小さな何かが生まれていた。
壊れたものが全て治ったわけじゃない。でも、何かが、一つ、決着した気がした。
*
次の回廊に踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
冷気が増した。それだけではない。肌の奥まで染み込んでくるような、重い冷たさだった。そして、声が聞こえた。
「戻れ……」
「ここは、お前の来るべき場所ではない……」
低く揺らぐ声が、耳元でささやく。リリムは立ち止まらなかった。
視界の端に、青白い光が見えた。それは一つではなかった。二つ、三つ、四つ。やがて四体の亡者がぼんやりと現れ、リリムの周囲を囲み始めた。苦しげに歪んだ顔が、冷たい手を伸ばしてくる。
「影の刃よ、我が敵を切り裂け!」
リリムの声と共に闇が集まり、刃となって亡者たちに向かった。青白い体が断ち切られ、魂が空中に浮かんだ。リリムは左手をかざした。
「亡者の魂よ、我が力となれ」
魂たちが引き寄せられ、左手に吸い込まれていった。冷たくも心地よい感覚が全身に広がり、魔力が満ちていく。
リリムは吸収した力を確かめるように、手を開いて閉じた。
(増えた)
単純な感想だったが、それは確かな事実だった。力が、増えていた。
足を止めず、さらに奥へと進む。
*
次の部屋で待っていたのは、呪獣だった。
黒い霧に体を覆われ、赤い目だけが不気味に輝いている。その目がリリムを捉えた瞬間、低い唸り声が部屋全体に響いた。鋭い爪のような腕がゆっくりと持ち上がり、確かな殺意がそこにあった。
「……こんな奴に勝てるの?」
思わず声に出た。呪獣は答えるかわりに突進してきた。
リリムは闇の刃を放った。しかし刃は呪獣の体表に弾かれた。もう一度放っても、同じだった。力任せの攻撃では通らない。リリムは体を引いて距離を取り、冷静に考えた。
(防御に意識を向ける)
呪獣の爪が振り上げられた瞬間、リリムは闇の力を盾として構えた。爪を受け止める。衝撃が腕に走ったが、耐えた。そしてその接触の瞬間に、気づいた。
闇が、相手に絡みついている。
リリムは意識を集中させ、その絡みつきを強化した。闇の力が呪獣を締め上げるように変化し、その体の一部を吸い取るように引き寄せていく。
呪獣の体が闇の鎖に縛られ、咆哮が力を失っていった。リリムは手をかざし、呪獣の力が自分の中へと流れ込むのを感じた。
やがて呪獣は動かなくなった。
リリムは試しに足元に薄い黒い膜を張り、指先で触れた。しなやかで、しかし強固な手応えがあった。攻撃を受け止め、跳ね返すことも可能だと、体が知っていた。
(闇の盾)
呪獣との戦いで、新しい力を会得した。
リリムはふと、思った。
(これで……お父さんに認めてもらえる?)
その考えが浮かんだ瞬間、自分で苦笑した。
まだそんなことを思っている。あれだけのことがあったのに。あれだけ絶望したのに。
人間は簡単には変われないのだと、リリムは思った。
それでも、足を止めなかった。
先へ進む理由は、今はそれだけでいい。
*
迷宮の最奥は、静かだった。
黒い霧が漂い、空間全体が異様な静寂に包まれていた。中央の石台には、一冊の書物が横たわっていた。周囲に護符が円を描くように配置され、鈍く光っている。
リリムが一歩踏み込むと、黒い霧がざわめいた。その中から青白い光が浮かび上がり、人の形をとった。
霊体だった。
顔立ちは鋭く、瞳は深い漆黒に輝いていた。薄い煙のようにゆらめく衣をまとい、この世のものとは思えない気配を放っている。その視線がリリムを捉えた瞬間、「死」という概念が全身を包み込んだ。
リリムは目を逸らさなかった。
「こんなところで、やられるものか」
震える拳を握りしめ、リリムは石台に近づいた。霊体が動こうとしたが、リリムはそれより先に手を伸ばし、黒い書物を手に取った。
古い漆黒の革表紙。時代の流れを感じさせるひび割れ。ページを開けば、古代文字がびっしりと書かれている。その文字は生きているように動き出しそうで、目にする者を圧倒する暗い気配をまとっていた。
リリムは覚悟を決め、一言一句、声に出して読み上げ始めた。その声は低く、部屋全体に静かに響いた。
一ページ、また一ページと読み進めるたびに、霊体は少しずつ小さくなっていく。その様子を感じながらも、リリムは目を書物から離さなかった。
最後のページを読み終えた瞬間。
霊体の姿が霧散しながら、リリムの中に吸い込まれていった。
黒い書物が赤黒い炎に包まれ、自らを焼き尽くした。
リリムは目を閉じた。体の奥で、何かが完成した感覚があった。今まで断片的だった力が、一つの流れとして繋がった。死の力が、自分の一部になった。
冷たい微笑が、口元に浮かんだ。
*
石の回廊を進んだ先に、泉があった。
ひっそりと息づくその泉は、闇の中で淡い光をたたえ、神秘的な輝きを放っていた。リリムはそっと指先で水面に触れた。冷たく、驚くほど滑らかな水が肌を撫でる。
水面に、自分の顔が映っていた。
かつての純粋で幼い表情は消え、決意と覚悟が刻まれた鋭い眼差しが返ってきた。紫の瞳が、闇の中で静かに輝いている。
(もう、あの頃とは違う)
リリムはゆっくりと泉に足を踏み入れた。冷たい水が全身を包み、戦いの疲労が溶け出していく。目を閉じると、これまでの全てが静かに洗い流されていくようだった。
泉から上がったリリムの視線が、石畳の上に置かれた箱に留まった。黒と銀で縁取られた重厚な箱。開けると、漆黒のローブが折りたたまれていた。薄い銀の刺繍が施され、まるで星明かりが散りばめられたような深い輝きを宿している。
リリムはローブを手に取った。柔らかく、冷たく、それでいてどこか守られているような重みがあった。袖を通すと、ぴたりと体に馴染んだ。まるでこの衣が自分を待っていたかのように。
箱のふたが静かに閉じられた。
リリムは迷宮の入り口へと向かって歩き始めた。
後ろを振り返らなかった。
振り返る必要が、もうなかった。
(次回、復讐――)
▼登場キャラクターのビジュアルはXで
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