第2話 禁書
リリムが最初に魔法の才能がないと知ったのは、七歳の時だった。
賢者の学院には、子供の素質を測る水晶球があった。手を当てると、魔力のある者は色づく。青、緑、白、赤――色と濃さがそのまま素質の種類と強さを示す。
アリシアが手を当てた時、水晶球は白金色に輝いた。居合わせた教師たちがざわめいた。父レオニスは目を細め、かすかに頷いた。それだけだったが、リリムにはその頷きがひどく眩しく見えた。
次に、リリムが手を当てた。
水晶球は、何も起きなかった。
透明なまま、冷たいまま、ただそこにあった。
教師の一人が「もう少し集中してみて」と言ったので、リリムは目を閉じて、力を込めた。何かが起きることを信じた。何かが起きてほしいと、祈った。
水晶球は、やはり何も起きなかった。
父は何も言わなかった。それが一番、きつかった。
*
学院に正式に入学してからも、それは変わらなかった。
クラスの生徒たちは、入学当初こそ「学院長の娘」として一定の敬意を向けてきた。しかしひと月も経たないうちに、それは消えた。授業で魔法が使えない。練習でも結果が出ない。それだけで十分だった。
「学院長の娘なのに」という言葉を、リリムは何十回聞いたかわからない。廊下ですれ違いざまに言う者もいれば、わざわざ振り返って言う者もいた。親切そうな顔で「大丈夫?」と言いながら笑う者もいた。
どれも同じだった。
ある日の授業で、担当教師がアリシアを名指しで称えた後、視線をリリムに向けた。
「リリム。姉と同じ血を持ちながら、どうしてこれほど差が出るのか。努力が足りないのか、それとも素質の問題なのか。どちらにしろ、このままでは学院長にも申し訳が立たない」
クラス中が静まり返った。一瞬だけ静まり返って、それから笑い声が漏れた。小さな、でも確かな笑い声が。
リリムは顔が熱くなるのを感じながら、うつむいた。反論する言葉がなかった。反論できる事実がなかった。
その夜、アリシアが部屋に来た。
「先生の言い方、ひどかったわ。リリムは悪くない」
優しい声だった。本当に優しい声だった。だからこそ、リリムは何も言えなかった。
(お姉ちゃんは、私と違う。どんなに優しくしてくれても、それは変わらない)
アリシアが去った後、リリムは枕に顔を埋めた。泣かなかった。泣いても何も変わらないと、もうわかっていたから。
*
倉庫に呼ばれたのは、入学から一年が過ぎた頃だった。
「アリシアが呼んでいるよ」
同じクラスのレオンがそう言った。いつもリリムに冷たかった彼が、なぜか今日は穏やかな顔をしていた。その穏やかさが、妙に引っかかった。でもリリムは、その引っかかりを無視した。姉が呼んでいる、という言葉の方が大きかった。
体育館横の倉庫は、薄暗かった。扉を開けた瞬間、中にいたのはレオンを含む四人の男子生徒だった。
「アリシアに頼まれたのさ、リリム。学院の評判を守るために、お前みたいな落ちこぼれに制裁を加える必要があるってさ」
その言葉の意味を、リリムはすぐには理解できなかった。
アリシアが、頼んだ。
自分に、制裁を。
理解しようとした瞬間、体が動いていた。逃げようとした。扉に向かおうとした。でも四人はすでに動いていて、リリムの体を冷たい床に押し倒した。
リリムは抵抗した。力の限り、抵抗した。魔法が使えなくても、体を動かすことはできた。何度も床に押しつけられながら、何度も立ち上がろうとした。
でも、少女一人では、どうにもならなかった。
やがてリリムは動くのをやめた。痛みに耐えながら、ただ待った。早く終わってと、祈った。天井の染みを見つめながら、ここではない場所のことを考えようとした。でも、どこにも逃げられなかった。
男子たちが去った後、薄暗い倉庫にリリムだけが残された。
冷たい床に横たわったまま、しばらく動けなかった。体が痛かった。でも体の痛みよりも、胸の奥にあるものの方が、ずっと重かった。
(アリシアが、頼んだ)
その考えが頭の中で何度も繰り返されて、リリムは目を閉じた。信じたくなかった。でも、信じない理由もなかった。あの四人が嘘をつく理由が、わからなかった。
やがてリリムはゆっくりと起き上がり、倉庫を出た。誰もいない廊下を歩いた。学院の外に出た。どこへ向かうかも考えずに、ただ歩いた。
*
気がつくと、森の中にいた。
木々が生い茂り、月明かりも届かない、暗い森だった。足元に小川が流れ、その音だけが静寂を満たしていた。冷たい水が靴を濡らしたが、リリムは止まらなかった。
岩だらけの沢に差し掛かった時、リリムは立ち止まった。
水の音を聞きながら、思った。
消えてしまえばいいのかもしれない、と。
父の目が浮かんだ。失望の、あの目が。授業で笑われた日のことが浮かんだ。アリシアの「大丈夫よ」という声が浮かんだ。今日の倉庫の、冷たい床の感触が浮かんだ。
全部、消えてしまえばいいと思った。
一歩、踏み出した。
その瞬間、滑りやすい岩に足を取られた。体がバランスを失い、崖のような斜面を転げ落ちた。岩に何度もぶつかりながら、リリムは冷たい河原に叩きつけられた。
しばらく、動けなかった。
痛みが全身を走っていた。でも、生きていた。息をしていた。
「なんで……」
つぶやいた声は、川の音にかき消された。
やりきれない気持ちが込み上げて、リリムは顔を覆った。泣こうとしたが、涙が出なかった。悲しみよりも深いところで、何かが凝り固まっていた。
そこで、視界の端に何かが映った。
*
男が、倒れていた。
黒いローブを身にまとった、痩せた体の男だった。青白い顔は動かず、骨ばった指はもう冷たくなっている。死んでからさほど時間が経っていないのか、体はまだ形を保っていた。
そしてその腕に、一冊の書物が抱きしめられていた。
古びた黒革の表紙。何も装飾がない。それなのに、月明かりの届かないはずのこの場所で、かすかに光を帯びているように見えた。まるで書物そのものが生きているように、微かに脈打っている。
触れてはいけない、と思った。
そう思ったのに、体が動いていた。
リリムは男のそばに膝をつき、その書物に手を伸ばした。指先が表紙に触れた瞬間――
世界が、割れた。
脳の奥に、何かが流れ込んできた。言葉ではなく、声でもなく、もっと直接的な何かが。古代の記憶が洪水のように押し寄せ、知識が、術式が、無数の呪文の断片が、リリムの意識に染み込んでいく。底知れない深淵からのささやきのように、闇魔術の全てがそこにあった。
頭が割れそうな痛みに、リリムは片膝をつき、激しく息を吐いた。視界が暗転した。地面が揺れた。
そして。
じわりと、何かが変わった。
体の奥から、熱が湧いてきた。今まで感じたことのない、暗く重い熱が。それは痛みとも快感とも違う、もっと根元的な何かで、リリムの全身をゆっくりと満たしていった。
リリムはそっと自分の手を見た。
指先から、黒い霧が漏れ出していた。
そして、垂れた髪が目に入った。紫だった。茶色だったはずの髪が、深い紫に変わっていた。
川面に映った自分の目も、同じ色をしていた。
*
その時だった。周囲の空気が凍るように変わった。
暗がりから、きしむような音が聞こえた。そして、五体の骸骨兵士が現れた。骨はひび割れて薄汚れていたが、空洞の目には青白い炎が燃え、リリムをじっと見据えていた。彼らはゆっくりと剣を構えながら、円を描くようにリリムを取り囲んでいく。
リリムは後ずさった。怖かった。でも体の奥で、あの熱がざわめいた。
何かに導かれるように、リリムは手を掲げた。
「……来ないで……!」
か細い声と共に、指先から黒い霧が溢れ出した。それは瞬く間に広がり、骸骨兵士たちを覆い始めた。霧は意志を持つかのように動き、骨を締め上げ、青白い光を一つずつ消していった。
最後の一体が音を立てて崩れ落ちた時、辺りはまた静かになった。
リリムは、自分の手を見た。
震えていた。でも、それは恐怖ではなかった。
「私が……やった……?」
魔法の才能がない、と何度も言われた。水晶球は光らなかった。教師に侮辱され、同級生に笑われ、父に失望された。それが自分だと思っていた。
でも今、五体の骸骨兵士を倒した。
ただの少女が。魔法の才能がないと言われた自分が。
崩れた骸骨の残骸から、淡い光がふわりと浮かんだ。それはゆらゆらと漂い、リリムの左手に引き寄せられ、吸い込まれていった。その瞬間、体の奥の熱がさらに強くなった。力が、増えていく感覚があった。
リリムはゆっくりと立ち上がり、夜の森を見渡した。
怖くなかった。不思議なほど、怖くなかった。
胸の奥に積もっていた何か――父の失望、学院での嘲笑、倉庫の冷たい床、アリシアへの疑念――それらが形を変えて、暗く、熱く、力に変わっていくような感覚があった。
禁書を胸に抱いたまま、リリムは一歩踏み出した。
どこへ向かうかはわからなかった。でも、前に進む理由が、今は確かにあった。
(この力を、もっと知りたい)
暗い森の奥から、風が吹いた。紫の髪がなびいた。
リリムは歩き出した。
(次回、迷宮へ――)
▼登場キャラクターのビジュアルはXで
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