決別
雨が降っていた。
校舎裏の石畳を叩く雨音が、規則正しく、冷たく、リリムの耳に届いていた。
彼女は立っていた。薄暗い空の下、黒いローブを身にまとい、自分の手を見下ろしていた。その手は、三日前とは違う。茶色だった髪は紫に変わり、目も同じ色に染まっている。体の奥では、暗く重い何かがゆっくりと脈打っていた。
向こうに、アリシアが立っていた。
雨に濡れた銀色の髪が、頬に張り付いている。傘もささずに来たのだろう。制服が濡れ、その細い肩が微かに震えていた。しかし、その目は揺れていなかった。真っ直ぐに、リリムを見ている。
――ああ。やっぱり。
リリムは心の中で思った。こんな夜でも、この人は揺るがない。
「リリム」
アリシアの声は静かだった。怒鳴りもせず、泣きもしない。ただ、妹の名前をそう呼んだ。
「私はあなたを嫌ったことなんて、一度もないわ。いつだって、あなたが愛おしい妹だと思っていたわ」
その言葉が、リリムの胸をじわりと焼いた。
愛おしい妹。
どれだけその言葉が欲しかったか。どれだけ待ったか。どれだけ待ち続けたか。でも今は、その言葉が刃のように痛い。
「聞き飽きたの」
リリムは自分の声が、冷たく乾いているのを感じた。
「お姉ちゃんのその"優しい"言葉も。ずっとずっと影で、優等生のお姉ちゃんに見下され続けた気持ちなんて、わからないでしょう?」
アリシアが一歩、踏み出そうとした。
リリムは手をかざして、それを止めた。
「近づかないで」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
*
思い出すのは、あの食卓だ。
まだ朝の光も差し込まない時間、父レオニスが紅茶を口に運んでから、リリムをじっと見た。その目を見るだけで、胃が重く沈んでいった。
「リリム、学院に入ってもう一年経つが、お前はまだ自分の力を十分に発揮できていないようだな」
何度聞いたか、わからない。
隣でアリシアが視線を伏せていた。助けてくれないことはわかっていた。彼女が何を言っても、父の言葉は変わらないから。アリシアはリリムの肩にそっと手を置いた。「大丈夫よ」と言ってくれた。でも、その「大丈夫」は、いつも届かなかった。
届かなかったのではない。
届いていたけれど、足りなかった。
リリムが欲しかったのは、父の言葉だった。父が自分を見る目だった。アリシアのように――いや、それさえも望まなかった。ただ一度でいい。「よくやった」という声が聞きたかった。
しかし父の目には、いつもアリシアがいた。リリムは映っていなかった。いや、映っていた。失望として、映っていた。
*
あの日のことを、リリムはまだ夢に見る。
「アリシアが呼んでいる」と言われて、体育館横の倉庫に向かった。姉がわざわざ呼び出すのは珍しかったから、少し期待していた。励ましてくれるのかもしれないと思った。
扉を開けた瞬間、四人の男子生徒が立っていた。
「アリシアに頼まれたのさ、リリム。学院の評判を守るために、お前みたいな落ちこぼれに制裁を加える必要があるってさ」
その瞬間、世界が静止した。
アリシアが。自分を。
リリムは必死に抵抗した。何度も床に押し倒されながら、立ち上がろうとした。魔法の才能がないと言われ続けた体で、ただの力だけで抗った。しかし少女一人では、どうにもならなかった。
床に伏して、ただ耐えた。早く終わってと、祈った。
やがて男子たちが去り、薄暗い倉庫にリリムだけが残された。
あの時、壊れたのだ。何かが。
*
森の中の沢で、冷たい水に足を入れながら、死を考えた。
それさえも上手くいかなかった。滑りやすい岩に足を取られて、崖から河原へと転げ落ちた。冷たい石の上に倒れ込んで、なんで生きているのかと思った。
でも、そこに禁書があった。
倒れた男の腕の中に。
触れた瞬間、全てが流れ込んできた。古代の声が、闇の知識が、無数の言葉が。脳が焼けるような痛みの中で、リリムの髪が紫に染まった。
そして力が生まれた。
自分の中に、初めて確かなものが宿った。
*
「本当の私は、今の姿なのよ」
リリムは言った。雨が強くなっていた。
「お姉ちゃんが理解できないなら、それでもいい。けれど、二度と私に近づかないで」
アリシアは動かなかった。ただそこに立ち、リリムを見ていた。雨に濡れながら、それでも揺るがない。
リリムの胸に、何か熱いものがせり上がってきた。
怒りか。悲しみか。
どちらでもあり、どちらでもなかった。
「絶望の黒翼」
リリムは手を掲げた。背後に闇の翼が広がり、無数の黒い羽が生まれてアリシアに向かって放たれた。
しかし羽はアリシアに届かなかった。彼女の周囲に光の防御が現れ、全てをかき消した。
リリムは息を呑んだ。
(闇からの防御……)
かつて学院で学んだ。高位の魔術で、強い素質と深い熟練が必要な術だと。自分とほとんど歳の変わらない姉が、それを難なく使いこなしている。
わかっていた。アリシアは優秀だ。ずっと、ずっと前から。
でも、これほどとは。
「わかった、リリム」
アリシアが静かに言った。
「あなたの闇魔法は、私には通じないわよ」
その言葉が、リリムの心をざわつかせた。恐怖ではない。それよりも深い、もっと根元にある何かが揺れた。
アリシアは一歩前に進み、手を差し伸べた。
「まだ遅くないわ。私もお父さんも、あなたを待っている。一緒に帰りましょう」
リリムは、その手を見た。
細い手だった。魔法の訓練で少し硬くなった、それでも白くて綺麗な手。リリムが子供の頃、その手に引かれて歩いた。暗い廊下も、怖くなかった。
でも。
「よくそんなことが言えるわね」
リリムの声は震えていた。今度は隠せなかった。
「自分が何をしたのか、わかっているの? 絶対に許さない!」
アリシアの表情が揺れた。一瞬だけ、何かが崩れるように。
「リリム、彼らに何かされたの?」
「とぼけないで!」
声が割れた。闇の力が渦を巻き、雨が横殴りになった。
「お前も殺してやる!」
その言葉は、リリム自身を驚かせた。
殺す。お前も。
言ってしまった。言えてしまった。
リリムは黒い霧となった。その霧はゆっくりと薄れ、風に散り、やがて消えていく。
逃げるように、消えた。
*
アリシアは一人、その場に立っていた。
雨が止んでいた。
長く降り続けていた雨が、まるで何かが終わったように、静かに止んでいた。雲の間から一筋の光が差し込み、濡れた石畳を照らした。
アリシアは妹が消えた場所を見つめた。まだそこに黒い霧の残滓があるような気がして、手を伸ばしかけて、止めた。
触れるものは、もうない。
頬を伝うものが、雨なのか涙なのか、アリシアにはわからなかった。ただ、胸の奥で何かがひび割れていく音がした。
(リリム)
心の中でそう呼んだ。声には出せなかった。
妹が抱えていたものの重さを、今さら知る。知りながら、何もできなかった自分の無力を、今さら知る。
でも立ち止まるわけには、いかない。
アリシアは目を閉じ、深く息を吸った。
妹を救うために。必ず。
*
その夜、リリムは遠い森の中を歩いていた。
雨は止んでいた。月が出ていて、木々の間から細い光が降り注いでいた。足元には枯れ葉が積もり、踏みしめるたびに湿った音がした。
腹の底には、まだ熱いものがあった。
怒りとも、悲しみとも、呼びようのない何か。
アリシアの顔が浮かんだ。差し伸べられた手が浮かんだ。
リリムは首を振った。
「帰れない」
声に出してみたら、思いのほか静かな声だった。
「もう、帰れない場所になったの」
風が吹いた。紫の髪がなびいた。
リリムは歩き続けた。
どこへ向かうのか、まだわからなかった。ただ、力があった。初めて、自分の中に確かなものがあった。
その力だけを頼りに、彼女は闇の中を進んでいった。
(次回、アルビオン王国の森へ――)
登場キャラクターのビジュアルはXで↓
https://x.com/Pur_Sorcerer




