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 雨が降っていた。




 校舎裏の石畳を叩く雨音が、規則正しく、冷たく、リリムの耳に届いていた。




 彼女は立っていた。薄暗い空の下、黒いローブを身にまとい、自分の手を見下ろしていた。その手は、三日前とは違う。茶色だった髪は紫に変わり、目も同じ色に染まっている。体の奥では、暗く重い何かがゆっくりと脈打っていた。




 向こうに、アリシアが立っていた。




 雨に濡れた銀色の髪が、頬に張り付いている。傘もささずに来たのだろう。制服が濡れ、その細い肩が微かに震えていた。しかし、その目は揺れていなかった。真っ直ぐに、リリムを見ている。




 ――ああ。やっぱり。




 リリムは心の中で思った。こんな夜でも、この人は揺るがない。




「リリム」




 アリシアの声は静かだった。怒鳴りもせず、泣きもしない。ただ、妹の名前をそう呼んだ。




「私はあなたを嫌ったことなんて、一度もないわ。いつだって、あなたが愛おしい妹だと思っていたわ」




 その言葉が、リリムの胸をじわりと焼いた。




 愛おしい妹。




 どれだけその言葉が欲しかったか。どれだけ待ったか。どれだけ待ち続けたか。でも今は、その言葉が刃のように痛い。




「聞き飽きたの」




 リリムは自分の声が、冷たく乾いているのを感じた。




「お姉ちゃんのその"優しい"言葉も。ずっとずっと影で、優等生のお姉ちゃんに見下され続けた気持ちなんて、わからないでしょう?」




 アリシアが一歩、踏み出そうとした。




 リリムは手をかざして、それを止めた。




「近づかないで」




 自分でも驚くほど、静かな声だった。







 思い出すのは、あの食卓だ。




 まだ朝の光も差し込まない時間、父レオニスが紅茶を口に運んでから、リリムをじっと見た。その目を見るだけで、胃が重く沈んでいった。




「リリム、学院に入ってもう一年経つが、お前はまだ自分の力を十分に発揮できていないようだな」




 何度聞いたか、わからない。




 隣でアリシアが視線を伏せていた。助けてくれないことはわかっていた。彼女が何を言っても、父の言葉は変わらないから。アリシアはリリムの肩にそっと手を置いた。「大丈夫よ」と言ってくれた。でも、その「大丈夫」は、いつも届かなかった。




 届かなかったのではない。




 届いていたけれど、足りなかった。




 リリムが欲しかったのは、父の言葉だった。父が自分を見る目だった。アリシアのように――いや、それさえも望まなかった。ただ一度でいい。「よくやった」という声が聞きたかった。




 しかし父の目には、いつもアリシアがいた。リリムは映っていなかった。いや、映っていた。失望として、映っていた。







 あの日のことを、リリムはまだ夢に見る。




「アリシアが呼んでいる」と言われて、体育館横の倉庫に向かった。姉がわざわざ呼び出すのは珍しかったから、少し期待していた。励ましてくれるのかもしれないと思った。




 扉を開けた瞬間、四人の男子生徒が立っていた。




「アリシアに頼まれたのさ、リリム。学院の評判を守るために、お前みたいな落ちこぼれに制裁を加える必要があるってさ」




 その瞬間、世界が静止した。




 アリシアが。自分を。




 リリムは必死に抵抗した。何度も床に押し倒されながら、立ち上がろうとした。魔法の才能がないと言われ続けた体で、ただの力だけで抗った。しかし少女一人では、どうにもならなかった。




 床に伏して、ただ耐えた。早く終わってと、祈った。




 やがて男子たちが去り、薄暗い倉庫にリリムだけが残された。




 あの時、壊れたのだ。何かが。







 森の中の沢で、冷たい水に足を入れながら、死を考えた。




 それさえも上手くいかなかった。滑りやすい岩に足を取られて、崖から河原へと転げ落ちた。冷たい石の上に倒れ込んで、なんで生きているのかと思った。




 でも、そこに禁書があった。




 倒れた男の腕の中に。




 触れた瞬間、全てが流れ込んできた。古代の声が、闇の知識が、無数の言葉が。脳が焼けるような痛みの中で、リリムの髪が紫に染まった。




 そして力が生まれた。




 自分の中に、初めて確かなものが宿った。







「本当の私は、今の姿なのよ」




 リリムは言った。雨が強くなっていた。




「お姉ちゃんが理解できないなら、それでもいい。けれど、二度と私に近づかないで」




 アリシアは動かなかった。ただそこに立ち、リリムを見ていた。雨に濡れながら、それでも揺るがない。




 リリムの胸に、何か熱いものがせり上がってきた。




 怒りか。悲しみか。




 どちらでもあり、どちらでもなかった。




「絶望の黒翼」




 リリムは手を掲げた。背後に闇の翼が広がり、無数の黒い羽が生まれてアリシアに向かって放たれた。




 しかし羽はアリシアに届かなかった。彼女の周囲に光の防御が現れ、全てをかき消した。




 リリムは息を呑んだ。




(闇からの防御……)




 かつて学院で学んだ。高位の魔術で、強い素質と深い熟練が必要な術だと。自分とほとんど歳の変わらない姉が、それを難なく使いこなしている。




 わかっていた。アリシアは優秀だ。ずっと、ずっと前から。




 でも、これほどとは。




「わかった、リリム」




 アリシアが静かに言った。




「あなたの闇魔法は、私には通じないわよ」




 その言葉が、リリムの心をざわつかせた。恐怖ではない。それよりも深い、もっと根元にある何かが揺れた。




 アリシアは一歩前に進み、手を差し伸べた。




「まだ遅くないわ。私もお父さんも、あなたを待っている。一緒に帰りましょう」




 リリムは、その手を見た。




 細い手だった。魔法の訓練で少し硬くなった、それでも白くて綺麗な手。リリムが子供の頃、その手に引かれて歩いた。暗い廊下も、怖くなかった。




 でも。




「よくそんなことが言えるわね」




 リリムの声は震えていた。今度は隠せなかった。




「自分が何をしたのか、わかっているの? 絶対に許さない!」




 アリシアの表情が揺れた。一瞬だけ、何かが崩れるように。




「リリム、彼らに何かされたの?」




「とぼけないで!」




 声が割れた。闇の力が渦を巻き、雨が横殴りになった。




「お前も殺してやる!」




 その言葉は、リリム自身を驚かせた。




 殺す。お前も。




 言ってしまった。言えてしまった。




 リリムは黒い霧となった。その霧はゆっくりと薄れ、風に散り、やがて消えていく。




 逃げるように、消えた。







 アリシアは一人、その場に立っていた。




 雨が止んでいた。




 長く降り続けていた雨が、まるで何かが終わったように、静かに止んでいた。雲の間から一筋の光が差し込み、濡れた石畳を照らした。




 アリシアは妹が消えた場所を見つめた。まだそこに黒い霧の残滓があるような気がして、手を伸ばしかけて、止めた。




 触れるものは、もうない。




 頬を伝うものが、雨なのか涙なのか、アリシアにはわからなかった。ただ、胸の奥で何かがひび割れていく音がした。




(リリム)




 心の中でそう呼んだ。声には出せなかった。




 妹が抱えていたものの重さを、今さら知る。知りながら、何もできなかった自分の無力を、今さら知る。




 でも立ち止まるわけには、いかない。




 アリシアは目を閉じ、深く息を吸った。




 妹を救うために。必ず。







 その夜、リリムは遠い森の中を歩いていた。




 雨は止んでいた。月が出ていて、木々の間から細い光が降り注いでいた。足元には枯れ葉が積もり、踏みしめるたびに湿った音がした。




 腹の底には、まだ熱いものがあった。




 怒りとも、悲しみとも、呼びようのない何か。




 アリシアの顔が浮かんだ。差し伸べられた手が浮かんだ。




 リリムは首を振った。




「帰れない」




 声に出してみたら、思いのほか静かな声だった。




「もう、帰れない場所になったの」




 風が吹いた。紫の髪がなびいた。




 リリムは歩き続けた。




 どこへ向かうのか、まだわからなかった。ただ、力があった。初めて、自分の中に確かなものがあった。




 その力だけを頼りに、彼女は闇の中を進んでいった。





(次回、アルビオン王国の森へ――)




登場キャラクターのビジュアルはXで↓


https://x.com/Pur_Sorcerer




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