第36話 災厄の名はリリム
アリシア、リアナ、マリーの三人は支部長室へと通された。
重厚な扉が閉まる。
――ドン。
低い音が部屋に響いた。
アリシアは静かに室内を見回した。
そこは支部の中でも、最も被害が少ない場所のはずだった。
だが、その部屋ですら無傷ではない。
壁には深い亀裂が走り、天井近くには黒く焦げた跡が残されている。
床石の一部は砕け、巨大な力がぶつかったような痕跡が残っていた。
部屋の隅には壊れた棚が積み上げられ、回収された書類が雑然と置かれている。
そして何より――
空気が重かった。
戦いの残滓が、まだ消えていない。
まるでこの部屋そのものが、何かを隠そうとしているようだった。
その中央。
大きな執務机の前に、一人の男が立っていた。
四十代半ばほど。
整えられた黒髪。
鋭い青い瞳。
黒を基調とした長いコートには、銀糸の刺繍が施され、胸元には暁の剣の紋章を象った銀のバッジが輝いている。
洗練された身なり。
隙のない立ち姿。
(強い)
剣士としてではない。
権力者としての強さ。
相手を観察し、情報を引き出し、自分は決して本心を見せない種類の人間だった。
男は静かに一礼した。
「はじめまして」
落ち着いた低い声。
「暁の剣南支部、支部長代理を務めております。ガイアス・エルヴェインです」
アリシアたちも軽く頭を下げる。
ガイアスはソファを示した。
「どうぞ、お掛けください」
三人は腰を下ろした。
ガイアスも正面の一人掛けソファへ座る。
しばし沈黙。
互いに相手を観察していた。
先に口を開いたのは、ガイアスだった。
「まずは謝罪を」
彼は穏やかな笑みを浮かべる。
「せっかくお越しいただいたにも関わらず、現在の南支部は壊滅状態です」
「雇用の件についても、残念ながら進めることができません」
「体制が整い次第、改めて検討させていただきます」
丁寧な言葉。
だが。
アリシアは違和感を覚えた。
まるで最初から話を終わらせようとしている。
まるで――
これ以上質問をさせたくないように。
「壊滅状態、ですか」
アリシアが静かに言った。
「何が、あったのです?」
ガイアスは即答した。
「現在調査中です」
アリシアは心を読む魔法を発動した。
意識を集中する。
相手の表層意識へ触れる。
すると――
声が聞こえた。
(調査中ではない)
(原因はわかっている)
アリシアの瞳が僅かに細くなる。
だが表情は変えない。
(やはり嘘)
ガイアスは続けた。
「ある日突然、支部員たちが姿を消しました」
「支部長のライザックも、行方不明です」
リアナが息を呑んだ。
「全員……?」
「はい」
ガイアスは頷く。
「生死も不明です」
アリシアは、さらに問いかける。
「最後にライザック支部長と会ったのは、誰ですか?」
一瞬。
ガイアスの目が動いた。
ほんの一瞬だった。
アリシアは見逃さない。
「私です」
「最後の報告を受けたのも、私になります」
(面倒な女だな)
再び心の声が聞こえる。
(どこまで気付いている)
アリシアは確信した。
ガイアスは、何かを知っている。
「最後の報告とは?」
「通常業務です」
即答。
だが。
(リリムの件は話すな)
心の声が漏れる。
アリシアの鼓動が跳ねた。
リリム。
間違いない。
妹の名前だ。
だが今、ここで反応してはいけない。
アリシアは冷静を装う。
「なるほど」
隣ではマリーが、室内を見回していた。
そして床の亀裂を指差す。
「妙ですね」
ガイアスが視線を向ける。
「何がです?」
「戦闘跡です」
マリーは壁を見上げた。
「かなりの実力者同士が、戦ったように見えます」
「行方不明事件にしては、派手すぎませんか?」
沈黙。
ガイアスの笑みが僅かに固まる。
リアナも続けた。
「それに残留魔力が、あります」
「普通の戦闘ではありません」
「闇属性に近い反応です」
ガイアスの指先が、僅かに動いた。
アリシアは、その変化を見逃さなかった。
(余計なことを)
心の声。
(陽光の巫女か)
追い詰められ始めている。
アリシアはさらに踏み込んだ。
「支部員全員が消えた」
「支部長も消えた」
「建物は半壊した」
「それほどの事件なのに、なぜ公表されていないのです?」
ガイアスの笑みが消えた。
部屋の空気が変わる。
「混乱を避けるためです」
「確証のない情報を流せば、市民が不安になります」
模範解答。
だが心の中では。
(これ以上聞かせるな)
(早く帰らせろ)
焦りが見え始めていた。
アリシアは確信する。
リリムはここにいた。
そしてガイアスは、それを知っている。
だが今は証拠がない。
無理に追及すれば、警戒されるだけだ。
ガイアスが立ち上がった。
「申し訳ありません。本日はお引き取り、いただけますでしょうか」
丁寧な口調。
しかし実質的な退去命令だった。
アリシアも立ち上がる。
「……わかりました」
ガイアスは安堵したように見えた。
(帰ったら監視を付けよう)
(この女は危険だ)
アリシアは心の声を聞きながら微笑んだ。
(やっぱりね)
三人は支部長室を後にする。
廊下を歩く。
誰も口を開かない。
そして出口へ向かう途中。
アリシアが突然足を止めた。
「アリシア様?」
リアナが振り返る。
アリシアは壁の一点を見つめていた。
崩れた石壁。
誰も気に留めない場所。
だがその奥から。
微かに。
本当に微かに、魔力を感じた。
闇。
絶望。
そして――
リリム。
アリシアの瞳が、大きく見開かれる。
(間違いない)
胸が高鳴る。
(リリムは、ここにいた)
そして。
(まだ何かが、残っている)
アリシアは静かに拳を握った。
妹の手掛かりは、確実に得られつつあった。
夕暮れの空は、燃えるような橙色から、深い紫へと移り変わりつつあった。
暁の剣南支部を後にしたアリシアたちは、街道脇の森を抜ける道を無言で歩いていた。
背後には、壊滅した支部の黒い影がまだ見える。
風が吹く。
冷たい。
だがそれ以上に、アリシアの胸の中は冷え切っていた。
誰も口を開かない。
リアナも。
マリーも。
支部で得た情報が重すぎた。
やがてリアナが、遠慮がちに口を開く。
「アリシア様……」
アリシアは反応しない。
視線は前を向いたままだ。
「大丈夫ですか?」
その言葉に、アリシアの足がわずかに止まった。
だが返事はない。
代わりにマリーが一歩前へ出る。
「アリシア」
真剣な声だった。
「何か、わかったんだろ?」
沈黙。
風が木々を揺らす。
葉擦れの音だけが響いた。
アリシアはゆっくり目を閉じる。
そして小さく息を吐いた。
「……ガイアスの心を読んだわ」
リアナとマリーが顔を上げる。
アリシアの声は静かだった。
だが、その奥に張り詰めたものがあった。
「調査中という話は、嘘よ」
二人の表情が変わる。
アリシアは続けた。
「何が起きたのか、彼は知っている」
拳が震えていた。
本人すら気付いていないほど僅かに。
「私は見たの」
アリシアの脳裏に、ガイアスの記憶の断片が蘇る。
血。
悲鳴。
崩れ落ちる廊下。
剣を抜く兵士たち。
そして――
黒い魔力。
無数の死体。
立ち上がる亡者たち。
その中心に立つ、一人の少女。
アリシアは唇を噛んだ。
「南支部は襲撃された」
声が少し掠れる。
「たった一人の少女に」
マリーが目を見開いた。
「……一人だと?」
アリシアは頷く。
「兵士たちは、次々に殺された」
ガイアスの記憶が、再び脳裏をよぎる。
倒れる騎士。
血に染まる床。
死体に宿る黒い光。
そして再び立ち上がる亡者。
仲間だった者たちが、仲間を襲う。
地獄だった。
「死人操作……」
アリシアは呟く。
「殺された者たちは操られ、さらに兵士たちを襲った」
リアナの顔から、血の気が引く。
「そんな……南支部には、百人以上の戦士がいたはずです」
「ええ」
アリシアは苦しそうに頷く。
「それでも、止められなかった」
マリーが、思わず立ち止まった。
「馬鹿な……」
彼女は戦士だ。
だからわかる。
暁の剣南支部は、決して弱い組織ではない。
そこを一人で壊滅させるなど、常識では考えられない。
「支部長のライザックも、討たれた」
アリシアの声が震える。
「最後まで戦ったけれど……負けた」
再び沈黙。
重い沈黙だった。
リアナが恐る恐る尋ねる。
「その少女って、まさか……」
アリシアは答えない。
答えたくなかった。
違うと言いたかった。
勘違いであってほしかった。
だが。
ガイアスの記憶の中で。
その少女の顔だけは、はっきり見えてしまった。
忘れようがない。
幼い頃からずっと見てきた顔だった。
アリシアは目を閉じる。
胸が痛い。
苦しい。
だが言わなければならない。
「……リリムよ」
声が震えた。
リアナが息を呑む。
マリーも言葉を失った。
風だけが吹いている。
誰も何も言えない。
アリシアは俯いた。
脳裏に浮かぶのは、幼い頃のリリムだった。
笑っていた妹。
泣いていた妹。
姉を慕ってくれた妹。
だが、ガイアスの記憶の中にいた少女は違う。
血の海の中に立ち。
亡者を従え。
南支部を滅ぼした存在だった。
「そんな……」
リアナが呟く。
「本当に、リリムさんが……」
アリシアは答えない。
答えられなかった。
代わりにマリーが低く言う。
「ライザックを、倒したというのか」
その声には驚愕が滲んでいた。
ライザック。
暁の剣南支部長。
王国でも名の知れた強者だ。
その男が敗れた。
一人の少女に。
アリシアは小さく頷く。
「ガイアスは、リリムの名前を知っていた」
その言葉に、二人が顔を上げる。
「知っていた?」
「ええ」
アリシアの目が細くなる。
「なのに隠した」
「なぜ……?」
リアナが呟く。
「わからない」
アリシアは首を振った。
「でも、何かを隠している」
ガイアスの冷静すぎる態度。
嘘の説明。
そしてリリムという名前への反応。
偶然ではない。
必ず何かある。
夕陽が地平線へ沈み始める。
長い影が街道へ伸びた。
アリシアは空を見上げた。
胸の奥が締め付けられる。
(リリム……)
妹を見つければ救える。
そう思っていた。
だが違った。
南支部の惨状を知った今。
もう目を背けることはできない。
リリムは災厄になりつつある。
このまま放置すれば、さらに多くの人が死ぬ。
アリシアは、拳を強く握り締めた。
爪が掌に食い込む。
痛みすら感じなかった。
(お願い……)
心の中で呟く。
(もう誰も、傷つけないで)
だが返事はない。
沈みゆく夕陽だけが、静かに世界を赤く染めていた。
アリシアは知ってしまった。
これは妹を探す旅ではない。
妹を止めるための旅なのだと。
そしてその事実は、夕闇よりも深く彼女の心に、影を落としていた。
つづく…
(次回、黒幕…それは吸血鬼?)
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闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
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