第34話 勝利の先に見えた壁
夕暮れが近づいていた。
フェンリッド近郊の森は、昼の熱気を失い始め、木々の隙間から差し込む橙色の光が地面をまだらに染めている。
依頼を終えたアイリとマイアは、街へ戻る獣道を歩いていた。
激戦の名残は、まだ身体に残っている。
服には血と泥がこびり付き、汗が肌に張り付いて気持ち悪い。
マイアが大きく伸びをした。
「はぁ……やっと終わったわね」
「予想より手こずったがな」
アイリも肩を回しながら答える。
毒傷は癒えていたが、全身に疲労が残っていた。
その時だった。
木々の間から陽光が反射する。
きらり、と何かが光った。
「ん?」
マイアが足を止める。
二人の視線の先には、小さな泉があった。
透き通る水面は鏡のように空を映し、周囲には白い花々が咲いている。
風が吹くたびに木漏れ日が揺れ、水面に無数の光の粒が踊った。
「まあ……綺麗な泉ね」
マイアが目を輝かせる。
アイリも珍しく、感心したように頷いた。
「確かにな」
しばらく泉を眺めた後、アイリが口を開く。
「汗を流していくか?」
「賛成♪」
マイアは嬉しそうに笑った。
二人は周囲に人の気配がないことを確認すると、汚れた装備を外し始める。
革鎧を脱ぎ。
血の付いた上着を脱ぎ。
汗で張り付いた服を脱ぎ捨てる。
やがて二人は、泉へと足を踏み入れた。
「きゃあっ!」
マイアが肩をすくめる。
「冷たい!」
「確かに冷たいな」
アイリも苦笑する。
だが次第に身体が慣れてくると、その冷たさが心地よく感じられた。
戦いで火照った身体が、ゆっくりと癒されていく。
マイアは両手で水をすくい、顔を洗った。
「生き返るわ……」
「街の宿屋より、快適かもしれないな」
珍しくアイリも冗談を口にする。
その時だった。
アイリの表情が変わった。
「……」
視線が森の奥へ向く。
マイアもすぐに異変に気付いた。
「アイリ?」
「誰かいる」
低い声だった。
マイアの身体が緊張する。
(まさか……覗き?)
慌てて胸元を隠しながら、周囲を見回す。
「私も気配を感じるわ」
木々が揺れる。
葉擦れの音。
そして――
森の奥から、一人の女性が姿を現した。
長い金髪。
夕陽を受けて黄金色に輝いている。
整った顔立ち。
透き通るような白い肌、青く美しい瞳。
まるで絵画から抜け出してきたような美女だった。
女性もまた水浴びの最中だったのか、何も身につけていない。
だが不思議といやらしさはなく、むしろ神秘的な雰囲気すら感じさせた。
女性は微笑む。
「あら、こんにちは」
マイアが慌てて、頭を下げる。
「こ、こんにちは」
女性は泉を見渡した。
「綺麗な泉ですわね」
穏やかな声だった。
「お二人も、水浴びですか?」
「はい」
マイアが答える。
「依頼帰りで、汗だくだったので」
「そうでしたの」
女性は柔らかく笑った。
「お疲れ様です」
そのやり取りを聞きながらも、アイリは一言も発しない。
ただじっと女性を見つめていた。
観察するように。
探るように。
やがて口を開く。
「お前、何者だ?」
マイアが慌てた。
「ちょっと、アイリ!」
女性は小さく笑う。
怒る様子はない。
「構いませんわ」
そして優雅に一礼した。
「私は、エレノア。この地を旅している者です」
「旅人?」
「ええ」
エレノアは二人を見つめる。
その視線は穏やかだ。
だがどこか、底が見えない。
「あなた方は、戦士ですわね。その鍛えられた身体を見ればわかります」
マイアは笑った。
「よくわかりましたね」
エレノアは頷く。
しかし、アイリの警戒は解けない。
「お前はここで、何をしていた?」
マイアが呆れる。
「だから何で、そんなに喧嘩腰なのよ」
エレノアは、静かに答えた。
「ただの水浴びです」
「お疲れのところ、お邪魔してしまいましたね」
そう言うと、彼女は軽く会釈した。
「そろそろ私は、失礼します」
「ええと……」
「あっ、私はマイアです」
「またお会いしましょう、マイアさん」
エレノアは微笑む。
そして視線をアイリへ向けた。
「アイリさんも」
アイリは何も答えなかった。
ただ黙って見つめ返す。
その視線を受けても、エレノアの笑みは崩れなかった。
やがて彼女は、森の奥へと去っていった。
しばらくして。
マイアがため息をつく。
「ちょっと、アイリ。さすがに失礼だと、思うわよ」
アイリは、森の奥を見たまま答えた。
「あいつ……変だった」
「変?」
「魔物に似た匂いがした」
マイアが目を丸くする。
「え?」
「人間じゃないかもしれない」
「本当なの?」
アイリは首を振った。
「わからない」
「わからないの!?」
マイアが思わず叫ぶ。
「だったらなおさら、あんな態度は駄目よ」
「情報を集めるなら、もっと友好的にしないと」
アイリは少し気まずそうに、視線を逸らした。
「……気を付ける」
一方その頃。
森の奥。
泉から離れた場所で、二人の侍女が待っていた。
エレノアが姿を現すと、すぐに駆け寄る。
「お帰りなさいませ」
「ありがとう」
エレノアは微笑み、差し出されたタオルを受け取った。
濡れた髪を拭きながら、ふと先ほどの少女を思い出す。
(アイリ……)
美しい瞳。
鋭い観察眼。
そしてあの警戒心。
エレノアの口元がわずかに緩んだ。
(あの娘……勘が鋭いわね)
普通の人間なら気付かない。
だが彼女は、何かを感じ取っていた。
エレノアは夕空を見上げる。
「面白い子」
そう呟き、小さく笑った。
その後。
街へ続く道を歩きながら、マイアはずっと考えていた。
(エレノア……)
聞いたことがある名前だった。
どこでだったか。
思い出せない。
だが確かに知っている。
胸の奥に小さな違和感が残る。
夕陽は沈み始め、フェンリッドの街灯が遠くに見え始めていた。
そしてマイアはまだ知らない。
その名がやがて、自分たちの運命を大きく揺るがす存在であることを。
冒険者ギルドの重い扉が開いた。
その瞬間だった。
「帰ってきたぞ!」
誰かの叫び声が響く。
次の瞬間、ギルド中が一斉に沸き上がった。
「本当に生きて帰ってきやがった!」
「デススネークを潰したって話は、本当だったのか!」
「クラッシャー・ゴードンまで、倒したんだろ!?」
酒場を兼ねた広間が、歓声で揺れる。
椅子から立ち上がる者。
テーブルを叩く者。
口笛を吹く者。
誰もが二人へ、視線を向けていた。
その中心を、アイリとマイアはゆっくり歩く。
激戦から帰還したばかりの二人の身体には、まだ包帯が巻かれている。
服もところどころ破れたままだ。
それでも。
彼女たちは生きて戻った。
そして勝った。
その事実だけで十分だった。
カウンターの奥では、ギルドマスターのガルヴァが腕を組んで待っていた。
大柄な男の顔に、珍しく笑みが浮かんでいる。
「よく帰ったな」
低い声が広間に響く。
歓声が少し静まった。
ガルヴァはカウンターの下から小さな箱を取り出した。
箱を開く。
中には二つのバッジ。
黒鉄を基調としながらも、翼を広げたグリフォンが精巧に刻まれている。
「アイリ、マイア」
二人は前へ進む。
ガルヴァはバッジを手に取った。
「お前たちは今回の依頼において、デススネーク壊滅という極めて大きな功績を挙げた」
ギルド内が静まり返る。
誰もがその言葉を聞いていた。
「よって、本日付けで――」
ガルヴァは二人の胸元に、バッジを取り付けた。
「グリフォンランクへ昇格とする」
一瞬の静寂。
そして。
「おおおおおおおおおおおっ!!」
爆発するような歓声。
酒瓶が打ち鳴らされる。
拍手が広間を埋め尽くす。
「最年少クラスじゃねぇか!」
「とんでもない新人だな!」
「もう新人じゃねぇよ!」
マイアは思わず苦笑した。
「すごい歓迎ね……」
「うるさいくらいだな」
アイリも小さく笑う。
だが。
その笑みは長く続かなかった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、あの男だった。
命総天昇剣の使い手。
黒龍。
圧倒的だった。
今思い返しても、まともに勝負になっていたとは思えない。
自分の攻撃は読まれ。
動きは見切られ。
剣は届かなかった。
もしマイアがいなければ。
もしあの大技がなければ。
自分はあの場で敗れていた。
確実に。
アイリは無意識に拳を握った。
胸元の新しいバッジが指先に触れる。
周囲から見れば栄光の証。
だが今の彼女には違った。
これは到達点ではない。
足りないことを突きつけられた証だ。
「……どうしたの?」
隣でマイアが尋ねた。
アイリは少しだけ視線を落とす。
「いや」
短く答える。
しかしマイアは見逃さなかった。
「黒龍のこと?」
アイリは沈黙した。
それが答えだった。
マイアは小さく息を吐く。
「あの人は、強かったわね」
「ああ」
「でも私たちは、生き残った」
アイリはゆっくり顔を上げた。
マイアが笑っている。
戦いの傷が残る顔で。
それでも前を向いていた。
「次は勝てば、いいじゃない」
あっさりと言う。
アイリは思わず苦笑した。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないわ。でもあなたなら、諦めないでしょう?」
その言葉に。
アイリの胸の中で燻っていた悔しさが、少しだけ別の熱へ変わる。
悔しい。
だから強くなる。
それだけだ。
アイリは新しいバッジを握りしめた。
「……ああ」
静かに呟く。
「あいつを超える」
黒龍を。
父を。
そして自分自身を。
歓声に包まれるギルドの中で。
アイリの瞳には、新たな決意の炎が静かに灯っていた。
つづく…
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