第29話 毒は斬れない
黒獅子の渓谷から戻った頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
疲労はある。
だが、それ以上に妙な高揚感があった。
ギルドの重い扉を開いた瞬間――。
ざわめきが止まる。
視線。
酒を飲んでいた冒険者たちが、一斉にこちらを見た。
「……おい」
誰かが呟く。
「戻ってきたぞ」
「嘘だろ……」
「ダークハウンドの巣だぞ?」
ざわつきが広がる。
その中央。
腕を組んだガルヴァが、カウンターの奥で待っていた。
隣には調査員らしき男。
ガルヴァの鋭い目が二人を見据える。
「戻ったか」
低い声。
「無事って顔じゃないな」
アイリの服には裂け目があり、マイアの肩にも乾いた血が付いている。
だが。
二人とも立っていた。
ガルヴァが僅かに口元を上げる。
「……で?」
アイリが腰の袋を無造作に置く。
中から転がったのは、黒い牙。
シャドーハウンドの証だった。
ギルド内が静まる。
「倒した」
短い言葉。
だが、それだけで十分だった。
「マジかよ……」
「新人だろ?」
「化け物か?」
周囲がざわつく。
ガルヴァは牙を拾い、しばらく黙る。
そして。
「ふっ」
小さく笑った。
「本当にやりやがったか」
腕を組み直す。
「普通、オーガランク相当の依頼なんて、数年かけて辿り着く」
視線がアイリへ向く。
「文句は無い」
そして木箱を取り出した。
重厚な黒木の箱。
中には黒鉄のバッジが二つ。
力強いオーガの紋章が刻まれている。
「これが、オーガランクの証だ」
周囲から息を呑む音。
「新人でオーガかよ……」
「あり得ねぇ……」
マイアが少し驚いたように目を瞬かせた。
「本当に……?」
「成果が成果だ」
ガルヴァが答える。
「お前らは、実力を証明した」
アイリはバッジを受け取り、じっと見た。
黒鉄。
ずしりと重い。
「……重いな」
ガルヴァが少し笑う。
「その重さが責任だ」
「責任?」
「強い奴には、人が期待する」
少し間。
「死ぬなよ」
アイリは少し考えてから言った。
「なるほど。重い理由はわかった」
真面目な顔。
だが次の一言で空気が変わる。
「武器として投げても強そうだ」
「やめろ」
ガルヴァが即答した。
周囲から笑いが漏れる。
マイアが額を押さえる。
「アイリさん……それバッジだから」
「そうなのか」
本気だった。
ガルヴァが苦笑する。
「変な奴だな、お前」
その時。
マイアがバッジを、胸元で握りしめながら言った。
「これで……デススネーク討伐を受けられるわね」
空気が少し変わる。
ガルヴァの目が細くなる。
「本気か?」
「もちろんだ」
アイリが即答する。
「潰す」
短い。
だが、迷いがない。
ガルヴァは少し考え、深く息を吐いた。
「……わかった」
翌朝。
冒険者ギルドの一室。
テーブルの上には地図が広げられていた。
ガルヴァが指を置く。
「フェンリッド郊外の森」
指先が止まる。
「ここにデススネークの隠れ家が、あると見られている」
「見られている?」
マイアが眉をひそめる。
「確定じゃないの?」
「奴らは拠点を変える」
ガルヴァが苦い顔をした。
「見つけても、空の可能性がある」
アイリが腕を組む。
「面倒だな」
「相手は盗賊団だ。正面から待っててくれるほど、優しくない」
ガルヴァの声が低くなる。
「特に気をつけろ」
一人の名前を口にする。
「クラッシャー・ゴードン」
空気が少し重くなる。
「デススネークの頭だ」
「強いの?」
マイアが尋ねる。
「強いだけじゃない」
ガルヴァの目が鋭くなる。
「仲間を売らない」
沈黙。
「昔、部下が捕まった」
指が机を叩く。
「そいつ、自分で牢を壊して連れ戻した」
「……」
「看守が三人死んだ」
部屋が静かになる。
アイリの目が細まった。
「強そうだな」
少し。
嬉しそうだった。
マイアが横を見る。
(……この人、危険なもの好きよね)
ガルヴァが続ける。
「あと、毒使いがいる」
奥から調合師が革袋を持ってくる。
「解毒剤だ」
「一回でも貰えば、動けなくなる可能性がある」
アイリが首を傾げた。
「毒って、斬れないのか?」
沈黙。
調合師が固まる。
ガルヴァも止まる。
「……斬れない」
「そうか」
真顔。
マイアが吹き出しそうになる。
「毒は避けるものよ」
「なるほど」
本気で納得した顔だった。
ガルヴァは疲れた顔になる。
「……大丈夫かこいつ」
「剣の腕は本物よ」
マイアが苦笑した。
「常識がないだけで」
昼過ぎ。
二人はフェンリッド郊外の森へ入った。
空気が変わる。
薄暗い。
木々が空を覆い、昼だというのに光が届かない。
湿った土。
腐葉土の臭い。
そして。
違和感。
木の幹には刃物の跡。
焚き火跡。
割れた酒瓶。
折れた矢。
誰かがいた痕跡。
「……人の匂いがする」
アイリが呟く。
「ええ」
マイアがしゃがみ込む。
地面を見る。
「複数人」
指で足跡をなぞる。
「しかも荒い歩き方」
「わかるのか?」
「商人じゃない」
立ち上がる。
「盗賊の動きね」
デススネークのアジトへ近づくにつれ、風が止む。
虫の声がない。
鳥の羽音もない。
ただ、自分たちの足音だけが、湿った土の上で小さく響いていた。
木々の隙間。
その先に、古びた建物の影が見える。
「……あったな」
アイリが低く呟く。
剣の柄へ手を置く。
マイアも槍を握り直した。
アイリの足が、不意に止まる。
「待て」
声が低い。
「何?」
「静かすぎる」
周囲を見る。
風が吹いていないわけじゃない。
葉は揺れている。
なのに。
音だけがない。
不自然だった。
そして。
アイリの目が細くなる。
「地面」
足元。
一部だけ、不自然に土が固められていた。
踏み荒らされた跡。
だが、誰も通っていないように整えられている。
マイアがしゃがみ込む。
土を指先で払う。
――金属。
細い仕掛けが埋まっていた。
「……罠ね」
その瞬間。
カチッ。
小さな音。
マイアの表情が変わる。
「伏せて!」
反射的にアイリが飛ぶ。
地面が裂けた。
次の瞬間。
無数の鉄棘が突き上がる。
ギギギギッ!!
鋭い金属音。
アイリは後方へ回転しながら着地。
だが。
「っ……!」
マイアが小さく息を呑む。
太ももを浅く裂かれていた。
血が滲む。
アイリがすぐ駆け寄る。
「大丈夫か」
「平気……」
そう言いながらも、眉が僅かに寄る。
傷口を見たマイアの顔が曇った。
赤い血。
その周囲が、少し黒ずんでいる。
「……毒」
アイリの目が変わる。
「毒か?」
「たぶん弱いやつ。でも放置は危険」
革袋から解毒薬を取り出す。
調合師から受け取ったものだ。
飲み込む。
数秒。
息を吐いた。
「……効いたみたい」
アイリが小さく頷く。
「殺す気だな」
低い声。
怒りが滲んでいた。
マイアが立ち上がる。
「当然よ。盗賊のアジトだもの」
その目が周囲を見る。
そして。
「止まって」
槍を前へ出す。
木々の間。
細い糸が浮かんだ。
ワイヤー。
その先には。
頭上に吊られた岩。
さらに木陰には矢の発射口。
「……すごい数」
「歓迎されてるな」
アイリが不機嫌そうに言う。
マイアは槍を逆手に持つ。
「少し試す」
遠くの石を突く。
カチッ。
次の瞬間――。
ゴゴゴッ!!
巨大な岩が落下。
同時に。
ヒュン! ヒュン!
毒矢が森を切り裂く。
木の幹へ突き刺さり、黒い液が滲んだ。
アイリが目を細める。
「当たったら、面倒そうだな」
「死ぬわ」
即答だった。
アイリは少し考えた。
「……毒って、斬れないんだったな」
「まだ言ってるの?」
思わず笑いそうになるマイア。
その直後。
アイリがまた足を止める。
「まだある」
視線の先。
建物入口。
崩れた石畳。
不自然だった。
一部だけ、妙に綺麗だ。
マイアが目を細める。
「踏ませるために置いてる」
しゃがみ込み。
石畳の隙間を見る。
細い糸。
上へ伸びている。
見上げれば。
梁の影に積まれた岩。
壁の穴。
毒矢。
「入口全部、罠ね」
アイリが舌打ちする。
「面倒すぎる」
「だから生き残って、きたんでしょうね」
マイアが槍の柄を伸ばす。
遠くから石畳を押した。
――作動。
轟音。
岩が落ちる。
毒矢が雨のように飛ぶ。
木が砕ける。
土煙。
そして。
静寂。
マイアが目を細めた。
「……終わり?」
「いや」
アイリが扉を見る。
「下」
扉の隙間。
また糸。
マイアが苦笑した。
「性格悪いわね」
アイリが剣先を滑り込ませる。
慎重に。
糸を持ち上げる。
マイアが扉を押す。
ギィ……
古い音。
開く。
静寂。
何も起きない。
二人が一瞬だけ息を吐いた。
――その時。
ヒュン!!
「伏せろ!」
最後の毒矢。
天井から落ちる。
アイリがマイアを引き倒す。
矢が背後の壁へ突き刺さった。
沈黙。
数秒。
マイアが苦笑する。
「……最後まで、性格悪いわね」
アイリが剣を抜く。
瞳が冷える。
「もういい」
低い声。
「全部、潰す」
(次回、歓迎するぜ、侵入者)
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