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紫の邪術師と深紅の賢者 ~落ちこぼれ妹は闇落ちし、姉に追われながら死人を従える~  作者: Nagiousen


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第28話 満月閃

低い唸り声が、森の奥から響いた。

空気が震える。

腹の底を直接揺らされるような重低音だった。


それは威嚇ではない。

――狩りの開始を告げる声だ。

次の瞬間、シャドーハウンドが咆哮した。


轟音。


衝撃波が周囲の木々を激しく揺らし、地面の砂が跳ね上がる。


マイアは反射的に腕で顔を庇った。


肺が押し潰される。

ほんの一瞬、呼吸が止まった。


その隙を、シャドーハウンドは逃さない。


巨体が沈む。

前脚に力を溜めた姿は、巨大な弓そのものだった。


――来る。


次の瞬間には、もう目の前にいた。

速い。

巨体とは思えない速度で空気を裂き、漆黒の牙がマイアへ迫る。


だがマイアは冷静だった。

槍を回転させる。

金属音。

火花が弾け、夜闇を一瞬だけ照らした。


しかし、止まらない。


着地と同時に、シャドーハウンドの尾が唸りを上げる。

影の鞭。

地面を裂きながら横薙ぎに迫った。


「っ――!」


マイアが身を沈める。

尾が髪先を掠めた。


直後、背後の大木が轟音と共に裂ける。


アイリの目が見開かれた。

……直撃していたら、人間など一ひとたまりもない。


シャドーハウンドは、間髪入れず距離を詰める。


右爪。

牙。

左爪。

猛攻。


そのすべてが致命傷になり得る速度だった。


だがマイアは退かない。

最小限の動きでかわし続ける。

月光が槍先を白く照らした。


「――響華獅光流」


静かな声。

呼吸が変わる。

マイアの周囲だけ、空気が澄み渡ったようだった。


「半月閃」


槍が弧を描く。

白銀の軌跡が夜を裂いた。


次の瞬間、シャドーハウンドの脇腹が深く裂ける。

黒い血飛沫。

噴き出した瘴気が地面を腐らせ、草木を黒く染めた。


シャドーハウンドが低く唸る。

だが、その赤い瞳から殺意は消えていない。

むしろ濃くなっていた。


黒霧が溢れ出す。

傷口から噴き出した闇が、生き物のようにマイアへ絡みついた。


「……!」


アイリが息を呑む。


空気が変わった。

冷たい。

森全体が、深い水の底へ沈んでいくような圧迫感。


マイアの足が止まる。

視界が歪む。

耳元で、無数の囁き声が響いた。


――守れなかった。

――お前は失った。

――また失う。


胸の奥をえぐるような声。

槍を握る手がわずかに震えた。


シャドーハウンドが笑ったように牙を剥く。


アイリは剣へ手を掛けた。

助けに入るべきか――


だが、その瞬間。

マイアが静かに息を吸った。


長く。

深く。

そして、目を開く。

白銀の光が瞳に宿った。


「……くだらないわね」


槍先が輝く。

闇を裂くように、白光が広がった。


黒霧が悲鳴のような音を立てて崩れていく。


マイアの額には汗が浮かんでいた。

呼吸もわずかに乱れている。

それでも、膝は折れない。


「この程度で、私の心を折れると思った?」


シャドーハウンドの動きが止まった。

ほんの一瞬。


その隙を、マイアは逃さない。


地面を蹴る。

疾走。


白銀の槍が月光を引き裂いた。


「――響華獅光流」


夜空の雲が流れる。

満月が現れた。

その光が、槍へ吸い込まれていく。


森が静まり返った。

風すら止まる。


アイリは息を呑む。

本能が理解していた。


――あれは、危険だ。


マイアが槍を振り上げる。

静かに。

圧倒的な威圧感と共に。


「満月閃」


振り下ろされた一撃が、夜を両断した。


白銀の円光。

衝撃波が森を揺らす。

シャドーハウンドが咆哮し、迎え撃つように飛び込む。

爪と光刃が激突した。


轟音。


次の瞬間、マイアの肩から血が散った。

アイリの表情が変わる。


「マイア!」


だが、止まらない。

満月閃は、そのままシャドーハウンドの身体へ深々と食い込んだ。

黒い巨体に、巨大な裂け目が走る。


シャドーハウンドが絶叫した。

瘴気が噴き出す。

なおも牙を剥き、最後の力でマイアへ噛みつこうとする。


だが。

白銀の光が、闇を押し潰した。


巨体が崩れる。

地響き。

森に、不気味な静寂が落ちた。


シャドーハウンドの身体が、黒霧となって崩れていく。

残ったのは、脈打つように揺らめく黒い結晶だけだった。


マイアは槍を構えたまま動かない。

完全に消滅するまで、視線を外さなかった。


やがて、ゆっくり槍を下ろす。

肩から血が滴っていた。

それでもマイアは、小さく笑う。


「……これが、“満月閃”よ」


夜風が吹き抜けた。

焦げた臭いと瘴気だけが漂う。


しばらく、誰も言葉を発しなかった。


アイリは静かに剣を下ろす。

胸の鼓動が、まだ速い。

正直、自分でもわからなかった。

あの呪いの中で、平然と立ち続けられる人間がいるなど。


「……すごいな」


思わず漏れた言葉だった。


マイアが振り返る。

少しだけ誇らしそうに笑う。


「響華獅光流槍術。少しは理解できたかしら?」


「ああ……中距離では、ほとんど隙がない」


アイリは黒結晶へ視線を向ける。


「だが、建物の中みたいな狭所ならどうする?」


マイアは肩へ槍を担いだ。


「その時は、あなたに任せるわ」


軽い調子だった。

だがアイリは眉をひそめる。


「本気で言ってるのか?」


「あなた、強いもの」


当然のように言われ、アイリは言葉に詰まった。

マイアが小さく首を傾げる。


「……あら、嬉しくない?」


「そうじゃない。ただ――」


アイリは少し迷い、目を伏せた。


「他人を守りながら戦った経験がない。囲まれた時、自分がどこまで動けるか……正直、わからない」


マイアは一瞬目を丸くする。

それから、ふっと表情を柔らかくした。


「あなた、案外真面目なのね」


そう言って槍を軽く捻る。

金属音。


長槍が二つに分離した。


短槍と短棍。

月光を反射し、白く輝く。


「狭所では、こうして戦えるわ」


軽く振る。

空気が鋭く裂けた。


アイリの目が驚きに見開かれる。


「……そんな構造だったのか」


「冗談半分だったのだけれど」


マイアは苦笑した。


その時だった。

ガサリ。

近くの茂みが揺れる。

空気が張り詰めた。


アイリの手が即座に剣の柄へ伸びる。


だが現れたのは、武器を持たない中年男だった。

地味なコート。

手には冒険者ギルドの紋章入り手帳。


男は二人を見るなり、深く息を吐いた。


「……生きておられたか」


その声には、安堵と驚愕が混じっていた。


「誰だ」


アイリの視線は鋭い。

男は慌てて頭を下げる。


「失礼しました。冒険者ギルド調査員、マイゼルです」


そう名乗ると、黒結晶を見て顔色を変えた。


「本当に……シャドーハウンドを討伐したのですね」


視線が、ゆっくりマイアへ向く。

特に肩の傷を見た瞬間、息を呑んだ。


「あの呪いを受けて、生還した……」


マイアは肩をすくめる。


「少し頭痛がする程度よ」


「信じられない……」


マイゼルは呆然と呟いた。

それから慌てて咳払いする。


「こ、今回は依頼達成確認のため、後方から同行しておりました。正式に討伐完了です」


アイリはわずかに眉をひそめたが、今は追及しなかった。

マイアは槍を収める。


「なら、報酬を貰いに帰りましょうか」


夜風が森を抜ける。

満月だけが、静かに二人を照らしていた。



つづく…


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