第23話 墓前の誓い
廊下を走りながら、リリムは自分の呼吸が荒くなっているのを感じていた。
喉の奥に、鉄の味が広がる。
一歩踏み出すたび、足が重い。
指先は痺れ、視界の端が時折黒く欠けた。
魔力の枯渇は、体力の限界と直結する。
身体は、とうに悲鳴を上げていた。
それでも――止まれない。
遠くから響く怒号が、少しずつ近づいてきていた。
「侵入者を探せ!!」
「上階も確認しろ!!」
鎧の擦れる音。
石畳を叩く足音。
リリムは歯を食いしばった。
(……まだ、倒れるわけにはいかない)
その時。
「こっちよ」
ヴァレリアが角を曲がり、細い通路へ踏み込んだ。
リリムもその背中を追う。
本来の廊下よりも狭い。
天井も低い。
薄暗く、湿った空気が漂っていた。
ヴァレリアが小声で言う。
「使用人用の裏通路よ。正面より見つかりにくい」
「出口まで、あとどれくらいですか」
リリムが息を切らしながら尋ねる。
「二つ角を曲がれば裏口」
少しだけ間が空く。
「……のはずよ」
リリムが眉をひそめた。
「“はず”というのが、少し不安です」
「こういう時は、自信満々に言えば安心できるものよ」
「安心できません」
「でも、少し気が紛れたでしょう?」
ヴァレリアが肩越しに小さく笑った。
リリムは一瞬だけ目を丸くして――。
ほんの少し、口元を緩めた。
通路を進むにつれ、怒号が遠ざかっていく。
捜索隊は主要な廊下を探しているのだろう。
裏通路には、まだ気づいていない。
一つ目の角を曲がる。
二つ目。
その瞬間。
ヴァレリアの足が止まった。
リリムも反射的に止まる。
「どうしました?」
ヴァレリアは答えない。
ただ、通路の先を見つめていた。
古びた木製の扉。
金属の蝶番は錆びついている。
下の隙間から、冷たい夜気が流れ込んでいた。
「……裏口ね」
ヴァレリアが静かに近づく。
そっと耳を当てた。
沈黙。
その時――。
カン。
遠くで金属音。
続いて、鎧の擦れる音が聞こえた。
二人は息を止める。
外だ。
巡回兵。
「異常なし!」
男の声。
足音が近づく。
リリムの身体が強張った。
今戦えば――。
勝てるかわからない。
いや。
今の自分では、まともに立てるかすら怪しかった。
ヴァレリアが無言で、リリムの肩を軽く押す。
――動かないで。
そう言われた気がした。
足音が、扉の前を通り過ぎる。
一秒。
二秒。
やがて。
音が遠ざかっていった。
ヴァレリアが小さく息を吐く。
「……今よ」
ゆっくりと扉を開く。
蝶番が、きい、と小さく鳴った。
二人は身構える。
だが――。
誰もいない。
扉の向こうに広がっていたのは、夜の路地だった。
石造りの壁。
細く伸びる暗い路地。
月明かりが、静かに石畳を照らしている。
冷たい夜風が、二人の頬を撫でる。
リリムは深く息を吸った。
湿った石の匂い。
夜露の気配。
冷たい空気。
肺が満たされる。
空気が――こんなにも美味しいなんて、思わなかった。
生きている。
それだけで、胸が少し軽くなる。
その時だった。
ゴォン――。
鐘が鳴った。
今までとは違う。
短くない。
長い。
重い。
まるで地の底から響くような、不吉な音。
ヴァレリアの足が止まる。
その顔から、血の気が引いた。
「………」
リリムが顔を上げる。
「どうしたんですか?」
短い沈黙。
ヴァレリアが、苦々しく呟いた。
「特級警報よ」
空気が凍る。
「南支部の警報じゃない」
その赤いい瞳が、夜空の向こうを見つめていた。
晴天の下、村の墓地には静かな風が吹いていた。
小高い丘の上に作られた新しい墓。その前に、小さな白い花が供えられている。
――ミリアの墓だった。
村人たちは言葉少なに集まり、静かに手を合わせていた。泣き崩れる者はいない。ただ、誰もが疲れ切った顔をしていた。
失ったものが、大きすぎた。
リアナは墓前に立ち、震える指先を胸の前で組んだ。
「ミリア……どうか、安らかに」
声が震える。
涙が頬を伝った。
「この世で叶わなかった幸せを……どうか、次の世界で見つけてください……」
ぽたりと、涙が土に落ちた。
その後ろでは、アリシアとマリーも静かに祈りを捧げていた。
滝の側で見た、あの絶望。
冷たくなったミリアの身体。
助けられなかった後悔。
そのすべてが、まだ胸の奥に沈んでいる。
風が吹き抜け、墓地の木々を揺らした。
誰も、しばらく動かなかった。
葬儀が終わる頃には、村はもう「別れの準備」を始めていた。
隣町から来た馬車に、荷物が積み込まれていく。
子どもを抱えた母親。
荷物を背負う老人。
俯いたまま家を離れる村人たち。
村の中心には、かつての賑わいはなかった。
焼けた家屋。
崩れた柵。
荒れ果てた畑。
くわは土に刺さったまま放置され、荷車は誰にも使われず軒先に転がっている。
男たちが担っていた仕事は、誰も代われなかった。
狩りも、防衛も、畑仕事も。
村を支えていた柱が、ごっそり失われてしまったのだ。
このままでは冬を越えられない。
だから村人たちは、生き延びるために故郷を捨てるしかなかった。
アリシアは、黙って荷運びを手伝っていた。
「……王国の助成金がなければ、移住すら無理だったわね」
その声は、どこか疲れていた。
リアナは焼けた家々を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
本当なら。
ここには、いつもの日常があったはずだった。
ミリアが笑っていて。
みんなで畑を耕していて。
未来が、あった。
最後の馬車が村を去った。
静寂だけが残った。
風が吹く。
焼けた木材がきしみ、誰もいない家々が軋んでいた。
アリシアは荷物をまとめながら、リアナを振り返る。
「リアナ」
真剣な声だった。
「ミリアはここに眠っている。でも……あなたが一人で村に残るのは無茶よ」
リアナは黙っていた。
アリシアは続ける。
「お願い。隣町へ移住して」
少しだけ、声が強くなる。
心配だった。
これ以上、誰も失いたくなかった。
しかし。
リアナはゆっくり顔を上げた。
涙の跡がまだ残っている。
それでも、その瞳には強い意志が宿っていた。
「……いえ」
静かな声。
けれど揺らがない。
「私は、隣町には行きません」
「リアナ!」
思わずアリシアの声が強くなる。
だが、リアナは怯まなかった。
墓の方を見る。
小さく息を吸う。
「……ミリアなら」
その言葉に、空気が止まった。
「きっと、前に進めって言います」
唇を噛む。
涙を堪えるように。
「私はもう……大切な人を失いたくないんです」
震える声。
けれど強かった。
「だから強くなりたい」
リアナは真っ直ぐアリシアを見る。
「アリシア様に、ついて行きます」
沈黙が落ちた。
その時。
マリーが小さく息を吐いた。
「……リアナらしいな」
少しだけ笑う。
「私は賛成だ」
「マリー?」
「それに」
マリーは肩を回した。
「私も行く」
「……え?」
アリシアが目を見開く。
「当たり前だろ」
マリーは笑った。
「お前一人で、抱え込みそうだからな」
夕陽が村を黄金色に染めていた。
三人はミリアの墓前に並んで立っていた。
風が、野花を揺らしている。
長い沈黙の後。
アリシアが口を開いた。
「……私には、妹がいるの」
リアナとマリーが顔を上げる。
アリシアは少し俯いた。
「私が……壊した妹」
静寂。
「え……?」
リアナの声が漏れる。
アリシアは拳を握った。
「私は、正しい姉でいようとした」
夕陽が横顔を照らす。
「父の期待に応えて、完璧でいようとした」
声が少しだけ掠れる。
「でも、それが……妹を苦しめていた」
目を閉じる。
後悔が滲んでいた。
「私は気づけなかった」
沈黙。
風だけが吹いている。
そして。
「妹の名前は――リリム」
その名を口にした瞬間、アリシアの瞳が揺れた。
「今、闇の力に囚われている」
「私は……あの子を助けたい」
声が少し震える。
「今度こそ、ちゃんと向き合いたい」
リアナが一歩前へ出た。
「なら、陽光の巫女の力が必要ですね」
墓標に手を添える。
「私もお供します」
マリーも頷いた。
「戦士も必要だな」
アリシアが目を見開く。
二人を見つめる。
そして、小さく笑った。
ほんの少しだけ。
救われたように。
「……ありがとう」
深く頭を下げる。
「力を貸して」
夕陽の中。
三人は村を後にした。
リアナはマリーの馬の後ろに乗り、ぎゅっと服を掴む。
ふと、後ろを見る。
誰もいない村。
そして。
――本当なら。
ミリアも、一緒だった。
胸が締め付けられた。
けれど。
前を向く。
ミリアの分まで、生きるために。
「行くぞ!」
マリーが馬を走らせた。
アリシアも手綱を引く。
風が吹き抜ける。
長い旅の始まりだった。
アリシアは夕焼けの空を見上げ、小さく呟く。
「必ず、助ける」
誰にも聞こえない声。
「待っていて、リリム」
――その頃。
遠く離れた場所で。
黒い闇の魔力が、静かに脈動していた。
まだ誰も知らない。
アリシアの妹が。
すでに、数多くの命を奪い。
そして今――
王国最大級の組織を敵に回していることを。
(次回、赤髪の女剣士)
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