第22話 今度は、私が守る番
ヴァレリアとリリムは、《浄化の檻》を後にした。
遠くで、重い鐘の音が響いている。
ゴォン――。
侵入者警戒。
まだ終わっていない。
誰かが、生き残っているかもしれない。
あるいは、もっと厄介な存在が動き出しているのかもしれなかった。
「急ぎましょう」
回復薬で多少持ち直したとはいえ、ヴァレリアの顔色はまだ悪い。
それでも彼女は気丈に歩き出す。
リリムも無言で頷いた。
二人は上階へ続く螺旋階段を急いだ。
壁に掛けられた古びた燭台の火が、揺れる影を長く伸ばす。
静かなはずの回廊は、逆に不気味だった。
誰かに見られているような気配がある。
それでも、進むしかない。
ヴァレリアは前を歩くリリムの背中を見つめた。
小柄で、まだ少女の面影が残る。
けれど、その背中には、血と死を越えてきた者の重さがあった。
(本当に……この子が、一人で?)
ライザックを倒し。
暁の剣南支部を壊滅させ。
魂を喰らい。
死者を操った。
信じられない。
いや――信じたくない、という方が近かった。
「リリムちゃん」
思わず声が漏れる。
「……本当に、あなた一人で、ここまで?」
リリムの足が少しだけ止まる。
「はい」
短い返答。
だが、その声には疲労が滲んでいた。
ヴァレリアは息を呑む。
「信じられない……」
小さく呟いた声は、独り言のようだった。
「私、あなたのことを……何もわかっていなかったのね」
リリムは少しだけ目を伏せる。
何も答えなかった。
その沈黙が、逆に胸を締めつけた。
やがて。
長い廊下の先に、豪華な扉が見えてきた。
金細工が施された重厚な扉。
上部には文字が刻まれている。
――《宝物庫》。
ヴァレリアが立ち止まった。
「まずは脱出したいけど……」
苦しそうに息を吐く。
「このままじゃ危険すぎるわ」
彼女は自分の傷ついた身体と、リリムの姿を見る。
血に汚れた服。
装備不足。
消耗した魔力。
「回復手段と、隠れるための装備が必要ね」
視線が扉へ向いた。
「もしかしたら、使える物が残ってるかもしれない」
リリムは静かに頷く。
「……入ってみましょう」
ギィィ――。
扉を押し開けると、重たい音が響いた。
中は豪華だった。
高い天井。
壁を覆う金細工。
赤い絨毯。
いかにも権威を誇示する空間。
――だが。
「……空?」
リリムが小さく呟く。
中央の金庫は開け放たれ、中身は空だった。
散らばる袋。
破れた書類。
床に転がる空箱。
価値のある物は、ほとんど持ち去られていた。
ヴァレリアが眉を寄せる。
「誰かが先に、持ち去った……」
混乱に乗じて持ち出したのだろう。
あるいは、支部壊滅を察知して逃亡した者か。
嫌な予感がした。
まだ終わっていない。
二人は急ぎ足で宝物庫を調べ始める。
その時だった。
「あ……」
ヴァレリアが壁際の小さな棚に目を止めた。
黒いベルベットの袋。
妙に、雑に押し込まれている。
中を開ける。
銀の指輪。
そして、淡く光るブレスレット。
ヴァレリアの目が細まった。
「これは……魔道具ね」
彼女は目を閉じ、鑑定魔法を使う。
淡い光が指先を包み込む。
しばらくして、驚いたように目を開いた。
「なるほど……」
銀の指輪を見つめる。
「これは魔力回復を促進する指輪」
そして、ブレスレットを持ち上げた瞬間。
ふっと、空気が静まった。
魔力の流れが抑えられる感覚。
ヴァレリアの表情が変わる。
「……これ、すごいわ」
「?」
「魔力の流出を抑える魔道具よ」
リリムの目が少し開かれる。
「それって……」
「ええ」
ヴァレリアは真っ直ぐ頷く。
「あなたの存在を感知されにくくなる」
「陽光の乙女にも?」
「かなり難しくなるはず」
リリムは息を呑んだ。
ヴァレリアが、そっとブレスレットを差し出す。
「つけてみて」
リリムは恐る恐る腕につけた。
その瞬間。
――静かになった。
いつも、身体の外へ漏れ続けていた闇。
肌にまとわりつく異質感。
それが、消えている。
まるで、自分が普通の人間に戻ったような感覚だった。
「……すごい」
思わず呟く。
ヴァレリアが微かに安堵の息を漏らした。
「これで少しは安全になる」
そう言って、自分は指輪を指にはめる。
「逃げ切る確率も上がるわ」
その後。
二人は壁際に掛けられた古びたローブを見つけた。
暁の剣の紋章入り。
少し汚れているが、十分使える。
「目立たなくはなりそうね」
ヴァレリアが羽織りながら言う。
リリムもローブを被る。
「……少し変な感じです」
「でも、裸で逃げるよりはマシよ」
ヴァレリアが微かに笑った。
リリムも、ほんの少しだけ口元を緩める。
二人は簡素な準備を整え、宝物庫を後にした。
廊下に出た瞬間、リリムは冷たい空気が肌を刺すのを感じた。
戦闘の熱が残る身体に、石造りの回廊の冷気が染み込む。
だが、それ以上に――身体がおかしかった。
指先が痺れている。
喉の奥に、鉄の味が広がる。
視界の端が、時折黒く欠けた。
(……まだ、動ける)
そう思わなければ、膝が折れそうだった。
ライザックとの死闘。
腹を裂かれた痛み。
二十三の魂を取り込み、《奈落煉獄波》を放った反動。
精神も、肉体も、既に限界を越えている。
それでも。
ヴァレリアだけは、助けたかった。
その時――。
ゴォン――。
低い鐘の音が、建物の奥から響いた。
リリムの足が止まる。
ゴォン――。
また鳴る。
今度は長い。
重い。
まるで地の底から這い上がるような、不吉な響きだった。
次の瞬間。
廊下の壁に刻まれた魔法陣が、一斉に赤く染まった。
天井。
床。
壁。
すべての紋様が警告色へと変わる。
建物そのものが、目を覚ましたようだった。
ヴァレリアの顔色が変わる。
「まずい……」
その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
遠くから怒号。
「侵入者だ!!」
「支部内を捜索しろ!!」
複数の足音。
鎧が擦れる音。
松明の光が、廊下の奥で揺れ始める。
「本格的に動き始めたわ」
ヴァレリアが短く告げる。
そして、リリムの腕を掴んだ。
「走れる?」
「……はい」
答えた瞬間、胸の奥が軋んだ。
でも、止まれなかった。
二人は廊下を駆けた。
ヴァレリアが先導し、リリムが後を追う。
深紅のローブが翻り、銀の髪が揺れる。
やがて、地下から地上へと続く螺旋階段へ辿り着く。
だが――。
階段に足をかけた瞬間。
視界が揺れた。
(……あ)
ぐらり。
世界が傾く。
咄嗟に壁へ手をついた。
冷たい石の感触だけが、現実だった。
胃の奥がひっくり返りそうになる。
呼吸が、うまくできない。
魂の取り込み過ぎ。
魔力枯渇。
身体が、悲鳴を上げていた。
「……無理してるわね」
後ろから、静かな声。
「まだ……大丈夫です」
即答した。
けれど次の瞬間。
足が崩れた。
膝が笑う。
身体が前へ倒れそうになる。
その時。
温かな感触が、腰に回った。
ヴァレリアだった。
彼女は自然な動作でリリムを支え、自分の肩へ体重を預けさせる。
迷いがなかった。
まるで当然のように。
リリムが驚いて見上げる。
ヴァレリアは前を向いたままだった。
けれど、どこか落ち着かないような横顔にも見えた。
「余計なこと考えない」
短く言う。
「今は、生きて出ることだけ考えなさい」
「……ありがとうございます」
「あとで聞くわ」
ヴァレリアは小さく息を吐く。
「どうして、そんなボロボロになるまで戦ったのか」
リリムの胸が、少しだけ痛んだ。
二人は階段を上る。
ヴァレリアの体温が伝わる。
ただそれだけなのに。
不思議と、安心できた。
誰かの後ろを歩くことが、こんなに安心できるなんて。
――ああ。
お母さんって。
こういう感じなのかな。
そう思った瞬間。
リリムは少しだけ俯いた。
地上の廊下へ出た瞬間。
ヴァレリアが片手を上げた。
「止まって」
二人は壁に身を寄せる。
足音。
重い。
複数。
整然としている。
松明の光が、曲がり角に揺れる影を映した。
リリムは反射的に闇魔法を展開する。
だが、魔力が薄い。
思うように練れない。
(……まずい)
そして。
曲がり角から現れた。
白銀の鎧。
壮年の騎士。
後ろには剣士二人。
神官一人。
隊長格の騎士が二人を見つける。
目が見開かれた。
「いたぞ!!」
怒号。
「ヴァレリアと侵入者だ!!」
その瞬間。
神官の顔色が変わる。
「ま、まさか……」
喉が震える。
「本物のヴァレリア……!?」
剣士の顔が凍った。
「嘘だろ……!」
「なんで南支部にいる!?」
リリムが目を瞬かせる。
(ヴァレリアさん……有名?)
ヴァレリアは、静かだった。
ただ一歩前へ出る。
「――下がって」
声が落ちた。
静か。
けれど、逆らえない響き。
リリムの足が止まる。
ヴァレリアが前へ。
赤い瞳が、兵士たちを射抜く。
「今度は、私が守る番よ」
空気が変わった。
ヴァレリアの周囲に、魔力が広がる。
妖しく。
美しく。
そして――恐ろしい。
魔法陣が石床に浮かび上がった。
脈打つ。
生き物のように。
剣士の一人が飛び込む。
「化け物め!!」
剣が振り下ろされる。
ヴァレリアは半歩だけずれた。
紙一重。
指先が剣士の額へ。
「眠りなさい」
剣士の目から光が消える。
崩れ落ちた。
神官が聖典を掲げる。
「幻惑耐性結界!」
白光。
結界が広がる。
ヴァレリアの魔法が、一瞬だけ弾かれた。
リリムが目を見開く。
(防いだ……!?)
ヴァレリアの眉が、わずかに動く。
「へえ」
その微笑みに。
神官の背筋が凍った。
次の瞬間。
空間そのものが歪む。
上下感覚が消えた。
神官の視界が裂ける。
ヴァレリアが何人にも増える。
「な……!?」
気づいた時には。
指先が額に触れていた。
「いい結界だったわ」
ささやき。
神官の意識が落ちた。
隊長だけが残る。
汗を流しながら剣を構える。
「化け物……!」
ヴァレリアが静かに笑う。
「ええ、よく言われるわ」
右手が伸びる。
声が落ちる。
「眠りなさい」
隊長が崩れた。
静寂。
誰も死んでいない。
ただ、全員が眠っていた。
リリムは動けなかった。
必要がなかった。
ヴァレリアが、全部終わらせてしまったから。
(悪魔にならなくても……強い)
圧倒的なのに、優雅だった。
傷つけず。
殺さず。
支配する。
ヴァレリアが振り返る。
「怪我は?」
「……ありません」
「なら行くわ」
背中が遠ざかる。
リリムは後を追った。
温かい。
不思議だった。
誰かの後ろを歩くことが、こんなに安心できるなんて。
(次回、墓前の誓い)
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闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
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