第21話 救うために、殺した
血の匂いが、冷えた回廊に満ちていた。
リリムは床へ膝をつき、左腹部を押さえる。
止血はした。
だが、それだけだ。
闇魔法に癒しはない。
指の隙間から滲む血。
霞む視界。
削れた魔力。
呼吸をするだけで、身体が軋んだ。
(……ヴァレリアさん)
ここまで来たのに。
あと少しだったのに。
もう、立てない。
意識が沈み始めた、その時だった。
――足音。
コツ。
静かな靴音が、回廊に響く。
リリムの肩が強張った。
誰か来る。
敵。
もう戦えない。
ゆっくりと顔を上げた先。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
長い橙色の髪。
透き通るような白い肌。
柔らかな美貌。
だが。
その姿を見た瞬間、リリムの全身が凍りつく。
(……陽光の乙女)
空気が違う。
息が詰まる。
肌が粟立つ。
それは、エリザの時と同じだった。
絶対に勝てない存在。
神聖そのものを纏う者。
本能が、逃げろと叫ぶ。
だが身体は動かない。
女は、無言のまま歩みを止めた。
その視線が向けられているのは――床。
《陽炎の刃》。
そして、ひび割れた白銀の鎧。
ライザックの遺したもの。
女の金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……ライザック様も、敗れたのですね」
静かな声。
悲しみ。
敬意。
そして、かすかな驚き。
女はしゃがみ込み、鎧へそっと触れる。
焼け焦げた跡。
闇に侵された歪み。
残留する、禍々しい魔力。
指先が止まった。
ゆっくりと、彼女が振り返る。
視線が、リリムを捉えた。
鋭い。
けれど。
そこに殺意はなかった。
「あなたが……ライザック様を?」
リリムの喉が鳴る。
声が出ない。
恐怖。
痛み。
疲労。
全部が限界だった。
それでも、かすかに頷く。
女の視線が、腹部へ落ちた。
血に濡れた服。
止血したはずの傷から、なお滲む赤。
その傷を見た瞬間。
女の眉が、わずかに寄った。
(この傷で……まだ生きている?)
そんな驚きが、表情に浮かぶ。
ゆっくりと、彼女が近づく。
リリムの身体が強張る。
終わりだ。
そう思った。
陽光の乙女が来た。
ライザック以上かもしれない存在。
今の自分に、勝てるわけがない。
(……ここで終わるんだ)
涙が、一筋流れた。
ヴァレリアを救えない。
全部、無駄だった。
女が、リリムの前で足を止める。
そして――不意に言った。
「こんな若い子が、一人で南支部を壊滅させたの?」
声音には敵意ではなく、純粋な驚きがあった。
「え……?」
理解が追いつかない。
なぜ、攻撃しない?
女はそのまま膝をついた。
そして、静かに右手を差し出す。
詠唱。
柔らかく、澄んだ声。
次の瞬間。
白い光が、掌から溢れた。
温かい。
昼の日差しのような光。
壊すための光ではない。
リリムは気づく。
(……違う)
この光は。
癒しだ。
「な……」
驚く間もなかった。
光る手が、腹部へ触れる。
その瞬間。
激痛が、消えた。
「っ……!」
身体が軽い。
冷たい感覚が、傷口を満たしていく。
裂けた肉が閉じる。
失った力が戻っていく。
あり得ない速さだった。
リリムが震える手で腹を見る。
傷が――消えていた。
「どうして……?」
声が震える。
「あなた、陽光の乙女じゃ……」
女が、静かに微笑んだ。
「ええ」
優しい声。
「私は陽光の乙女です」
理解できない。
敵のはずだ。
自分は支部を壊滅させた。
ライザックを倒した。
なのに――。
「なぜ……私を助けるの?」
短い沈黙。
女は真っ直ぐ、リリムを見る。
「惜しいからです」
即答だった。
「あなたほどの実力者を失うのは」
そして、少しだけ笑う。
強者を見る目。
純粋な興味。
「万全のあなたと、一度戦ってみたい」
リリムは言葉を失う。
敵意ではない。
善意とも少し違う。
強者として認められた。
そんな奇妙な感覚だった。
女が立ち上がる。
「私は、この“浄化”を正しいとは思えません」
リリムが目を見開く。
「え……?」
女の視線が、回廊の奥へ向けられる。
「ここでは、“救済”という名のもとに、多くの人が壊されていく」
その声には、静かな痛みが滲んでいた。
「闇に堕ちた者。異端とされた者。都合の悪い者……」
少しだけ唇を噛む。
「本当に全てが、裁かれるべき存在なのか。私は……わからなくなったのです」
沈黙。
そして、再びリリムを見る。
「だから、あなたを見てみたいと思いました」
金色の瞳が細められる。
「人を殺し、死者を操りながら、進もうとしているあなたを」
リリムの胸が、わずかに痛んだ。
「矛盾していますよね」
ミモザが、小さく笑う。
「でも、私はあなたを“ただの悪”だとは思えない」
そして、少し空気を変えるように。
「もちろん――万全のあなたと戦ってみたい、という理由もありますけど」
初めて、少しだけ冗談めいた笑みを見せた。
「私は、陽光の乙女ミモザ」
金色の瞳が柔らかく細められる。
「あなたは?」
リリムは少し迷い――答えた。
「……リリム、です」
嘘はつけなかった。
ミモザが、微かに笑う。
「また会いましょう、リリムさん」
その言葉と共に。
彼女は床へ、小さな鍵と透明な小瓶を置いた。
太陽神の紋章が刻まれた金の鍵。
そして、液体が入った小瓶。
「これは……?」
問いかける前に。
ミモザの身体が、淡い光に包まれる。
去るつもりだ。
「あ、あの!」
リリムが立ち上がる。
「ありがとうございました!」
ミモザは振り返らなかった。
ただ。
肩越しに、小さく微笑む。
どこか寂しげな。
不思議な笑みだった。
次の瞬間。
光が弾ける。
そして――消えた。
静寂。
残されたのは。
微かな温もりと。
床の上の、鍵と小瓶だけだった。
リリムはそっと、それを拾い上げる。
指先に残る熱が。
さっきまでそこにいた聖女の存在を、静かに物語っていた。
冷たい光が満ちる回廊を抜け、リリムは荒い息を吐きながら《浄化の檻》と呼ばれる部屋の扉を押し開けた。
その瞬間――。
眩い白光が、彼女の全身を包み込む。
「っ……!」
肌が焼けるように痛む。
闇の魔力を持つリリムにとって、この空間は毒そのものだった。
まるで太陽神の意思そのものが、異物である自分を拒絶している。
遠くで、低い鐘の音が鳴っている。
――侵入者警戒。
時間がない。
それでも。
リリムの視線は、ただ一人だけを探していた。
そして。
部屋の中央。
浄化の台座の上に、その姿を見つける。
「――ヴァレリアさん!」
息が止まった。
両手両足を、光の鎖で拘束されている。
冷たい光の中で静かに横たわっていた。
まるで、生きた人間ではなく。
供物のようだった。
「ひ、ひどい……!」
リリムは駆け出す。
光の鎖に手を伸ばした瞬間――。
ジリッ。
指先が焼けた。
炎を掴んだような激痛。
だが、手を離さない。
そんなもの、関係なかった。
その時だった。
ヴァレリアのまぶたが、微かに震えた。
ゆっくりと開いた瞳が、目の前の少女を映す。
「……リリム、ちゃん……?」
かすれた声。
弱々しい。
今にも消えそうな声だった。
だが――。
生きている。
その瞬間。
リリムの中で張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「……よかった」
声が震える。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
本当に。
本当に間に合った。
死んでいるかもしれない。
もう遅いかもしれない。
何度もそう思った。
ライザックとの死闘。
腹を裂かれた激痛。
殺し続けた恐怖。
全部が、一気に込み上げてくる。
「生きてて……」
涙が頬を伝う。
唇が震える。
「生きてて、よかった……!」
ヴァレリアの瞳が揺れた。
震える指先が、そっとリリムの頬に触れる。
「……馬鹿な子」
その声は、かすれていた。
けれど、優しかった。
「本当に……来たのね……」
遠くで、再び鐘が鳴る。
ゴォン――。
リリムははっとして顔を上げた。
急がなければ。
ここはまだ、敵地の真ん中だ。
光の鎖を観察すると、拘束具の根元に小さな鍵穴が見えた。
「もしかして……」
懐から、ミモザが残した金の鍵を取り出す。
鍵を差し込む。
カチリ。
静かな音とともに、光の鎖がほどけた。
一つ。
また一つ。
拘束が外れるたび、部屋を満たしていた神聖な光が弱まっていく。
ヴァレリアが、苦しそうに身体を動かした。
肌は赤くただれ、痛々しかった。
リリムの胸が締め付けられる。
「こんなこと……」
見ていられないほど酷かった。
リリムは近くにあった布を急いでかけた。
そして、小瓶を取り出す。
鑑定魔法。
淡い光が弾ける。
「……回復薬」
思わず呟く。
ミモザの顔が脳裏に浮かんだ。
(ミモザさん……これ、ヴァレリアさんのために……)
敵のはずなのに。
なぜ。
わからない。
でも今は――。
「ヴァレリアさん、飲んでください」
ヴァレリアは震える手で受け取り、ゆっくり飲み干す。
しだいに呼吸が落ち着いていく。
青白かった頬に、少しだけ血色が戻った。
その時。
遠くから、何かが崩れる音が響いた。
まだ終わっていない。
誰かが生き残っているかもしれない。
ヴァレリアが、息を整えながら口を開く。
「リリムちゃん……どうしてここへ?」
「ヴァレリアさんを助けるためです」
迷いなく答える。
「結界は?」
「暁の剣の人たちが壊しました」
ヴァレリアの目が見開かれる。
「……まさか」
そして。
最も聞きたくなかった問いを口にする。
「ライザックは……?」
リリムの表情が曇った。
沈黙。
そして、小さく答える。
「……倒しました」
ヴァレリアの呼吸が止まる。
「え……?」
「でも、深い傷を負って……」
腹部を押さえる。
「陽光の乙女ミモザさんが、治してくれました」
「――嘘」
ヴァレリアの顔色が変わる。
「あのライザックを?」
声が震えていた。
「あなたが……一人で?」
信じられない。
南支部最強。
あの男を。
この少女が?
リリムは、静かに俯いた。
指先が、微かに震えている。
「……殺しました」
小さな声。
重かった。
「ここに来るために」
唇を噛む。
「たくさん……殺しました」
沈黙。
「ヴァレリアさんを助けたかった」
声が掠れる。
「生きるために、魂を吸収して……死体まで使いました」
肩が震える。
「もう……普通には戻れない」
その声には。
後悔と。
罪悪感と。
それでも進むしかなかった覚悟が滲んでいた。
ヴァレリアは言葉を失う。
南支部壊滅。
ライザック撃破。
それを――。
この少女が、一人で?
震える息が漏れた。
(私は……この子を、何もわかっていなかった)
遠くで。
再び鐘が鳴る。
今度は、近い。
ゴォン――。
そして。
回廊の奥から、鎧の擦れる音が微かに響いてきた。
誰かが来る。
ヴァレリアの表情が変わる。
「急ぎましょう」
その声は、もう迷っていなかった。
(次回、今度は、私が守る番)
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闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
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