第18話 妹の遺書
村がゴブリンの襲撃を受けた翌朝。
アリシアは重い足取りで、村を後にした。
隣には、大剣を背負った女戦士――マリー。
向かう先は、ゴブリンの巣。
前回、見逃した。
そして、その結果があの惨劇だった。
もう二度と同じ失敗はしない。
その決意だけを胸に、アリシアは洞窟へと足を踏み入れた。
入口から、湿った空気が流れ出てくる。
腐臭と血臭が混じったような臭いだった。
杖の先に光を灯す。
暗闇が押し退けられる。
二人は慎重に進んだ。
壁には赤黒い染み。
骨。
砕けた武具。
そして――人骨。
幼いものまであった。
アリシアの胸が重くなる。
(……また、誰かが犠牲になった)
洞窟の奥。
そこにいたのは、数体のゴブリンだった。
戦士ではない。
痩せた身体。
粗末な布を纏ったメス。
そして、その後ろには、小さな幼体。
だが。
その口元には、乾いた血がこびりついていた。
足元には、噛み砕かれた骨。
人間の指だった。
アリシアの呼吸が止まる。
「……っ」
幼体が、骨を抱えながら唸った。
小さい。
だが、その目には、すでに獣のような敵意があった。
メスが甲高い声を上げる。
幼体を庇うように前へ出た。
その瞬間。
アリシアの手が止まった。
「……本当に、これしかないの?」
声が震える。
マリーは静かに前を見る。
「迷うなら、また誰かが死ぬ」
短い言葉だった。
だが、重かった。
「ゴブリンは増える。群れになる。人を襲う」
マリーの視線が揺れない。
「昨日みたいにな」
リアナ。
ミリア。
泣き崩れていた村人たち。
脳裏に浮かぶ。
アリシアの拳が震えた。
(……私は、もう逃げない)
前回、見逃した。
終わったと思い込み、
確かめなかった。
その甘さが、村を壊した。
なら――。
ここで断つしかない。
アリシアは目を閉じた。
「……ごめんなさい」
震える声。
そして、杖を掲げる。
放たれた光が、洞窟を走った。
短い悲鳴。
静寂。
アリシアは目を逸らした。
胸が苦しい。
正しいのかは、わからない。
けれど。
もう二度と、
リアナのように泣く人を増やしたくなかった。
マリーは何も言わなかった。
ただ、壊れた祭壇や道具を無言で叩き壊していく。
「繁殖用の印も潰す」
低い声。
「残せば、また増える」
アリシアも頷き、魔法で祭壇を破壊した。
血で描かれた紋様が砕け散る。
全てを終え、二人は洞窟の外へ出た。
朝日が差していた。
アリシアは深く息を吸う。
そして杖を掲げた。
「大地よ、この邪悪を封じよ――《土の壁》」
轟音。
洞窟の入口が崩れ落ちる。
巨大な岩が積み重なり、巣穴を完全に塞いだ。
長い沈黙。
アリシアは振り返らなかった。
胸の奥に、重いものが残っている。
達成感などなかった。
ただ。
一つだけ、決めていた。
(もう、同じ失敗はしない)
隣でマリーが口を開く。
「……辛ぇ顔してんな」
アリシアは小さく苦笑する。
「向いてないのかもしれません。こういうの」
マリーは鼻を鳴らした。
「向いてる奴の方が怖ぇよ」
少しだけ。
アリシアの肩の力が抜けた。
村には、ゴブリン襲撃の爪痕が深く残されていた。
焼け焦げた家々。
踏み荒らされた畑。
そして、失われた者たちの悲しみが、空気そのものに染みついている。
そんな中、アリシアとマリーは村の再建を手伝っていた。
最初に取り掛かったのは、命を落とした村人たちの埋葬だった。
アリシアは泥に汚れた遺体を一人ひとり丁寧に抱え上げ、静かに祈りを捧げながら丘へ運ぶ。
マリーは崩れた瓦礫を押しのけ、力任せに遺体を引き上げた。
リアナは泣き崩れる女性たちの肩を抱き、言葉にならない悲しみに寄り添った。
丘の上では、ミリアの祈りの歌が風に乗る。
その澄んだ声は、悲しみに沈む村人たちへ、ほんのわずかな安らぎを届けていた。
埋葬が終わる頃には、生き残った者たちの生活を支える作業が始まった。
リアナは井戸を清め、安全な水を確保する。
マリーは荒らされていない倉庫から食糧を運び出し、重い木箱を軽々と積み上げた。
アリシアは森へ入り、食べられる野草や果実、薬草を探した。
そのおかげで、広場には温かな食事が並び始める。
小さな子どもが、久しぶりに笑った。
その笑顔を見て、大人たちの張り詰めていた表情が少しだけ緩む。
けれど――。
リアナには、もう一つ、避けられない役目があった。
ゴブリンに襲われた女性たちの診察。
冷たい朝霧が漂う集会所。
女性たちは肩を寄せ合うように座り、不安そうに俯いていた。
リアナは、その前に立つ。
その顔にはいつもの柔らかな笑みがない。
疲労と、言いようのない苦しみが滲んでいた。
「……これから、確認の魔法を使います」
声は静かだった。
だが、少し震えている。
「辛い結果になるかもしれません。でも……知らないままにはできません」
部屋が静まり返る。
一人の女性が、小さく震えながら口を開いた。
「もし……妊娠していたら……?」
リアナの唇が、かすかに震えた。
答えたくない問いだった。
けれど、目を逸らすわけにはいかない。
「……産むしかありません」
集会所に息を呑む音が広がった。
「そんな……」
誰かが嗚咽を漏らす。
リアナは苦しげに目を伏せた。
そして、小さく続ける。
「しかし、ゴブリンの子が母体にどんな影響を与えるのか……私たちにも、わからないのです」
重苦しい沈黙が落ちた。
泣き声だけが、かすかに響く。
リアナは神聖書を開いた。
「……始めます」
一人、また一人。
女性たちの前に膝をつき、腹部へそっと手を当てる。
淡い青白い光。
祈りの言葉。
そして――。
「……反応があります」
そのたびに、女性たちの顔が歪む。
涙を堪えきれず、肩を震わせる者もいた。
アリシアは目を閉じ、静かに祈るように立っていた。
マリーは腕を組み、苦い顔で奥歯を噛み締める。
やがて。
最後の一人が前へ出た。
ミリアだった。
リアナの指先が、小さく震える。
「ミリア……」
妹は、目を伏せたまま何も言わない。
リアナは震える手を、そっと腹部へ当てた。
祈りを唱える。
淡い光が、ゆっくりとミリアを包んだ。
――反応。
その瞬間。
リアナの手が止まった。
光が、静かに消える。
「……うそ」
かすれた声。
顔から血の気が引いていく。
もう一度。
確かめるように、魔法を流す。
けれど。
結果は変わらない。
「ミリア……」
声が震えた。
「そんな……」
ミリアは唇を噛み、俯いた。
肩が小さく震えている。
「お姉ちゃん……」
消えそうな声。
「私……どうすればいいの?」
リアナの瞳から、涙がこぼれた。
答えられない。
答えなんて、持っていなかった。
ただ、妹を抱きしめる。
壊れてしまいそうな身体を、強く。
「ごめん……ごめんね……」
その声は、巫女ではなく。
ただ、妹を守れなかった姉のものだった。
少し離れた場所で、アリシアが苦しげに呟く。
「……こんなにも多く、反応が出るなんて……」
集会所の空気が、さらに重く沈んだ。
誰も顔を上げられない。
リアナは涙を拭った。
震える手を、ぎゅっと握る。
「……それでも」
声が揺れる。
前を見るしかなかった。
「この村を、立て直さないといけません」
その瞳には、深い悲しみと、消えかけの決意が同時に宿っていた。
薄曇りの朝。
冷たい風が、窓の隙間から入り込み、カーテンを揺らしていた。
朝食の支度を終えたリアナは、ふと眉をひそめた。
(……遅い)
いつもなら、もう起きてくる時間だった。
「ミリア?」
呼んでも返事はない。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感がした。
リアナは足早に部屋へ向かった。
扉の前で立ち止まり、軽く叩く。
「ミリア? 入るわよ」
……返事はない。
静かすぎた。
胸騒ぎが強くなる。
ゆっくりと扉を開けた。
部屋はひんやりとしていた。
窓から薄い朝の光が差し込んでいる。
だが――。
ベッドは綺麗に整えられていた。
そこに、ミリアの姿はない。
「……え?」
息が止まる。
その時だった。
机の上に、二通の封筒が置かれているのが目に入った。
『リアナ姉さんへ』
『アリシア様へ』
リアナの指先が震える。
恐る恐る、自分宛ての封を開いた。
そこにあった文字は、少し乱れていた。
涙で滲んだような跡もある。
「リアナ姉さんへ
ごめんなさい。
姉さんの顔を見たら、きっと私は死ねなくなるから、手紙にしました。
私、もう苦しい。
怖くて眠れない。
目を閉じると、あの日のことを思い出してしまうの。
それに、お腹のことを考えると……もう耐えられません。
姉さん、ごめんね。
本当は、もっと一緒にいたかった。
大好きでした。
ミリア」
「……っ」
リアナの膝が崩れた。
床に座り込む。
喉が詰まり、息がうまくできない。
「ミリア……」
視界が滲む。
手紙を握る指先が震えた。
冷たい風が吹き込み、紙がかすかに揺れる。
嫌な予感が、確信へ変わっていく。
リアナはもう一通を掴むと、涙を拭う暇もなく屋敷へ駆け出した。
「アリシア様……!」
扉を勢いよく開け放つ。
朝食を取っていたアリシアと女戦士が、同時に顔を上げた。
リアナの顔を見た瞬間、空気が変わる。
「ミリアが……ミリアが……!」
震える声。
差し出された封筒。
アリシアはすぐに受け取り、中を開いた。
そこに綴られていたのは――。
「アリシア様へ
助けてくれたのに、ごめんなさい。
本当は、生きたいって思いたかった。
でも、もう苦しいです。
怖くて、眠れません。
お腹のことを考えるたび、息ができなくなります。
助けてもらったのに、ごめんなさい。
リアナ姉さんを、お願いします。
本当に、ありがとうございました。
ミリア」
アリシアの目が止まった。
その短い文の中に、ミリアの限界が詰まっていた。
握る紙が、小さく震える。
そして次の瞬間。
彼女の表情から、迷いが消えた。
「……探します」
静かな声だった。
だが、その瞳には切迫した決意が宿っていた。
(次回、そして、太陽は剣を抜いた)
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