第123話 絶光天滅
アリシアの魔力は、既に尽きていた。
しかし目の前の悪魔を相手にできる手段は、もう一つしか残されていなかった。光焔の杖。
その力を使えば、魔力ではなくアリシア自身の魂そのものが削られる。使うたびに寿命が、命の輝きが静かに失われていく。それが、この杖の代償だった。
しかしこのまま悪魔を放置すれば、王都はいや、王国そのものが滅びる。
マリーがせっかく王として立ち上がったのに、それでは全てが意味を失う。
アリシアは瓦礫の中から、ゆっくりと立ち上がった。杖を握り直した。
その目に迷いは、もうなかった。
「アリシア」
マリーがその様子に気づき、声を上げた。
「何をする気だ」
「あの悪魔を、倒すわ」
アリシアは、静かに答えた。
「これしか、方法がない」
アリシアは悪魔の正面に立った。
小さな人影が、巨大な悪魔の前にたった一人。
それでもその佇まいには、微塵の怯えもなかった。
悪魔の赤い瞳が、アリシアを捉えた。初めてその視線が、一人の人間だけに留まった。
アリシアは、杖の先を悪魔に向けた。
「完全分解」
光の粒子が収束していった。悪魔へと放たれた。
命中した。悪魔の腕の一部が、文字通り分子レベルで消滅していった。
これまでのどの攻撃も、通じなかった。しかしこれは、確かに効いていた。
悪魔が初めて、声を上げた。言葉にはならない、唸り声だった。
しかしその傷は、瞬く間に新たな闇の質量で、埋められていった。完全に消えたはずの腕が、再び形を取り戻していった。
「まだ」
アリシアは、杖を握り直した。
「完全分解――二連撃」
二条の光が同時に放たれた。一つは悪魔の腕へ。もう一つは、その胸に刻まれた契約紋のすぐ傍へ。
二つの部位が、同時にえぐられた。悪魔の体が、わずかに揺らいだ。
その瞬間、悪魔の口が大きく開かれた。闇の奔流が、アリシアめがけて放たれた。
「防壁!」
アリシアは咄嗟に、光の障壁を展開した。
闇と光がぶつかり合った。衝撃が玉座の間の残骸を、さらに吹き飛ばした。
アリシアの体が、後方へと押し流された。足で瓦礫を踏みしめ、なんとか踏みとどまった。
リアナがその様子を見て、思わず叫んだ。
「アリシア様!」
声が震えていた。
「もう、これ以上はいけません。アリシア様の魂が――」
アリシアは、振り返らなかった。ただ前を見つめたまま答えた。
「大丈夫」
声はまだ、しっかりとしていた。しかしその顔色は、既に蒼白に近かった。杖を握る手が、わずかに震えていた。
アリシアは、再び杖を掲げた。
「天炎の舞」
浄化の炎が渦を巻き、悪魔の周囲を包み込んだ。闇そのものを、焼き払うための炎だった。
悪魔の体表を覆う闇の質量が、ジリジリと削られていった。完全には消えない。それでも確かに、効果はあった。
悪魔が反撃に転じた。巨大な腕が、振り下ろされた。
「光の盾!」
アリシアは、瞬時に障壁を展開した。
しかしその一撃の重さは、これまでとは比較にならなかった。障壁が砕けた。アリシアの体が吹き飛ばされ、瓦礫の中に叩きつけられた。
「アリシア様!」
リアナが、駆け寄ろうとした。しかしその体にも、もう力は残されていなかった。辛うじて立ち上がったアリシアを、ただ見つめることしかできなかった。
アリシアは、瓦礫の中から体を起こした。口の端から、血が一筋流れていた。
それでも、杖を手放さなかった。
(まだ、終わっていない)
心の中で、自分に言い聞かせた。
脳裏に、これまでの旅の記憶が蘇った。リリムを、探し続けた日々。仲間たちと出会い、共に歩んできた時間。仲間たちの笑顔。
その全てを守るために、ここに立っている。
アリシアは、杖を両手で握りしめた。これまでにない量の魔力を。
いや、自分の命そのものを、杖に注ぎ込んでいった。
体の内側が、燃えるように熱くなった。同時に何かが、急速に失われていく感覚があった。それでも止めなかった。
「浄輝の領域」
声が、静かに響いた。
眩い光が、玉座の間の残骸全体を包み込んでいった。その光は、闇の気配そのものを浄化していく、性質を持っていた。
悪魔の周囲を覆っていた闇の質量が、急速に薄れていった。
悪魔が、初めて後退した。その赤い瞳に、今までにない光が宿った。警戒、あるいはそれに近い何か。
アリシアは、その隙を逃さなかった。
「天光よ」
失われた王宮の天井の向こう。
空を覆うように、巨大な魔法陣が現れた。
悪魔が初めて、空を見上げた。
そこにあったのは、炎ではなかった。
白い光だった。
太陽の光さえ消えるほどの、圧倒的な白。
「――絶光天滅」
天が、落ちた。
契約紋が、音もなく砕け散った。
その瞬間。
悪魔の巨体が、大きく仰け反った。
胸部を走っていた赤黒い亀裂から、黒い霧が一気に噴き出した。
「――――」
巨大な口が開いた。
しかし、そこから言葉は出なかった。
ただ、何層にも並んだ牙の奥から、低く濁った唸り声だけが漏れ出した。
悪魔の胸を覆っていた岩のような皮膚に、無数の亀裂が走る。
一本。
また一本。
赤黒い光を宿していた亀裂が、急速に全身へと広がっていった。
太い腕へ。
異様に長い指へ。
巨大な角へ。
そして、背中から伸びた影の翼へ。
悪魔は片膝をついた。
「――ドォン!」
巨体が瓦礫を押し潰し、地面が大きく沈んだ。
その衝撃と同時に、右腕の先端から崩れ始めた。
巨大な爪が、黒い砂のように砕けていく。
指先が崩れ。
手の甲が崩れ。
長く伸びた腕そのものが、形を保てなくなっていった。
肉体が裂けたのではない。
そこに存在していたはずのものが、内側から少しずつ失われていく。
崩れた部分は、血も肉片も残さなかった。
黒い霧となり。
周りの空気へと溶けていった。
悪魔は、残された左腕を地面へと突き立てた。
立ち上がろうとしたのか。
それとも、なおも前へ進もうとしたのか。
誰にも、わからなかった。
しかし、その腕にも亀裂が走った。
巨大な肩が崩れた。
胸部を覆っていた黒い皮膚が、内側から崩れ落ちる。
赤黒く脈打っていた光が、一つまた一つと、消えていった。
そして。
頭部に生えていた二本の巨大な角が、鈍い音と共に砕けた。
「――――!」
悪魔の巨体が、大きく揺れた。
縦に裂けた巨大な口が、最後にもう一度開いた。
何重にも並んでいた牙が、次々と黒い粒子へと変わっていく。
巨大な顔そのものが、輪郭を失っていった。
鼻も。
耳も。
異形の頭部も。
今度は完全に、闇の中へと溶け始めていた。
赤い二つの光だけが。
最後まで、その暗闇の中に残っていた。
悪魔の目だった。
その赤い光が、一度だけ大きく揺らいだ。
そして。
静かに消えた。
支えを失った巨体が、前方へと倒れ始めた。
地面に激突する前に、その胴体もまた崩れ始めた。
胸が。
腹が。
背中から伸びていた影の翼が。
全てが黒い霧となり、風に吹かれる灰のように散っていく。
最後に残ったのは、瓦礫の上に伸びていた一本の尾だけだった。
しかしその尾も、先端からゆっくりと崩れていった。
玉座の間の跡地に、静寂が戻った。
そこにはもう。
悪魔の姿は、どこにもなかった。
ハラルドの肉体も。
悪魔として生まれた異形の巨体も。
その全てが、この世界から消えていた。
つづく…
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