第121話 摂政の終焉、悪魔の誕生
ハラルドは、まだ立っていた。
しかしその体からは、先ほどまでの闇の魔力が少しずつ失われていた。
背後に浮かんでいた巨大な悪魔の影も、輪郭を崩し始めている。
マリーは振り返らなかった。ただ王家の剣を握ったまま、静かに立っていた。
「……終わった」
誰かが呟いた。
しかし。
「まだだ」
ハラルドの声が響いた。
マリーが振り返る。
ハラルドはゆっくりと、顔を上げていた。
「私は……まだ……」
その足元に、黒い魔力が集まり始めた。
だが、先ほどとは明らかに違っていた。力が集まっているのではない。何かが、ハラルドの体から奪われている。
「ハラルド……」
アリシアが、息を呑んだ。
「その魔力……」
リアナも気づいた。
「契約の力が、逆流している」
「逆流?」
マリーが尋ねる。
アリシアは、青ざめた顔で頷いた。
「悪魔との契約は、力を借りるだけではない。必ず代償を支払うもの」
ハラルドが笑った。
「その通りだ」
黒い紋様が、体中へ広がっていく。
「私は、最初から知っていた」
「だったら、なぜ……」
マリーの問いに、ハラルドは静かに答えた。
「国を守るためだ」
その声には、初めて苦しさが滲んでいた。
「この国には、力が必要だった」
「だから悪魔に、魂まで売ったのか!」
マリーが叫ぶ。
ハラルドはしばらく黙っていた。
「……そうだ」
短い答えだった。
「私には、それしかなかった」
その瞬間、ハラルドの背後に浮かぶ、悪魔の影が大きく揺らめいた。
『契約は、果たされた』
低い声が、玉座の間に響いた。
全員が息を呑む。
ハラルドが顔を上げる。
「まだだ」
その声に、最後の意志が宿った。
「私は、まだこの国を――」
「もういい」
マリーが、静かに言った。
ハラルドの目が、マリーを捉える。
「……何?」
マリーは、王家の剣を下ろした。
「あなたは、十分に戦った」
「情けをかけるつもりか」
「違う」
マリーは首を振った。
「あなたを裁くのは私一人じゃない。この国の未来を決めるのは、あなたでも私一人でもない」
マリーはハラルドを見つめた。
「生きて、その罪を背負ってもらう」
ハラルドの目が、わずかに揺れた。
「……私を、生かす?」
「そうだ」
マリーは答えた。
「あなたが何をしたのか、なぜそうしたのか。全部、この国の人々に明らかにする」
「……」
「そしてあなた自身に、罪を償ってもらう」
ハラルドはしばらく黙っていた。
やがて。
「……王らしくなったな」
小さく笑った。
「マリアンネ」
その瞬間だった。
巨大な悪魔の影が、ハラルドの背後で大きく膨れ上がった。黒い魔力が玉座の間を覆った。
「ハラルド!」
マリーが身構える。
だがハラルド自身が、驚いた表情を浮かべた。
「違う……」
悪魔の影が、ハラルドの体を飲み込もうとしていた。
「私はお前に……命を渡した覚えはない!」
ハラルドが、膝をついた。
「ぐっ……!」
マリーは剣を握った。
黒い魔力が、ハラルドの身体を完全に覆った。
「やめろ……!」
ハラルドの声が響いた。
しかしその姿はもう、マリーたちの目には見えなかった。
黒い奔流が、部屋の中央で渦を巻いていた。
人間一人の輪郭など、とっくに失われていた。
「ハラルド!」
マリーが叫ぶ。
返事はなかった。
代わりに。
玉座の間全体を震わせるような、低い唸り声が響いた。
黒い魔力の渦が、さらに膨れ上がった。
天井へ。
壁へ。
床を覆うように。
その中心で、何かが形を作り始めていた。
最初に現れたのは、二本の巨大な角だった。
黒く、ねじれた角。
まるで何百年もの間、地の底で成長し続けた樹木の根のように、複雑に絡み合いながら、頭部から大きく後方へと伸びていた。
次に現れたのは、異様に長い腕だった。
人間の腕とは、明らかに違う。
肩から先が長く伸び、指先は鋭く湾曲した巨大な爪へと変わっていた。
その爪が、床に触れた。
「――ギギギギ……」
硬い石の床に、深い傷が刻まれた。
黒い魔力が、晴れていく。
そこに立っていたものは。
もう、ハラルドではなかった。
人間の面影は、一切残っていなかった。
その悪魔は、三メートルを超える巨体だった。
異様に細く、長い胴体。
しかし肩と胸部だけは、鎧のように分厚く発達していた。
黒い皮膚は生き物の肌というよりも、焼け焦げた岩石のようだった。
その全身に、赤黒い亀裂が走っている。
亀裂の奥では、血ではない何かが脈打っていた。
赤い光。
いや。
炎にも似た、悪意そのもののような光だった。
顔には、人間らしい輪郭が存在しなかった。
鼻も、耳も。
表情を作るための筋肉すら、そこにはない。
あるのは。
縦に裂けた、巨大な口だけだった。
頭部の中央から顎の下まで。
まるで顔そのものが、口になったかのように大きく裂けていた。
その奥には、何重にも並んだ鋭い牙が見えた。
そして。
その口のさらに奥。
暗闇の中に。
二つの赤い光が浮かんでいた。
それが、この悪魔の目だった。
「……あれが」
リアナの声が震えた。
「悪魔……」
背中からは、翼が生えていた。
しかし、蝙蝠の翼ではなかった。
骨のように細い何本もの突起が背中から伸び、その間を黒い影が膜のように繋いでいた。
翼が動くたびに、その黒い影が形を変える。
羽ばたいているのではない。
まるで周囲の光そのものを、翼が吸い込んでいるようだった。
さらに、その背後には。
一本の尾が伸びていた。
長く。
異様なほど細い。
先端は、槍の穂先のように鋭く尖っている。
尾がゆっくりと床を引きずった。
それだけで石畳に、一本の深い亀裂が走った。
誰も動けなかった。
目の前にいる存在を。
かつて摂政だった男と、結びつけることはできなかった。
その姿には。
ハラルドという人間の痕跡が。
一切、残されていなかった。
悪魔が。
ゆっくりと首を傾けた。
関節が軋むような、不快な音が響いた。
そして巨大な口が、ゆっくりと開いた。
何重にも並ぶ牙の奥から。
低い声が響く。
『――グラディア・ヴァル。ネクタル・エスト』
その声を聞いた瞬間。
全員が理解した。
ハラルドは。
もう、この場にはいない。
彼の肉体も。
魂も。
この悪魔を生み出すための糧にされた。
悪魔は一歩、前へ進んだ。
「――ドン」
玉座の間全体が、大きく震えた。
マリーは王家の剣を、再び握り直した。
先ほどまでのハラルドとの戦いとは、まったく違う。
王を目指す者と、国を守ろうとした男の戦いではない。
これは。
人間の世界に生まれてしまった。
本物の悪魔との戦いだった。
つづく…
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