第117話 王の覚悟、悪魔の力
マリーは床を蹴った。
大剣を、まっすぐにハラルドへと振り下ろした。
ハラルドは動かなかった。ただ片手を上げた。
剣が、その手の平に触れた瞬間。
「――ガキィン!」
鋼と生身がぶつかったとは思えない、金属音が響いた。
マリーの剣を受けた、ハラルドの腕に浅い傷が走っていた。
しかしその傷は、瞬時に塞がっていった。黒い蒸気すら立てずに、まるで傷そのものがなかったかのように。
ハラルドが、軽く腕を振るった。
目に見えない闇の衝撃波が放たれた。
マリーの体が、そのまま後方へと弾き飛ばされた。床を何度も転がり、壁際でようやく止まった。
「……っ」
息が詰まった。剣を握る腕全体が痺れていた。
仲間たちの表情が、一斉に強張った。
「マリアンネ様!」
ラグナルが、思わず駆け出そうとする。
今までの敵とは、明らかに違う。戦士としての技量が圧倒的というよりも、身体能力そのものが、異常なまでに強化されていた。
背中に鈍い痛みが走った。立ち上がろうとした体が、一瞬震えた。
ハラルドはその様子を、静かに見下ろしていた。
その表情に余裕があった。まだ本気にはほど遠い、そう告げているかのような静けさだった。
それでもマリーは、立ち上がった。
膝が震えていた。それでも大剣を支えに、体を起こした。
ハラルドの目が、わずかに細くなった。
「なぜ立つ」
静かに尋ねた。
マリーは荒い息の中で、まっすぐハラルドを見た。
「……私は、王になると決めたから」
声は掠れていた。それでも揺るがなかった。
「その程度の力で、王になれるのか?」
ハラルドの声に、わずかな興味の色が混じった。
「……私は、、もう逃げない」
マリーは続けた。剣を握り直した。
二年前、あの夜。剣を持った見知らぬ騎士に手を引かれ、振り返ることも許されないまま、この王都を後にした。
あの時の自分は、ただ逃げることしかできなかった少女だった。
しかし今は違う。仲間の前に立ち、この国を背負おうとしている。王として。
ハラルドはしばらく、そのマリーの姿を見つめていた。
やがて口元に、確かな笑みが浮かんだ。これまでとは違う種類の笑みだった。
「ならば」
声に初めて、確かな熱が宿った。
「その覚悟が本物か、確かめてやろう」
その瞬間から、ハラルドの纏う空気が変わり始めた。
ハラルドの契約紋が、脈打つように広がり始めた。
胸元から肩へ。肩から腕全体へ。黒い紋様がまるで生き物のように、這い進んでいった。
その身体能力がさらに跳ね上がっていくのが、肌で感じ取れるほどだった。
マリーは、剣を構え直した。
これで終わりではなかった。その予感が確信に変わったのは、ハラルドのもう片方の目にも、静かに闇が滲み始めた瞬間だった。
両目とも、完全に黒く染まっていた。
ハラルドは剣を抜いた。その刃に、黒い魔力がまとわりついていった。纏う空気そのものが重く、冷たく変質していった。
そしてハラルドの背後に、巨大な影が静かに浮かび上がった。
人の形をしていなかった。巨大な角、禍々しい輪郭、玉座の間の天井にまで届くほどの大きさだった。
その影は、ハラルドの体を覆うようにして揺らめいていた。
しかしその目は、変わらず澄んでいた。理性を失った様子は、どこにもなかった。
むしろ、よりはっきりとした意志が、その瞳の奥に宿っているように見えた。
「悪魔に、操られているのか」
マリーの声が震えた。
「違う」
ハラルドは、即座に否定した。その声に迷いはなかった。
「私が悪魔を、使っている」
巨大な影を背負ったまま、静かに告げた。
その一言に、マリーの背筋が冷えた。
これは力に飲まれた、哀れな人間の姿ではなかった。
自らの意志で悪魔の力すらも、道具として支配下に置いている。
その異常な覚悟。そしてその覚悟の深さこそが、この男の本当の恐ろしさだった。
玉座の間に、重い沈黙が落ちた。
仲間たちは、動けずにいた。この戦いを、誰も代わることはできなかった。
マリーは剣を握り直した。
目の前に立つ巨大な影を纏った男を、まっすぐに見据えた。
揺るがぬ覚悟だけを胸に。
つづく…
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