第112話 王女を逃がした騎士
フレイは久しぶりに、剣を握っていた。
その手には明らかな、ぎこちなさがあった。日々の政務や諜報の仕事に埋もれていた腕。かつては確かに鍛えていたはずの、その技術が今は鈍っていた。
それでもフレイは剣を振るった。
マリーを倒すつもりはなかった。
これは、勝敗のための戦いではなかった。自分自身に、けじめをつけるための剣だった。
剣が振り下ろされた。
マリーはそれを、あっさりと弾いた。
フレイは体勢を立て直し、再び剣を振るった。突き、横薙ぎ、斜めからの斬り上げ。
どれもマリーには届かなかった。傷一つつけられなかった。
フレイの息が、次第に上がっていった。何度剣を振るっても、結果は同じだった。
やがてフレイは、剣を下ろした。
肩で息をしながら、マリーを見つめた。
「二年前、あの時」
声が静かに響いた。
「私はハラルド様に、あなたを殺すように命じられました」
マリーの体が、強張った。
「しかし、できませんでした」
フレイは続けた。
「私はハラルド様の命に背き、あなたを逃がしました」
マリーは剣を構えたまま、動けなくなった。
「何だって」
声が掠れた。
「まさか」
記憶の奥底が、静かに揺さぶられた。
あの夜、剣を持った見知らぬ騎士に手を引かれ、必死に走ったあの記憶。振り返ることも許されないまま、この街を後にしたあの瞬間。
「あの時の騎士か」
マリーの声が震えた。
フレイは静かに頷いた。
「あなたが、こうして戻ってくるとは」
その目に、複雑な色が浮かんだ。
思ってもいなかった。その言葉の続きは、口には出さなかった。しかしその表情が、全てを物語っていた。
剣を握ったまま、マリーはしばらく動けなかった。
周囲の仲間たちも遠くから、その様子を見つめていた。誰も割り込もうとはしなかった。
この対話はマリー自身が、受け止めなければならないものだった。
「なぜ」
マリーはようやく、声を絞り出した。
「なぜあなたは、命令に背いてまで、私を逃がしたんだ」
フレイはしばらく沈黙した。その目に、二年間抱え続けてきた重みが滲んでいた。
「あの夜、私はあなたの寝室に向かいました」
静かに語り始めた。
「命令通り、剣を抜いて」
声が、わずかに震えた。
「しかし、あなたは眠っている。あまりにも無防備で、何も知らないまま」
言葉が途切れた。
しばらくの沈黙の後。
「剣を、振り下ろせませんでした」
マリーはその告白を、静かに聞いていた。
「それであなたを起こし、秘密の通路から城の外へと逃がしました」
フレイは続けた。
「その後」
声に苦さが混じった。
「私はハラルド様に、あなたを殺したと報告しました。嘘の報告を」
「ではハラルドは、私が生きていることを知らなかったのか」
マリーの頭の中で、様々な疑問が渦を巻いた。
「いいえ」
フレイは首を振った。
「ハラルド様は、私の報告を信じてはいませんでした」
静かに告げた。
「最初から」
その言葉に、マリーの背筋が冷えた。
「あの方は、私があなたを逃がしたことを、最初から見抜いていました」
マリーは、言葉を失った。
「それなのに、あなたを罰しなかったのか」
かろうじて声を絞り出した。
「わかりません」
フレイは正直に答えた。
その目に、複雑な感情が浮かんだ。
「ただハラルド様は、私があなたを逃がしたその事実そのものを、利用していたのかもしれません」
「利用?」
「あなたが生きて、いつか戻ってくることを見越して」
フレイは続けた。
その声が静かに沈んだ。
「あの方は最初から今日のこの日を、待っていたのかもしれません」
その言葉にこれまでの罠、開かれた城門、あまりにも都合よく王都の奥へと誘い込まれたこの状況。
全てが、一つの恐ろしい可能性へと繋がっていった。
マリーは剣を握る手に、力を込めた。
「ならなおさら私は、進まなければならない」
声に覚悟が宿った。
「ハラルドが何を考えているのか、この目で確かめる」
フレイはしばらく、マリーを見つめていた。
やがて静かに、剣を鞘に納めた。
「私の負けです」
その声に、迷いはなかった。
「あなたに剣を向ける資格は、もう私にはありません」
マリーは、剣を下ろした。
「フレイ」
静かに名を呼んだ。
「あなたは二年前、私を救ってくれた」
その目に、感謝の色が宿った。
「それだけで、十分だ」
フレイは、深く頭を下げた。
「王宮の門は、王家の血統でも開かない仕掛けがされています」
フレイはそう告げてから、静かに続けた。
「しかし」
懐から、小さな鍵に似た金属の道具を取り出した。
「私には摂政閣下直属の、解除権限が与えられています」
その道具を、正門の脇にある小さな金属の窪みへと差し込んだ。
「施錠機構そのものを、一時的に解除できます」
マリーはしばらく、フレイを見つめていた。
やがて小さく頷いた。
「頼む」
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王宮の大階段。その静けさの中で二年前の真実が、ようやく明らかになった。
しかし、その真実は新たな疑問を生んでいた。
ハラルドは一体何をこの二年間、そして今日この日に企んでいるのか。
その答えは、まだ王宮の奥深くに隠されたままだった。
つづく…
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