第106話 選択と策略
フロストヘイムでの会談を終え、マリーたちは領主館の一角に宿を借りていた。
夜が更けていた。窓の外、北国特有の冷たい星空が広がっていた。
扉が控えめに叩かれた。
「マリアンネ様」
エミールの声だった。
「少し、よろしいでしょうか」
マリーは扉を開けた。
エミールの顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。会談でのあの熱意に満ちた表情とは、また違う重さがそこにあった。
二人は部屋の隅、小さな卓を挟んで座った。
「どうした」
マリーが静かに尋ねた。
エミールは、しばらく言葉を探すように俯いていた。
「マリアンネ様を、支持することは」
ようやく口を開いた。
「私自身だけなら簡単です」
声に苦しさが滲んでいた。
「しかし領民を巻き込むとなれば、話は違います」
マリーは黙って、続きを待った。
「先ほど、家臣たちと話し合いました」
エミールは続けた。
「私に賛同する者もいれば、無謀だと反対する者もいます」
「兄のように思っていた家臣の一人とは」
声が小さくなった。
「今夜初めて、声を荒げて言い争いました」
マリーはしばらく、その言葉を受け止めていた。
やがて静かに言った。
「エミール」
「はい」
「私のために、領民を犠牲にする必要はない」
その言葉に、エミールが顔を上げた。
「以前の私なら」
マリーは続けた。
「従ってほしいと、言ったかもしれない」
「けれど、今は違う」
その目に、静かな確信があった。
「あなた自身が、領民と一緒に決めてほしい」
命令ではなかった。ただ選択の自由を、そのまま返す言葉だった。
エミールは、しばらく動けなかった。
やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声が震えていた。
「その言葉だけで私はもう一度、家臣たちと話す勇気が持てます」
マリーは小さく頷いた。それ以上多くを語らなかった。
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エミールが去った後しばらくして、再び扉が叩かれた。
今度は、ヴィクトールだった。
「夜分に失礼」
彼は静かに、椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に、話しましょう」
その口調には、商人特有の率直さがあった。
「兵は出しません、しかし」
ヴィクトールは続けた。
「食料、馬、武器、資金。それらの提供なら考えます」
マリーは興味深そうに、その言葉を聞いていた。
「見返りは」
率直に尋ねた。
「もし、あなたが王になった暁には」
ヴィクトールの目が、細くなった。
「交易政策について、我が一族の優遇を約束していただきたい」
マリーはしばらく沈黙した。
やがてはっきりと答えた。
「それはできない」
ヴィクトールの眉が上がった。
「王になったからといって」
マリーは続けた。
「あなたの商売だけを、優遇するつもりはありません。それは他の全ての諸侯や商人たちへの、不公平になります」
その答えにヴィクトールは、しばらくマリーを見つめていた。
やがて口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……なるほど」
興味深そうに頷いた。
「あなたは、買収できない王ですか」
その声に皮肉ではなく、確かな興味の色があった。
「面白い」
ヴィクトールは、立ち上がった。
「支援については、改めて検討します。見返りは求めずに」
そう言い残し、部屋を後にした。
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最後に訪れたのは、グスタフだった。
老齢の体をゆっくりと、椅子に沈めた。
「あなたが」
しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「王になったとして、我々諸侯をどう扱うつもりですか」
マリーはまっすぐ、その目を見た。
「何も命令するつもりはありません。ただ、王国を守るために必要なことは、一緒に決めてほしい」
グスタフは、しばらく何も言わなかった。その目に長年の経験に裏打ちされた、静かな観察の色があった。
「理想論だ」
ようやく口を開いた。
「そう思われますか」
「思う」
グスタフは頷いた。
「しかし」
少し間を置いた。
「危険な理想家か、それとも本当に王になれる人物なのか」
その目に、わずかな変化があった。
「私には、まだ判断がつかない」
それだけ告げて、グスタフは立ち上がった。
「もう少し、見極めさせて頂きたい」
マリーは静かに頷いた。
「いくらでも」
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王都、摂政執務室。
ハラルドの前に、フレイが立っていた。
「北部諸侯の状況は」
ハラルドが尋ねた。
「まだ、一枚岩ではありません」
フレイは報告した。
「グスタフ卿は中立。ヴィクトール卿は様子見。エミール卿のみ明確に、マリアンネ様を支持しています」
ハラルドはしばらく考えた。
それから静かに告げた。
「北部を、一つにさせるな」
フレイはその言葉の意味を、正確に理解していた。
「グスタフ卿には、密使を送れ」
ハラルドは続けた。
「中立を維持すれば、北部の自治権を保証すると持ちかけろ」
「ヴィクトール卿には、交易特権を提示しろ」
「エミールの領地には」
その声に、初めて冷たさが宿った。
「政治的な圧力をかけろ」
フレイは静かに、それを書き留めていった。
「目的は戦争ではない」
ハラルドは続けた。
「北部諸侯の分断だ」
その戦略には、感情の色がなかった。ただ状況を正確に分析し、最も効果的な一手を導き出す、冷徹な思考だけがあった。
マリーが人を自ら選ばせようとするのに対して、ハラルドは人を条件と利害で動かそうとしていた。
どちらの手法にも、それぞれの論理と説得力があった。
フレイは一礼し、命令を受けた。
「かしこまりました」
つづく…
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