第105話 王の覚悟と、北の選択
世界樹神殿を出発してから、半日が経っていた。
街道を六人と、アルヴィンの部隊が進んでいた。マリーの手には、まだ王印の重みが残っていた。
アルヴィンが馬を並べながら、口を開いた。
「北部軍団だけでは、王都を相手にするには足りません」
声には隠しきれない、現実の重さがあった。
「兵の数も装備も、王都軍とは比べものになりません」
ラグナルが頷いた。
「北部諸侯を、味方につける必要があります」
「北部には、複数の有力な諸侯がいます。彼らの兵力を束ねられれば、勝算は大きく変わります」
マリーはしばらく、二人の言葉を聞いていた。
やがて静かに、口を開いた。
「ならば」
馬の歩みを緩めた。
「私が会いに行こう」
アリシアが、隣で視線を向けた。
「王女として?」
マリーは少し考えた。
「王としてでもない」
その答えに、アリシアが目を細めた。
マリーは遠く、北部の空を見つめた。
「この国を一緒に変えてほしいと、お願いしに行く」
その言葉には命令する者の響きではなく、頼む者の率直さがあった。
アリシアはしばらく、マリーの横顔を見つめていた。それから小さく微笑んだ。
「いい顔に、なったわね」
「そうか?」
「ええ」
アイリが後ろから割り込んだ。
「王様らしく、なってきたじゃないか」
「王様らしくではなく」
マリーは苦笑した。
「私らしく、だ」
その返しに、マイアが小さく笑い声を上げた。
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北部最大の都市の一つ、フロストヘイム。
その領主館の大広間に、諸侯たちが集まっていた。
豪奢な装飾こそなかったが、天井の高い重厚な石造りの部屋だった。冬の名残の冷たい空気が、まだその隅々に残っていた。
長机を囲んで十数名の諸侯と、その従者たちが並んでいた。
その中でも、ひときわ目を引く三人がいた。
一人は白髪の老齢の男だった。
北部最大の領地を持つ大諸侯、グスタフ・ハーレン。その目は慎重に、マリーを値踏みするように見ていた。
もう一人は、まだ二十代半ばの若い諸侯だった。名をエミール・ソーン。北部の小さな領地を継いだばかりの青年だった。その目には熱意がはっきりと宿っていた。
最後の一人は四十代の細身の男だった。ヴィクトール・レイン。北部の交易路を握る実利派の諸侯だった。ハラルド政権とも、悪くない関係を保っている人物だった。
その三人が、それぞれ異なる視線でマリーを見ていた。
マリーは、王印を机の上に置いた。黄金の紋章が、鈍い光を放った。
「これが世界樹神殿で、私が証明されたものです」
声は静かだったが、揺らぎはなかった。
「私はマリアンネ・ヴァルケリア。正統な王位継承者です」
しばらく沈黙が流れた。
最初に口を開いたのは、グスタフだった。
「王印のことは、既に耳にしております。世界樹神殿からの報告も、届いております」
低い慎重な声だった。
「あなたの正統性は、疑いません」
その言葉に、周囲がわずかにざわめいた。
「しかし」
グスタフの目が、細くなった。
「王印を得たからといって、我々が戦争に参加する理由にはなりません」
その一言に、広間の空気が引き締まった。
エミールが身を乗り出した。
「グスタフ卿、それは」
「正統な王が戻られたのです。我々は従うべきでは」
「若造が」
誰かが、小さく呟いた。
エミールの顔が赤くなった。それでも退かなかった。
「私は、間違ったことを言っているとは、思いません」
その姿勢に、マリーは静かに視線を向けた。しかし口は挟まなかった。
ヴィクトールが、静かに割り込んだ。
「エミール殿の気持ちはわかる」
声は落ち着いていた。
「だが、感情だけで動ける立場の、者ばかりではない」
視線をマリーに向けた。
「マリアンネ様」
「はい」
「単刀直入に、お聞きします」
ヴィクトールの目に、鋭さが宿った。
「勝てるのですか」
「王都軍は強大です。北部軍団だけで、対抗できるのですか」
広間の視線が、一斉にマリーへと集まった。
マリーはしばらく沈黙した。誰もが、その答えを待っていた。
「私は」
声が静かに響いた。
「勝てるとは、言いません」
ざわめきが走った。誰かが失望したように、息を吐いた。
しかしマリーは続けた。
「王都軍と戦えば、多くの人が死にます。私は戦うことだけを、目的にはしません」
その言葉に、グスタフの目がわずかに動いた。
マリーは続けた。
「私が欲しいのは」
全員を見渡した。
「皆さんの兵では、ありません」
その一言に、諸侯たちの間に明らかな動揺が走った。
「では、何を求めていらっしゃるのですか」
エミールが、困惑した様子で尋ねた。
「皆さんの決意です」
マリーは静かに続けた。
「皆さんの領地を守るために、皆さん自身に決めてほしい。ハラルドの支配が、この国をこれからも守れると思うのか。それとも、変えるべきだと思うのか」
沈黙が広間を支配した。
グスタフが、しばらく目を閉じていた。
やがて口を開いた。
「もし」
声には重さがあった。
「我々があなたに従い敗北したら、我々の領地は家族は、あなたが責任を取ってくれるのですか」
その問いに、広間中の視線が再びマリーへと注がれた。
マリーは逃げなかった。
「私が責任を取ります」
迷いのない答えだった。
しかし。
「だから、従ってくださいとは」
マリーは続けた。
「言いません」
その続きに、グスタフの眉が上がった。
「それでも、危険だと思うなら」
マリーは、まっすぐ彼を見た。
「従わなくていい」
その言葉に、広間全体が驚きに包まれた。
王が自らの支持を、拒む機会を与える。これまでの常識では、あり得ない姿勢だった。
「王とは」
マリーは、静かに続けた。
「皆に命令する人ではないと、私は思っています。皆が選んだ道の、先頭に立つ人だと」
その声には、説教めいた響きはなかった。ただ自分自身に、言い聞かせるような率直さだけがあった。
グスタフは、しばらくマリーを見つめていた。その目に、これまでとは違う色が浮かび始めていた。
その時、グスタフの傍らにいた一人の諸侯が、アルヴィンへと視線を向けた。
「アルヴィン将軍」
声には、疑念が滲んでいた。
「あなたは本当に、この娘に賭けるのか」
アルヴィンは、静かに答えた。
「娘ではない」
その声に、確かな重みがあった。
「私はマリアンネ様が王であることを、世界樹自身が認めたのを、この目で見た」
そして続けた。
「だがそれだけで、従っているのではない。私は」
アルヴィンの目に、静かな確信が宿った。
「この方が、王として何をするのかを見た。仲間を犠牲にして王になる道を、拒んだ」
「だから」
アルヴィンは、はっきりと告げた。
「私は、この方に賭ける」
その言葉に、広間が静まり返った。
ラグナルが、続けて口を開いた。
「現在の戦力では、王都軍との正面衝突は危険です」
声は冷静だった。
「それは事実です」
その正直さに、諸侯たちの間に意外そうな色が浮かんだ。
「しかし」
ラグナルは続けた。
「北部が一つになれば、王都側も簡単には動けません。北部諸侯連盟。北部軍団。世界樹神殿の後ろ盾。そして」
マリーを見た。
「マリアンネ様の正統性。この四つが揃えば、政治的な基盤として決して弱くはありません」
しばらく誰も、口を開かなかった。
その静寂を破ったのは、大神官だった。いつの間にか、広間の隅に静かに立っていた。
「世界樹は、既に答えを出しました」
その声は穏やかだった。全員の視線が大神官へと向いた。
「ですが、王国の未来を決めるのは、世界樹ではありません。人が決めるのです」
その言葉に諸侯たちは、それぞれ自分自身の内側を、見つめ直すような表情を浮かべた。
長い沈黙の後、グスタフが静かに口を開いた。
「マリアンネ様」
「はい」
「我々は」
言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「まだ、王都と戦う覚悟はありません」
その言葉に、広間の一部から落胆の色が滲んだ。
マリーは静かに頷いた。
「それで構いません」
驚きが、グスタフの顔に浮かんだ。
「ただ」
マリーは続けた。
「覚えておいてください」
その目に、揺るがぬ光が宿っていた。
「私は、もう逃げません」
その言葉を聞き、アルヴィンが静かに微笑んだ。
エミールは、感激した様子で深く頭を垂れた。
「私は」
声が震えていた。
「私の領地の兵は少ないですが、マリアンネ様にお貸しします」
その宣言に、周囲がわずかにざわめいた。
ヴィクトールは、しばらく考える様子を見せた。
やがて静かに言った。
「我々は、まだ態度を保留します。しかし」
その目に、これまでとは違う色があった。
「あなたの覚悟は、見せて頂きました」
グスタフは最後まで、明確な答えを口にしなかった。
それでも会議が終わる頃には、その目に宿っていた値踏みするような色は、いつの間にか消えていた。
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王都ヴァルハイム。摂政執務室。
ハラルドの前に、フレイが立っていた。旅の埃を、まだ纏ったままの姿だった。
「世界樹は」
ハラルドが、静かに尋ねた。
「マリアンネ様を」
フレイは答えた。
「認めました」
ハラルドの表情は、変わらなかった。
「王印は」
「マリアンネ様の手に」
その瞬間ハラルドの指が、机の上でわずかに動いた。これまでの報告の中で、初めて見せた反応だった。
「北部軍団は」
「アルヴィン将軍が、離反しました」
ハラルドは、静かに目を閉じた。
しばらくその姿勢のまま動かなかった。部屋に重い沈黙が落ちた。
しかし激怒することはなかった。
ハラルドは、静かに目を開けた。
「そうか」
それだけ答えた。その声には、驚くほどの静けさがあった。
「では」
ハラルドは窓の外、北の方角を見つめた。
「次は、北部諸侯か」
その呟きには、既に次の一手を考え始めている、冷徹な思考の気配があった。
フレイはそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに頭を下げた。
窓の外、王都の街並みの遥か向こうに、北の空が静かに広がっていた。
その空の下で、新たな政治の駆け引きが、静かに動き始めていた。
つづく…
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