第104話 私は、もう逃げない
王権の間から、王印を手にしたマリーが戻ってきた。
広間で待っていた者たちの中に、フレイの姿もあった。
その姿を見て、フレイは静かに頭を下げた。
「……世界樹は、あなたを認めたのですね」
声に驚きはなかった。ただ、静かな確認の響きだけがあった。
マリーは、フレイをまっすぐに見た。答えは、手の中の王印そのものが、語っていた。
アルヴィンが、フレイを見た。
「フレイ」
フレイは振り返った。
「何でしょう」
「お前を、拘束するつもりはない」
その一言に、ラグナルが目を見開いた。
「アルヴィン将軍?」
アルヴィンは、自分の兵士たちを見渡した。
「私もつい先ほどまで、ハラルド閣下の命令で、この神殿を封鎖していた」
声には、自嘲めいた響きがあった。
それから、マリーを見た。
「命令に従っていたという点では、私もお前も同じだ」
視線を、フレイへと戻した。
「だが、私はもう決めた。これからは、マリアンネ様に仕える」
フレイは、その言葉を静かに受け止めた。
「では私にも、同じ選択をしろと」
「いや」
アルヴィンは、首を振った。
「お前が誰に仕えるかは、お前自身が決めればいい」
その言葉には、押し付けがましさがなかった。ただ選択の自由を、そのままフレイに委ねる、静かな誠意だけがあった。
フレイは、マリーへと視線を移した。
「……マリアンネ様」
「何だ」
「あなたは、私をどうされますか」
その問いには、恐れも媚びもなかった。ただ、事実を確認したいという、フレイらしい淡々とした響きだけがあった。
マリーは、少し考えた。
「今は、何もしない」
静かに答えた。
「あなたは、ハラルドの命令を受けてここへ来た。そして私は今、世界樹に王として認められた」
手の中の王印を、フレイに見せた。黄金の紋章が部屋の光を受けて、鈍く輝いていた。
「ならばあなたには、伝えるべきことがある」
フレイは目を細めた。
「ハラルド閣下へ、ですか」
「そうだ」
マリーは、まっすぐフレイを見た。
「私はもう逃げないと、伝えてほしい」
フレイはしばらく、マリーを見つめていた。
そのまなざしの奥に何を思っているのか、周囲の誰にも読み取ることはできなかった。
「……承知しました」
それだけ答えて、フレイは踵を返した。広間の出口へと歩き始めた。
その背中へ、ラグナルが声をかけた。
「フレイ」
フレイが足を止めた。振り返らなかった。
「次に会う時は」
ラグナルの声に、静かな重みがあった。
「敵になるかもしれない」
「そうですね」
フレイは前を向いたまま答えた。
「ですが、それは」
一拍置いた。
「今日までと、何も変わりません。私もあなた方も、それぞれ自分の主君のために、動いているだけです」
その言葉には、恨みも後悔も滲んでいなかった。ただ事実として、そこにあるだけ――そんな乾いた静けさがあった。
フレイはそのまま歩き続けた。広間の扉を抜け聖域の外へと、その姿が消えていった。
残された者たちの間に、しばらく沈黙が流れた。
マリーは王印をそっと、両手で包んだ。
フレイの去っていった方角を、しばらく見つめていた。
これからあの女は王都へ戻り、ハラルドにこの日のことを伝えるだろう。
その瞬間から。
本当の始まりが、動き出す。
「行こう」
マリーは、仲間たちを振り返った。
「まだ、終わっていない」
誰も異論を唱えなかった。
王権の証を、手にしたその足で。
六人は次なる戦いへと、歩き始めた。
つづく…
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