第10話 ごめんなさい、と少女は魂を奪った
アリシアは深く息を吸い、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、一つの光景だけだった。
リアナと別れた、洞窟近くの森。
何百年も生き続けてきたような巨木。幹を覆う濃い苔。
枝葉は夜空を隠し、風が吹くたび、ざわりと低い音を立てて揺れる。
湿った土の匂いまで、はっきりと思い出せた。
そして——リアナの顔。
振り返った時の、小さな微笑み。
「リアナ……お願い。私たちを、導いて」
腕の中で眠るミリアの身体が、かすかに震えた。
アリシアは彼女を抱き寄せ、光焔の杖を掲げる。
杖の先端に、淡い金色の火が灯った。
冷え切った洞窟の空気が、ゆっくりと揺らぎ始める。
「繋げ……光の焔よ……」
詠唱と同時に、光が弾けた。
無数の金色の粒子が暗闇へ舞い上がり、洞窟の岩壁を覆っていく。
空間が軋むように震え、冷たい空気が薄れていった。
代わりに流れ込んできたのは、草木の匂いを含んだ夜風だった。
景色が、反転する。
――――
森は静かだった。
洞窟の入口近くで、リアナは杖を抱えるように持ち、じっと闇を見つめていた。
夜風が青色の髪を揺らす。
祈ることしか、できなかった。
アリシアが無事である保証など、どこにもない。
それでも、待っていた。
その時だった。
闇の中に、金色の粒子が浮かび上がった。
リアナが息を呑む。
粒子は空中を漂いながら渦を巻き、ゆっくりと人の形を作っていく。
揺れていた光が、次第に輪郭を持ち始めた。
「……アリシア様?」
声が、震えた。
次の瞬間、光が散る。
そこに、アリシアが立っていた。
ミリアを抱いたまま。
アリシアの呼吸は荒く、額には汗が滲んでいる。
それでも、その腕だけは決して緩んでいなかった。
リアナの肩から、一気に力が抜けた。
駆け寄ろうとして、途中で足を止める。
ミリアを強く抱きしめれば、眠りを妨げてしまうかもしれない。
そんなことまで頭に浮かんでしまった。
「ミリア……アリシア様……」
言葉の最後が掠れる。
目元に滲んだ涙を隠すように、リアナは小さく顔を伏せた。
「……よかった……」
アリシアはわずかに笑みを返した。
だが、その直後。
膝が崩れるように地面につく。
安堵しかけた意識を、アリシアは無理やり引き戻した。
——静かすぎる。
森の空気は重く、湿っていた。
風が枝を揺らす音だけが、遠くで低く鳴っている。
安全ではない。
そう身体が告げていた。
アリシアは呼吸を整えながら、周囲へ視線を巡らせた。
「……ここから村まで、どれくらいですか?」
疲労で声が掠れている。
それでも瞳の奥の光だけは消えていなかった。
「歩いて、一時間ほどです」
リアナが答える。
アリシアは小さく頷いた。
「三人で飛ぶほどの魔力は、もう残っていません」
立ち上がろうとして、杖に体重を預ける。
指先に、うまく力が入らなかった。
魔力を使い切った後特有の寒気が、骨の奥に残っている。
「アリシア様」
リアナがすぐに駆け寄った。
両手を胸の前で重ね、小さく呪文を唱える。
淡い緑色の光が、静かにアリシアを包み込んだ。
「私の魔法で、どこまで戻せるかわかりませんけど……」
その声には、不安と悔しさが滲んでいた。
光が身体へ染み込むたび、張り詰めていた痛みが少しだけ和らいでいく。
アリシアはゆっくり息を吐いた。
「……ありがとうございます」
リアナは何も答えず、ただ安心したように頷いた。
三人は森を進み始めた。
リアナが先頭を歩き、何度も周囲を確認する。ミ
リアは眠そうな目を擦りながら、リアナの手をしっかり握っていた。
アリシアは最後尾で杖を構え、木々の隙間へ鋭い視線を向け続ける。
枝が揺れるたび、反射的に意識が向いた。
湿った根に足を取られそうになりながらも、三人は黙って歩き続ける。
やがて。
木々の向こうに、小さな灯りが見えた。
リアナが足を止める。
朝焼けに染まり始めた空の下、村が静かに佇んでいた。
煙突から細い煙が昇り、どこかの家から朝食を作る匂いが流れてくる。
その匂いを嗅いだ瞬間。
ミリアの肩から、ふっと力が抜けた。
「……着きましたね」
リアナが振り返り、小さく笑う。
アリシアは答えず、ただ村を見つめていた。
遠くで、朝を告げる鐘が鳴る。
その音を聞いて初めて、アリシアは杖を下ろした。
ミロ、ガイ、レオの三人は、木々の隙間を縫うように森を進んでいた。
枝を踏むたび、湿った音が鳴る。
夜の森は静かだった。静かすぎるほどに。
本来なら感じ取れるはずの闇の気配が、どこにもない。
まるで最初から存在しなかったように、森は沈黙していた。
先頭を歩くガイが低く舌打ちする。
「逃げたのか……?」
「いえ」
後方のミロが首を振った。
「隠されています。闇の流れそのものが、途中で断ち切られている」
レオは肩に担いだ大剣をわずかに下げ、辺りを見回した。
「気味悪ぃな……」
風が吹く。
枝葉が揺れ、月光がまだらに地面を照らした。
その時だった。
「……待て」
ガイが足を止める。
小さく開けた空間の中央。
そこに、“それ”はあった。
半透明の球体。
水晶のように澄んでいるのに、内部には黒い霧がゆっくりと渦巻いている。
表面には紫色のルーン文字が浮かび、脈打つように明滅していた。
そして、その中心。
ひとりの少女が膝を抱えて座っていた。
長い紫髪が肩から零れ落ち、月光を淡く反射する。
服は泥で汚れていたが、その姿には奇妙な気品が残っていた。
少女が顔を上げる。
大きな瞳が、まっすぐガイを見つめた。
レオが眉をひそめる。
「……ガキじゃねぇか」
「油断するな」
ガイの声は鋭かった。
「悪魔は、人の形で近づいてくる」
少女の視線は揺れない。
その静けさが、逆に不気味だった。
「……これは」
ガイはゆっくりと結界へ近づく。
だが、あと数歩というところで足を止めた。
結界の表面が、脈打ったからだ。
黒い波紋が広がる。
その奥から、無数の“手”のような影が浮かび上がった。
レオが反射的に一歩下がる。
「なんだ、今の……」
ミロは目を細めたまま答えた。
「こちらを見ています」
森の空気が冷えた。
結界は、生きている。
ガイが剣を抜く。
白銀の刀身が月光を反射した。
「壊すしかない」
「待てよ、本当にやるのか?」
レオが少女を見る。
「怯えているようにしか見えねぇぞ」
「だから危険なんだ」
ガイは迷わなかった。
「ライザック様は、“ヴァレリアの仲間”を探せと言った」
そして結界へ向き直る。
「光で斬る」
ガイは深く息を吸い込み、剣を構えた。
「――輝天斬閃!」
剣が振り下ろされる。
眩い光が一直線に結界へ叩きつけられた。
次の瞬間。
耳障りな悲鳴のような音が森に響いた。
結界の表面が裂ける。
だが同時に、黒い霧が傷口へ集まり始めた。
まるで肉が再生するように。
「再生している……!」
ミロが声を上げる。
裂け目の奥で、黒い影たちが蠢いていた。
そのうちの一つが、結界越しにガイの腕へ触れた。
「っ……!」
ガイが顔を歪める。
一瞬だけ。
頭の奥へ、知らない声が流れ込んできた。
――死ね。
冷たい囁きだった。
ガイは強引に剣を引き戻し、距離を取る。
「精神干渉か……厄介だな」
レオが大剣を握り直す。
「なら、一気に叩き割るしかねぇ」
ミロは結界を見つめ続けていた。
紫の光が、一定の周期で弱まっている。
「……あります」
「何がだ?」
「結界の脈動です。一瞬だけ、防御が薄くなる場所がある」
ガイが笑う。
「それを待ってた」
三人は位置についた。
ミロが弓を引く。
光の矢が淡く輝き始める。
レオは大剣を両手で握り、低く腰を落とした。
そしてガイが、剣を正面へ構える。
「合わせろ」
森が静まり返る。
結界の明滅が弱まった、その瞬間。
「今です!」
ミロの矢が放たれた。
光が裂け目へ突き刺さる。
結界が揺らいだ。
そこへレオが踏み込む。
「おおおおッ!!」
大剣が叩きつけられ、轟音と共に裂け目が広がった。
黒い霧が吹き出す。
最後にガイが駆けた。
「陽光斬光剣!!」
剣が光を放つ。
その一撃が裂け目を貫いた瞬間、結界全体に亀裂が走った。
紫のルーンが砕け散る。
球体は悲鳴のような音を立てながら崩壊し、光と闇の粒子となって夜空へ消えていった。
静寂。
レオが息を吐く。
「……終わったか?」
「いや――」
ガイの言葉が止まる。
少女が、立っていた。
リリムは三人を見つめていた。
胸の奥で、鼓動が速くなる。
男たちの足音。
近づいてくる視線。
その瞬間、脳裏に蘇る。
笑い声。
押さえつけられた腕。
逃げられなかった夜。
呼吸が浅くなる。
足が動かない。
怖い。
怖い怖い怖い。
「お前、ヴァレリアの仲間か?」
ガイの声。
その低い響きだけで、リリムの肩が跳ねた。
「ヴァレリアさんを……知っているの……?」
「答えろ」
ガイが一歩前へ出る。
リリムは反射的に後ずさった。
駄目。
逃げられない。
また捕まる。
胸の奥で何かが弾けた。
その瞬間。
地面が震える。
黒い魔力が、リリムの身体から噴き出した。
落ち葉が宙へ舞い上がる。
空気が重く沈み込み、森の温度が一気に下がった。
「なんだ、この魔力……!」
ミロの顔色が変わる。
リリムは自分でも止められなかった。
闇が溢れていく。
恐怖。
怒り。
絶望。
全部が混ざり合い、魔力へ変わる。
「やっぱり悪魔か!」
ガイが剣を構える。
だが、遅かった。
リリムが両手を広げる。
黒い雷が空間を走った。
「――奈落の嵐!!」
闇が爆発する。
無数の黒い刃が嵐のように吹き荒れた。
ガイが剣で受ける。
レオが前へ出て仲間を庇う。
ミロが防御術式を展開する。
それでも、防ぎ切れなかった。
闇が三人を呑み込む。
衝撃音。
木々が軋む。
そして。
三人の身体が、地面へ叩きつけられた。
リリムは荒い息を吐いた。
自分が何を放ったのか、理解できない。
ただ、静かだった。
恐れていた相手は、もう動かない。
「……これで、終わり……?」
ゆっくり近づく。
倒れた三人の顔には苦痛が残っていた。
けれど。
あの男子生徒たちのような笑みは、どこにもなかった。
リリムの胸に、小さな違和感が残る。
「エリザって人の方が……ずっと強かった……」
その時だった。
三人の身体から、淡い金色の光が浮かび上がる。
魂。
リリムは無意識に左手を伸ばしていた。
光が指先へ吸い込まれる。
その瞬間。
知らない感情が流れ込んできた。
仲間を守ろうとした想い。
恐怖。
誇り。
短い人生の断片。
リリムは顔を歪めた。
「……っ」
温かい。
それが、人の魂だと理解した瞬間、背筋が寒くなった。
それでも吸収は止まらない。
「……ごめん、なさい……」
震える声が漏れる。
やがて光が消える。
森には再び静寂だけが残った。
リリムはしばらく三人を見下ろしていた。
そして、静かに左手を掲げる。
「……死人操作」
黒い魔力が死体へ流れ込む。
空気が冷える。
関節が、ぎちりと鳴った。
最初にガイの指が動く。
次にレオの肩が震え、ミロの首がゆっくり持ち上がった。
糸で吊られた人形のような動きだった。
三人は立ち上がる。
瞳には、もう光がなかった。
リリムは小さく息を飲む。
それでも命じる。
「……ヴァレリアさんのところへ、案内して」
死人たちは無言で振り向いた。
そして歩き出す。
ぎこ、ぎこ、と不自然な足音が森に響く。
リリムはその後ろを静かについていった。
月明かりの下。
死者たちの行進だけが、夜の森を進み続けていた。
(次回、兄弟を殺し、仲間に変えた夜)
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闇に堕ちたリリム、賢者アリシア、悪魔に魂を売った女ヴァレリア――
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