全部
葵がテーブルの向かいに座った。
前回一緒に食事をしたときと同じ位置。でも今回は、葵の目がちゃんとこっちを見ていた。泣いた後の赤い目で、まっすぐ。
聞きたいことが多すぎて、何から聞けばいいかわからなかった。でも一番最初に出てきたのは、ずっと気になっていたことだった。
「葵ちゃんは、僕がいなくなった後も、あの施設にいたの?」
葵が小さく頷いた。
「奏多くんが出ていった後も、しばらくいた。……わたしは『卒業』できなかったから」
「卒業って——奥の部屋に、記録があった。卒業した子供の行き先が、全部塗りつぶされてた。あれは何」
葵の顔が強張った。しばらく黙っていた。
「……あの施設は、普通の孤児院じゃなかった」
声が低かった。今まで聞いたことのない声。
「子供たちに検査をしてた。何の検査かは、わたしにもよくわからない。でも——『卒業』した子は、どこかに連れていかれた。帰ってきた子はいない」
「連れていかれて、どうなったの」
「わからない。でも——いいことじゃないと思う」
葵の手が膝の上で握られた。
「わたしは、ある夜、先生たちの話を聞いちゃったの。聞いちゃいけない話を。それからは——外出禁止になって、他の子供たちとも隔離されて」
「処分保留、って書いてあった。きみの名前の横に」
葵が息を呑んだ。あの記録を見たことに気づいた目だった。でも怒らなかった。
「……うん。消される予定だった。でも——逃げた。地下に隠れて、ずっと」
「ずっとって——何年も?」
「何年も」
静かな声だった。
「施設は閉鎖されたけど、地下のことは誰も知らなかった。上は廃墟になって、誰も来なくなった。食べ物は——最初は備蓄があって、それがなくなってからは夜に外に出て」
一人で。何年も。この地下で。
僕が学校に行って、コンビニで弁当を買って、平野と昼飯を食べていた間、葵ちゃんはここにいた。暗い地下で、一人で生き延びていた。
「……それで、僕を見つけたの?」
「奏多くんのことは、ずっと探してた」
葵が僕を見た。まっすぐ。
「見つけたのは——二年くらい前。奏多くんが高校に入った頃。制服を着て歩いてるのを、たまたま見かけて」
「二年」
「……うん」
二年。あの写真の中で一番古いものは夏服だったけど、もっと前から見ていたのか。
「どうして——声をかけなかったの」
葵が小さく首を振った。
「かけられないよ。奏多くんは普通に暮らしてた。友達がいて、学校があって。わたしなんかが出ていったら——全部壊しちゃう」
わたしなんか。その言い方が胸に刺さった。
「でも見てたんだね」
「……ごめんなさい」
「怒ってるんじゃないよ。ただ——」
言葉を探した。
「二年間も、ずっと一人で見てるだけって。つらくなかった?」
葵が目を逸らした。答えなかった。答えなくてもわかった。
---
「——僕の頭を殴ったの、葵ちゃんじゃないよね」
後頭部に手をやった。もう痛みはない。薬のおかげで。でも最初に目覚めたとき、血がこびりついていた。
葵が首を横に振った。
「あれは——あの人たち」
「あの人たちって?」
「施設のことが外に漏れたら困る人たち。普通に退園した子が、何かを思い出したり、誰かに話したりしないように——監視してる」
「僕も?」
「奏多くんも。でも奏多くんは施設のことを何も覚えてなかったから、しばらくは放置されてた。でも最近——動き始めた」
「動き始めたって……」
「奏多くんを消すために」
声が震えていた。でも目は逸らさなかった。
「わたしはそれをずっと見てた。あの人たちの動きを追いながら、奏多くんを見てた。あのノートも、地図も、全部そのため。赤いマーカーは奏多くんの行動範囲。青いマーカーは——」
「あの人たちの位置?」
葵が頷いた。
あの地図の意味がやっとわかった。葵は僕をストーキングしていたんじゃない。僕を監視している連中を、さらに監視していた。
「あの夜、帰り道で——あの人たちに殴られたのを、葵ちゃんが見つけたの?」
「奏多くんが倒れてるのを見つけたときは——」
声が詰まった。
「もう間に合わないかと思った。頭から血が出てて。でも息はあったから、ここに連れてきた。頭を殴られてたから、お薬を用意して——」
薬の意味が全部繋がった。頭部打撲の治療薬。最初から、葵は僕を治そうとしていた。僕がずっと拒否していた、あの白い錠剤。
「枷は?」
「……ごめんなさい」
二度目の「ごめんなさい」。同じ言葉なのに、さっきより小さかった。
「目が覚めたら、奏多くんはきっとパニックになると思った。外に出ようとすると思った。でも外にはあの人たちがいる。出たら——殺される。だから」
枷。あの枷は、外に出て殺されないための拘束だった。
---
しばらく黙っていた。二人とも。蛍光灯のチカチカだけが響いていた。
もう一つ、聞かなきゃいけないことがある。一番怖い質問。でも、ここまで来たら聞かないわけにはいかない。
「葵ちゃんは——僕を、殺そうとしてる?」
葵の肩が跳ねた。顔が強張る。
「この前……一緒にごはんを食べた日の夜。葵ちゃん、僕の首に手を回したよね」
葵の顔から血の気が引いていくのが見えた。
「あれは——何をしようとしてたの」
長い沈黙だった。今までで一番長い。
葵の目に、涙が溜まっていった。
「……逃げ切れないって、思ったの」
声が絞り出すように小さかった。
「食料もそんなに持たない。外に出れば見つかる。見つかれば場所がバレる。ここにいても、いずれ——」
葵の目に、あの光が浮かんだ。七日目の夜の、焦点のずれた目。でもすぐに消えた。今の葵は、あの仮面を被っていなかった。
「捕まるくらいなら。あの人たちに奏多くんを渡すくらいなら——わたしの手で」
その先は言わなかった。でも意味はわかった。
逃げ切れないと思ったとき、葵は僕を殺すことを選ぶ。あの人たちに渡すよりは、自分の手で。
「……最初から、そのつもりだったの」
「ううん。最初は——ここで隠れてれば、そのうちあの人たちも諦めると思ってた。でも、日が経つにつれて——ダメだって」
「何がダメだったの」
「あの人たちは諦めない。外の巡回が増えてるのがわかる。食料を取りに行くのも、前より危なくなってる。いつかここが見つかる。時間の問題だって」
葵の手が膝の上で震えていた。
「見つかったら——奏多くんが連れていかれる。あの子たちと同じ場所に。それだけは絶対に嫌だった」
全部繋がった。
葵は僕を守ろうとしていた。ずっと。最初から。枷も、薬も、食事も、全部。でも守り切れないと悟ったとき——僕を殺すことを選んだ。あの人たちに渡すくらいなら、と。
「……ごめん」
自然と出ていた。
葵が首を横に振った。
「奏多くんは悪くない。何も知らなかったんだから。知らない場所で知らない人に閉じ込められて——怖かったでしょ」
知らない人。葵は自分のことをそう言った。
---
「葵ちゃん。一緒に、ここを出よう」
葵が顔を上げた。
「外に出て、二人で逃げよう。追手がいるのはわかった。でもここにいたら同じことの繰り返しだよ。奥の部屋に記録が残ってる。あれを持って、然るべきところに届ければ——」
「でも——外には」
「葵ちゃんは今まで一人で追手を見張ってたんでしょ。一人でここまでやったんでしょ。今度は二人だよ」
葵は黙っていた。目が揺れていた。唇を噛んでいた。
「僕は、もう何も知らない奏多じゃない。全部思い出した。葵ちゃんのことも、施設のことも。だから——一人にしない」
一人にしない。
その言葉を言ったとき、葵の目から涙がこぼれた。今度は声を殺さなかった。小さく、震える声で泣いた。
「……うん」
頷いた。
「うん。……一緒に、出よう」
声は震えていたけど、頷いた。
初めて、七日目の向こう側が見えた気がした。




