ここにいようよ
六日目の朝、二人で脱出の段取りを話した。
葵の部屋のテーブルに、あの手書きの地図を広げた。初めて二人で同じものを見ている。
「排水路は奥の部屋のさらに奥にある。昔の施設の排水設備で、途中で崩れかけてるところがあるけど、通れる」
「葵ちゃんは通ったことあるの?」
「一度だけ。食料を取りに行くルートを探してたとき」
葵の指が地図の上をなぞる。排水路を抜けた先は、施設の敷地の外に出る。そこから山道を下れば、集落に出られるらしい。
「あの人たちは、施設の周りを巡回してる。でもパターンがあるの。夜の三時から五時の間は、一番手薄になる」
「その隙に出る」
「うん。記録も持っていく。奥の部屋のファイル」
葵は具体的で、冷静で、頼りになった。何年もこの地下で一人で生き延びてきた人間の強さがあった。
でも——話しているとき、葵の目が一瞬だけ泳ぐのを見た。地図から目を上げて、僕の顔を見て、すぐに地図に戻す。何かを言いかけて、飲み込む。
気のせいだと思った。
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七日目。
朝、葵が食事を持ってきた。ご飯と味噌汁と、卵焼き。テーブルに置いて、向かいに座った。昨日と同じ。でも、何かが違った。
「今夜——出る、んだよね」
葵がそう聞いた。確認するように。でも声が硬かった。
「うん。三時に動こう」
「……うん」
食事の間、葵はほとんど喋らなかった。僕が何か話しかけると、短く返事をする。笑わない。昨日まで脱出の準備を一緒にやっていたときの、あの冷静な表情もない。
「葵ちゃん? 大丈夫?」
「……大丈夫」
大丈夫じゃなかった。わかっていた。でも、何が大丈夫じゃないのかがわからなかった。
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昼の食事のあと、脱出の最終確認をしようとした。
「排水路の崩れてるところ、どれくらいの幅——」
「ねえ、奏多くん」
遮られた。葵がテーブルの上の地図を見つめたまま、言った。
「もう少し、待った方がいいかも」
「……え?」
「今日——あの人たちの動きが、いつもと違う気がする。巡回が多い。もう少し様子を見てからの方が——」
「でも、昨日はパターンが読めるって」
「昨日と今日は違うかもしれない」
目が合わなかった。地図を見つめたまま、僕の方を見ようとしない。
「葵ちゃん」
「もう一日——もう一日だけ、待とう? ね?」
声が甘かった。お願いするような、すがるような声。でもその奥に、別のものが見えた。
「もう一日待ったら、何が変わるの」
「……もう一日、ここにいるだけだよ。二人で。それだけ」
そのとき、やっと気づいた。
葵は巡回の話なんかしていない。待ちたいんじゃない。『出たくない』んだ。
「葵ちゃん。本当のこと言って」
葵の肩が震えた。地図の上に置いていた手が、ぎゅっと握られた。
長い沈黙があった。
「……外に出たら」
小さな声だった。
「外に出たら、奏多くんはまた普通に暮らすでしょ」
「——え?」
「友達がいて。学校があって。平野くんとお昼ごはん食べて。コンビニで弁当買って帰って。——わたしがいなくても、全然困らなかったでしょ、今まで」
葵が顔を上げた。目が赤かった。いつから泣いていたのか、気づかなかった。
「奏多くんが施設を出ていくとき——わたし、『行かないで』って言ったの。覚えてる?」
「……覚えてる」
「奏多くんは、何も言わなかった。何も言わないで、行っちゃった」
声は静かだった。責めているんじゃない。事実を確認しているだけ。でもその静かさが、かえって刺さった。
「それから——奏多くんは、わたしのこと忘れたよね」
返す言葉がなかった。事実だから。
「名前も。顔も。隣に座ってたことも。全部忘れて、普通に暮らしてた。わたしが地下にいる間——奏多くんは、笑ってた」
葵の目から涙がこぼれた。でも声は震えなかった。もう何度も反芻した言葉みたいに、滑らかだった。
「外に出たら、また同じことになる。奏多くんは普通の世界に戻って、わたしは——また一人になる」
「ならないよ。今度は——」
「なるよ」
遮られた。葵の声が、少しだけ強くなった。
「なるの。だって奏多くんは優しいから。『一緒にいる』って言ってくれる。でもそれは今だけ。ここにいるから言えるの。外に出たら——普通の生活が始まって、友達ができて、好きな人ができて。わたしのことなんか——」
「葵ちゃん」
「忘れるよ。また」
静かな断言だった。
葵が立ち上がった。テーブルを回って、僕の方に来た。目の前にしゃがんで、顔を覗き込む。涙の跡が頬に光っている。でも、笑っていた。あの笑顔じゃない。もっと壊れそうな、ぎりぎりの笑顔。
「ねえ。ここにいようよ」
両手が僕の頬に添えられた。冷たい指先。優しい手つき。
「ここにいれば、ずっと二人きりだよ。誰も来ない。誰にも邪魔されない。奏多くんはわたしのことを忘れないし、わたしも奏多くんのそばにいられる」
「葵ちゃん、でも——ここにいたら」
「死んじゃう?」
笑った。本当に可笑しそうに。
「いいよ。二人なら」
背筋が凍った。この声を知っている。この笑顔を知っている。七日目の夜の、あの目。焦点がずれた、穏やかで、満ち足りた目。
でも今までとは違った。今までの七日目の夜は「逃げ切れないから」だった。仕方なく殺す葵だった。今の葵は違う。『殺したいんじゃない。ここにいたいんだ。』二人きりで。ずっと。そのためなら死んでもいい。
「外に出ても一緒にいる。約束する。だから——」
「約束なんかいらない」
声が変わった。甘さが消えて、冷たくなった。
「約束したって、人は忘れるよ。奏多くんは忘れる。前もそうだった」
「前とは違う。僕はもう思い出した。葵ちゃんのこと——」
「思い出したから何?」
葵の手が頬から首に滑り降りた。ゆっくりと。愛撫するように。
「思い出したって、また忘れるよ。普通の世界に戻ったら。わたしのことなんか、すぐに——」
「忘れない」
「忘れるの!」
初めて葵が叫んだ。声が裏返った。涙が飛び散った。
「忘れるの。みんなそう。奏多くんだけじゃない。施設でも——わたしに話しかけてくれる子なんかいなかった。先生たちだって、わたしのことなんか見てなかった」
声が震えていた。叫びが嗚咽に変わっていく。
「奏多くんだけだったの。奏多くんだけが——隣にいてくれたの。わたしに話しかけてくれたの。だから——だから——」
手に力が入った。首に。
「——お願い。ここにいて。どこにも行かないで」
押し倒された。床に背中がついた。葵が上から覗き込んでいる。涙でぐしゃぐしゃの顔。笑おうとして、笑えなくて、泣いていて、それでも僕の目を見ている。
「行かないでって言ってるのに——どうして、みんな行っちゃうの」
首に回された手が、締まっていく。
「葵ちゃ——」
「好きだよ」
唐突だった。首を絞めながら、涙を流しながら、葵はそう言った。
「ずっと好きだった。施設にいたときから。ずっとずっと。奏多くんが隣にいてくれるだけで、あの場所でも生きていけた」
力が緩まない。締めたまま、言葉が溢れてくる。堰を切ったように。
「奏多くんがいなくなってからも、ずっと好きだった。地下で一人でいるとき、奏多くんの顔を思い出してた。声を思い出してた。いつか会いたいって——それだけで生きてた」
涙が僕の頬に落ちてきた。葵の涙。温かかった。
「見つけたとき——嬉しかった。生きてて、元気で、笑ってて。すごく嬉しかった。でも——」
声が震えた。手の力が少しだけ強くなった。
「でも、奏多くんはわたしのこと、忘れてた。当たり前だよね。わたしなんか。でも——痛かった。すごく、痛かった」
視界が狭くなっていく。でも葵の声ははっきり聞こえていた。耳元で囁くように、一つ一つ。
「電車の中で見てた。コンビニで見てた。帰り道で、ずっと後ろを歩いてた。声をかけたかった。でもかけられなかった。だって——わたしが誰かも、わからないでしょ」
指が僕の首筋を撫でた。絞めながら。壊しながら。愛おしそうに。
「ここに連れてきて——初めて、奏多くんとふたりきりになれた。嬉しかった。怖がられても、嫌われても——隣にいられるだけで」
葵が僕の額に自分の額を合わせた。近い。息がかかる。涙で濡れた顔が、すぐそこにある。
「ごはん食べてくれたとき、泣きそうだった。お薬飲んでくれたとき、嬉しくて嬉しくて。名前で呼んでくれたとき——もう、それだけでよかった」
声がだんだん小さくなっていく。
「だから——ごめんね。わたし、奏多くんを渡したくない。誰にも。あの人たちにも。普通の世界にも。誰にも」
手が震えていた。絞めている手が。
「奏多くんがわたしを忘れて幸せに暮らすくらいなら——ここで。ふたりで。わたしの腕の中で。ずっと——」
視界がほとんど消えていた。でも葵の声だけが残っていた。
「——好きだよ。奏多くん。ずっと、ずっと好きだった」
最後に聞こえたのは、その声だった。
これが、葵の本当の気持ちだ。
守るために殺すんじゃない。失うのが怖くて殺す。僕がいなくなるくらいなら、ここで二人で終わりたい。
伝えなきゃ。伝えなきゃいけないことがある。でも声が出ない。喉が潰されている。
——次は。
次のループで、伝える。葵ちゃんが本当に欲しい言葉を。「一緒にいる」じゃなくて。「約束する」じゃなくて。
——「僕には、葵ちゃんが必要だ」。
暗転。




