ひまわり園
八回目。
目を開けた。天井。蛍光灯。枷。
「——起きたんだ」
葵の声がする。部屋の端。壁にもたれて、膝を抱えて、こっちを見ている。
葵ちゃん。
思い出している。全部。食堂の隣の席。僕の袖を掴む小さな手。「かなたくん」と呼ぶ声。施設を出る日に泣いていた顔。
今すぐ呼びかけたい。「葵ちゃん」と。でも——記憶が戻っただけで、何もわかっていない。なぜ僕がここにいるのか。なぜ葵ちゃんが僕を殺すのか。あの施設で何があったのか。
わからないまま名前を呼んでも、また同じことを繰り返すだけだ。
まず、あの奥の扉の先にあるものを見る。全部わかった上で、葵ちゃんに向き合う。
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三日で枷を外した。薬は初日から飲む。スプーンを削る。ネジを外す。鍵穴。もう指が勝手に動く。
四日目。中間エリアの扉を開ける。葵の部屋を通り抜けて、奥の扉の前に立つ。ピンが四つ。道具を三本用意してある。今回のために、スプーンの金属板を細く削ったものを余分に作っておいた。
時間がかかった。四つのピンを同時に正しい位置に揃えるのは、今までで一番難しかった。手が痺れて、何度もやり直した。
五日目の朝。
——カチッ。
開いた。
扉を押す。重い。錆びた蝶番が軋んだ。向こうから流れてくる空気は、中間エリアとも違っていた。古い。ずっと古い。カビと埃と、何か薬品みたいな匂い。
中に入った。
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廊下があった。短い廊下の両側に部屋がある。
一つ目の部屋。扉は開いていた。中を見て、足が止まった。
診察室だった。
白いタイルの壁。ステンレスの検査台。脇に古い機械が並んでいる。何の機械かはわからないけど、病院で見るようなものだ。注射器の入ったトレイが埃をかぶって残っている。カルテ棚。引き出しは空だった。誰かが持ち出したのか。
子供の施設に、こんな設備があるのはおかしい。保健室レベルじゃない。もっと本格的な——何かの検査や処置をするための部屋だ。
壁に、子供の落書きがあった。
クレヨンで描いた花。太陽。家の絵。その横に、文字。幼い字で、「かえりたい」。
別の場所にもう一つ。「みかちゃんがいなくなった」。
胸が詰まった。
二つ目の部屋。記録保管室。棚にファイルが並んでいる。埃だらけだけど、中身は残っている。
ファイルを一つ手に取った。開いた。
子供たちの名前と、番号が並んでいた。管理番号。名前の横に「入園日」「担当」「状態」の欄がある。
ページをめくる。「状態」の欄に、「卒業」と書かれた子供がいる。何人も。でも「卒業」の後の行き先欄が——黒く塗りつぶされている。太いマーカーで、読めないように。
全員。「卒業」した子供は全員、行き先が消されている。
ページをめくり続けた。指が震えていた。
あった。
「朝倉奏多」。僕の名前。管理番号がある。状態欄は「退園」。行き先は塗りつぶされていない。普通に施設を出たことになっている。
その下。
「篠原葵」。
葵の名前があった。管理番号の横に、赤い字で「処分保留」と書き込まれている。
処分。
子供に使う言葉じゃない。
ファイルの奥に、もう一枚の紙が挟まっていた。手書きのメモ。走り書きに近い。
「篠原——情報漏洩の可能性あり。外部接触を遮断。経過観察の後、処分を検討」
葵は——何かを知っていたんだ。この施設について。だから「処分」の対象になった。
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記録を読む手が止まらなかった。
断片的にしかわからない。でも——子供たちがこの施設で何かの検査を受けていたこと。「卒業」した子供たちが普通に社会に出たわけではないこと。組織的に運営されていたこと。それだけは読み取れた。
そして僕は——ここにいた。この施設で育った。管理番号をつけられて。検査台のある診察室の隣で。何も知らずに。
壁の落書きを見た。「かえりたい」。あのクレヨンの字を書いた子供は、どうなったんだろう。
——頭の中で、何かが外れた。
記録の中に、葵ちゃんの名前を見つけた瞬間、記憶が一気に鮮明になった。
前回のループの最後、死にかけの意識の中で断片的に掴んだものが——今、文字として目の前にある。
食堂。長いテーブル。味の薄い味噌汁。隣に座っていた葵ちゃん。黒い髪が長くて、いつもうつむいていた。他の子供たちとは話さない。僕にだけ、小さな声で話しかけてきた。
「かなたくん、きょう、おかずにたまごやきがあったよ」
嬉しそうに言って、小さな手で僕の袖を引っ張る。あの集合写真と同じだ。袖を掴む手。
僕が施設を出るとき——最後の日。葵ちゃんが泣いていた。「行かないで」と言っていた。僕は何て答えたんだろう。思い出せない。たぶん、何も言えなかった。
それから僕は普通に暮らして、葵ちゃんのことを忘れた。新しい生活に馴染んで、施設の記憶は薄れて、隣にいた女の子の名前も顔も思い出さなくなった。
でも葵ちゃんは忘れなかった。
「処分保留」。あの赤い字が何を意味するのかはわからない。でも葵ちゃんはここにいる。この施設の地下で暮らしている。そして僕を見つけて、ずっと見ていた。あの写真。あのノート。あの地図。
地図の青いマーカー。僕の行動範囲じゃない場所に打たれていた印。あれは何だったんだろう。外に出たとき僕を撃った誰かと、関係があるんだろうか。
まだわからないことだらけだ。葵ちゃんがなぜ僕をここに連れてきたのか。なぜ七日目に殺すのか。外にいるのは誰なのか。
でも——一つだけわかったことがある。
葵ちゃんと僕は、他人じゃなかった。
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部屋に戻った。枷を閉じたふりをして、待った。
食事の時間。扉が開いて、葵が入ってきた。トレイを持っている。今日はご飯と味噌汁と、小さなおかずが二品。
テーブルに置く。薬を出す。振り返る。
「——葵ちゃん」
葵の足が止まった。
背中が強張る。ゆっくりと、振り返る。目が見開かれていた。
「……なんて、言った?」
「葵ちゃん。ひまわり園の、葵ちゃんでしょ」
葵の顔が歪んだ。唇が震える。目に涙が溜まっていく。
「覚え……思い出したの……?」
「うん。遅くなって、ごめん」
葵の膝が折れた。その場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。声を殺して泣いていた。肩が震えている。
しばらく待った。何も言わずに。葵が泣き止むまで。
顔を上げた葵の目は真っ赤だった。鼻も赤くて、涙の跡が頬に光っていた。今までの葵とは全然違う顔だった。作った笑顔でも、無表情でもない。ただの、泣いた後の女の子の顔。
「葵ちゃん。全部聞かせて。ここで何があったのか。なんで僕をここに連れてきたのか」
葵は涙を拭って、小さく頷いた。




