彼女の部屋
七回目。
もう数えなくても身体が覚えている。目を開ける。天井。蛍光灯。枷。女の声。薬を飲む。スプーンを削る。ネジを外す。鍵穴を探る。
三日で枷が外れた。
死ぬのはまだ怖い。七日目の夜が来るのも怖い。でも、手を動かしている間は考えなくて済む。手順があるのは救いだった。何をすればいいかわかっているのは、この状況で唯一まともなことだ。
四日目。女の長い外出が始まったのを確認して、部屋を出た。
左の廊下。中間エリアの扉の前。鍵穴にネジを差し込む。三つのピンの位置は、前回のループで指が覚えている。金属片を二枚、それぞれの角度で差し入れて、ピンを一つずつ押し上げていく。
枷より時間がかかった。ピンの一つが硬くて、何度も滑った。指先が痺れてくる。焦るな。時間はある。女の外出は長い。
——カチッ。
開いた。
扉を引く。重い。廊下より少しだけ暖かい空気が流れ出してきた。生活の匂いがする。
中に入った。
---
女の部屋だった。
僕の部屋より広い。コンクリートの壁は同じだけど、床にカーペットが敷いてある。小さなベッド。折りたたみのデスク。棚。デスクの上にはランタン型のライトがあって、スイッチを入れると柔らかい光が灯った。
生活感があった。毛布が丸めてベッドの端に置いてある。デスクの脇にマグカップ。棚には食料品のストックと、水のペットボトルが並んでいる。壁に小さなカレンダーが貼ってあって、いくつかの日付に印がついていた。何の印かはわからない。
この女もここで暮らしているんだ。当たり前のことなのに、考えたことがなかった。食事を持ってきて、薬を置いて、出ていく。それだけの存在だった。でもこの女にも部屋があって、ベッドがあって、マグカップでなにかを飲んで、カレンダーに印をつける日常がある。
ベッドの枕元に本が一冊置いてあった。文庫本。古くて、背表紙が擦り切れている。何度も読み返したんだろう。しおりが挟まっている。タイトルは知らない小説だった。
感傷に浸っている場合じゃない。時間がない。
デスクの上を見た。
ノートが一冊。開いた。几帳面な字がびっしりと並んでいる。
——僕の名前があった。
「朝倉奏多。一限、現代文。二限、数学Ⅱ。昼休み、教室で平野と食事。放課後、コンビニ(ファミリーマート駅前店)。17:12帰宅」
時間割。行動パターン。誰と一緒にいたか。何時にどこにいたか。日付ごとに、ページが埋まっている。何十ページも。
指が震えた。やっぱりそうだ。この女は僕をずっと見ていた。
棚を漁った。ノートの下に封筒がある。中を出した。
写真だった。
僕の写真。登校中の後ろ姿。コンビニから出てくるところ。教室の窓際に座っている横顔。どれも望遠で撮ったような、遠くからの写真。本人に気づかれないように撮ったものだとすぐにわかった。
何枚あるんだろう。十枚。二十枚。数える気になれなかった。日付の古いものは、制服が夏服だった。少なくとも半年以上前から撮られている。
吐き気がした。
でも、手は止まらなかった。封筒の奥にもう一枚、別の写真が入っていた。
古い写真だった。色が褪せている。集合写真。子供たちが十数人、建物の前に並んでいる。背景の建物は——見覚えがない。でも、施設っぽい雰囲気がある。
子供たちの顔を一人ずつ見ていった。
いた。
前列の端に、小さな男の子。目元に面影がある。僕だ。五歳か六歳くらいの、僕。
その隣に、女の子がいた。
男の子の袖を掴んでいる。長い黒髪。カメラを見ていない。隣の男の子——僕の顔を、横から見ている。
——頭の奥で、何かが弾けた。
匂い。古い建物の匂い。木の床と、消毒液と、薄い味噌汁の匂い。食堂。長いテーブル。隣に誰かが座っている。小さな手が僕の服の裾を引っ張る。声が聞こえる。何て呼んでいるのか——聞き取れない。でも確かに、僕の名前を呼んでいる。
視界が歪んだ。写真がぶれる。頭痛。薬で消えたはずの頭痛が一瞬だけ戻ってきて、目の前が真っ白になった。
膝をついた。写真を落としそうになって、両手で握りしめた。
何だ、今のは。記憶か。僕の記憶か。あの食堂は——あの声は——
掴めない。手を伸ばした瞬間に霧散した。でも確かに、何かがあった。この写真の中にいる女の子と、僕の間に。
写真を裏返した。手が震えている。日付と、手書きのメモ。
「ひまわり園 春」
ひまわり園。
——知ってる。その名前を知ってる。頭じゃなくて、もっと深い場所で。胸の奥が、きゅっと締まる感覚。懐かしいのか、苦しいのか、自分でもわからない。
写真を元に戻そうとして、封筒の中にもう一つ、折りたたまれた紙が入っているのに気づいた。開いた。
地図だった。手書きの。
この周辺の地図らしい。道路と建物が簡略的に描いてあって、いくつかの地点にマーカーがついている。赤と青の二色。
赤いマーカーは——僕の行動範囲だった。通学ルート。コンビニ。学校。アパート。ノートの記録と一致する。
青いマーカーは違った。僕の行動範囲とは重ならない場所にいくつか打ってある。何の場所かわからない。交差点の角、公園の入口、高い建物の屋上らしき場所。規則性がない。
何を示しているんだろう。この女は僕の行動だけを追っていたわけじゃない。別の何かも同時に——
足音。
凍りついた。
廊下から聞こえる。まだ遠い。でも近づいてくる。こっちに向かっている。
早い。早すぎる。前回のループでは、長い外出の間はもっと時間があったはずだ。なんで——
考えている暇はなかった。部屋を見回す。出口は一つ。今から廊下に出たら鉢合わせる。隠れる場所。ベッドの下。狭いけど、カーペットが敷いてあるから潜り込める。
ノートを棚に戻す。封筒を元の位置に押し込む。ライトを消す。暗くなった部屋の中を手探りで進んで、ベッドの下に滑り込んだ。
胸の鼓動が喉まで上がってくる。呼吸を殺す。
足音が止まった。扉の前。鍵が——鍵はピッキングで開けたまま閉められなかった。扉が開く。
女が入ってきた。
カーペットの上を歩く、軽い足音。ベッドの下から見えるのは足元だけだ。白い靴下。小さな足。デスクの方に歩いていく。
ランタンが灯った。光がカーペットに広がる。ベッドの下の影が濃くなる。
女は椅子に座った。デスクの引き出しを開ける音。何かを取り出している。紙の擦れる音。
しばらく、何かを書いていた。ペンの音が規則的に響く。さらさら、さらさら。
それから——小さな声が聞こえた。
「……今日は、ちゃんと食べてくれた」
独り言だった。誰に向けたものでもない。ただ自分に確認するように、呟いている。
「お薬も飲んでくれた。よかった。……よかった」
二回言った。同じ言葉を。声が少しだけ震えていた。
ベッドの下で、僕は息を止めていた。
この女は七日目の夜に僕を殺す。笑顔で首を絞めて殺す。なのに——「ちゃんと食べてくれた」ことを、こんな声で喜んでいる。
意味がわからない。
女は数分で出ていった。ランタンを消して、扉を引いて。足音が廊下を遠ざかっていく。
しばらく動けなかった。
---
自分の部屋に戻って、枷を閉じたふりをして、ベッドに仰向けになった。
見たものを整理する。
ノート。僕の行動記録。何十ページ分もの、僕の日常。写真。盗撮。遠くから、気づかれないように。使い捨てスマホ。地図。二色のマーカー。全部、ストーカーの持ち物だ。疑いようがない。
この女は僕を監禁する前から、ずっと僕の生活を記録していた。何ヶ月も。毎日のように。通学ルートも、放課後の行動も、誰と話しているかも、全部知っていた。
そして——あの地下に連れてきた。
でも——引っかかっているものがある。
あの集合写真。ひまわり園。小さな僕の隣にいた女の子。フラッシュバックで見えた食堂。隣に座っていた誰か。あれは——この女なのか。同じ施設にいたのか。
記憶は掴めなかった。でも身体が反応した。「ひまわり園」という名前を見たとき、胸が締まった。ただのストーカーに対する反応じゃない。もっと古くて、深い場所に繋がっている感覚。
それと——あの独り言。
「ちゃんと食べてくれた」「お薬も飲んでくれた」。震える声。あれは演技じゃなかった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
僕を殺す女が、僕がご飯を食べたことを喜んでいる。
何がしたいんだ、この人は。
全部が繋がりそうで、繋がらない。パズルのピースは増えているのに、完成形が見えない。でも初めて——怖い以外の感情が混じり始めている。
それが何なのか、まだ名前をつけられない。
奥の扉は次のループに持ち越すしかない。青いマーカーの意味もわからない。効率を考えるなら、今回は情報を整理して、次に備えるべきだ。
——でも。
答えを知っている人間が、目の前にいる。
次の食事の時間。女が扉を開けて、トレイを持って入ってきた。いつも通りテーブルに食事を置いて、いつも通り振り返って出ていこうとする。
「——ねえ」
呼び止めていた。考えるより先に、声が出ていた。
女が止まった。振り返る。少し驚いた顔。僕から話しかけることなんて、ほとんどなかったから。
「きみ——ひまわり園に、いた?」
女の顔から、表情が消えた。




