七日目の夜
目を開けた。
暗い。コンクリートの天井。チカチカと点滅する蛍光灯。湿った空気。足首の枷。
全部、同じだ。
喉に、あの感触が残っている。細い腕に締め上げられた圧迫感。息ができなくなっていく恐怖。笑っていた顔。「奏多くんは、わたしのだから」。
死んだ。僕は確かに死んだはずだ。
なのに——生きている。
身体が軽い。後頭部は痛いけど、前ほどじゃない。手足に力が入る。衰弱していない。何日も食べなかった、あのふらふらの身体じゃない。最初に戻っている。
「——起きたんだ」
声がした。心臓が止まるかと思った。
部屋の端に、女がいる。壁にもたれて、膝を抱えて、こっちを見ている。長い黒髪。暗がりの中の、あの目。
同じだ。全部同じだ。同じ部屋。同じ女。同じ言葉。
——さっき僕を殺した女が、何事もなかったみたいに座っている。
「っ——」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。後ずさろうとして、鎖がガチャンと鳴る。逃げられない。届かない。壁に背中がぶつかった。それ以上下がれない。
「……大丈夫? 顔色悪いよ」
心配そうな声。前と同じ声。首を絞めながら「大丈夫」と言った、あの声と同じ声。
「来ないで」
自分でも驚くくらい、はっきりと出た。
女が少しだけ目を見開いた。前はこんなことを言わなかったからだろう。前は「ここ、どこ」と聞いた。「きみ、誰」と聞いた。
「……水、飲む?」
女がペットボトルを差し出す。前と同じ動作。
手が震えていた。僕の手が。受け取れなかった。この女が差し出すものを、何一つ信用できなかった。
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二回目の生活が始まった。
状況を整理しよう。僕は死んだ。そして同じ場所に戻った。身体は初めてここで目が覚めた時に戻っている。でも記憶は残ってる。目覚めたときの女の言葉も、部屋の様子も同じ。
つまり——時間が巻き戻っている。
なぜかはわからない。どういう仕組みかもわからない。でも事実として、僕は死んで、ここにいる。
食事が来たとき、食べた。不味くはなかった。コンビニのおにぎりと、パックの味噌汁。保存食だ。薬は——迷った。小さな白い錠剤。何の薬かわからない。飲まなかった。まだ信用できない。
部屋の中を調べた。
枷。足首にぴったり嵌まった金属の輪。そこから太い鎖が伸びて、壁の金具に繋がっている。鎖の長さは二メートルほど。ベッドとテーブルには届くが、部屋の扉には届かない。金具は壁にボルトで固定されていて、素手ではどうしようもない。
ベッド。パイプ製。マットレスは薄い。枠を揺すると、ほんの少しだけ軋む。脚の部分のネジ——一本だけ、わずかに緩んでいる気がした。指で回してみる。動く。ほんの少しだけ。でも、動いた。
それだけだった。他に使えそうなものはない。テーブルは軽いプラスチック製で武器にもならない。壁はコンクリートの継ぎ目があるが、道具なしでは崩せない。
女は一日に何度か来る。食事を持ってくるのが二回。それ以外に、ふらっと来て僕の様子を見て、何も言わずに出ていくことがある。部屋を出ていく時間にはばらつきがあるけど、食事の間隔はほぼ一定だった。
僕は壁に爪で小さく線を刻み始めた。食事二回で一日。前回は数えていなかった。今回は数える。
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四日目の朝——たぶん朝——に気づいたことがある。
女が部屋を出ていく時間は不規則だけど、長く出ていく時間帯がある。食事を持ってきてから次の食事までの間に、一度だけ長い外出がある。その間は扉の向こうに足音がしない。
何をしているのかはわからない。でも、パターンがあるなら使える。枷さえ外れていれば。
五日目。ベッドのネジに挑戦した。爪で回すのは限界がある。テーブルの脚の先端を当ててみた。合わない。食事のスプーンの柄。微妙に太い。だめだ。
六日目。恐怖が身体の奥から這い上がってきた。明日だ。明日で七日目。前回は何日目かわからなかったけど、今回は数えている。食事の回数から計算して、たぶん、前回殺されたのは七日目だった。
女の様子は変わらない。いつも通り食事を持ってきて、いつも通り「お薬」を出して、いつも通り出ていく。あの笑顔はまだ出ていない。まだ、穏やかな無表情のまま。
でも明日になれば——あの夜が来る。前回、最後に何が起きたか、身体が覚えている。
眠れなかった。
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七日目の夜が来た。
足音が聞こえる。扉の向こうから。ゆっくりとした、いつもより少し遅い足取り。
鍵が開く音。
女が入ってきた。食事のトレイを持っていない。
テーブルの上を片付け始める。丁寧に。一つ一つ。前と同じだ。同じ動作。同じ順序。
こっちを見た。
——笑っていた。
あの笑顔だ。穏やかで、満ち足りていて、でも目の焦点がどこかずれている、あの笑顔。
「ねえ、奏多くん」
前回もこうだった。たぶん——同じことが起きる。
「やっと、ふたりきりだね」
今回は逃げない。逃げられないなら、戦う。
立ち上がった。鎖が張る限界まで前に出た。拳を握った。手が震えていたけど、構わなかった。
「来ないで。近づかないで」
女は止まらなかった。微笑んだまま、ゆっくりと近づいてくる。鎖の長さを知っている。僕の届かない距離で一度立ち止まって、それから一歩、踏み込む。
殴ろうとした。腕を振った。女は半歩横にずれて避けた。軽く、自然に、まるで予想していたみたいに。
バランスを崩した僕の腕を掴んで、引き寄せられる。鎖が足首に食い込む。細い体のどこにそんな力があるのか、床に押さえつけられた。
「暴れちゃダメだよ。怪我するから」
優しい声だった。人を押さえつけながら言うセリフじゃなかった。
「もう関係ないよ。全部、終わるから」
首に腕が回る。
前と同じだ。何も変えられなかった。
「——ずっと一緒だよ」
視界が暗くなる。
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——三回目。
目を開けた。天井。蛍光灯。枷。女。「起きたんだ」。
今回は泣いた。声を上げて泣いた。情けなかったけど、止められなかった。殺される記憶が二回分、頭の中にこびりついている。
女が困ったような顔でこっちを見ていた。
「出して……お願い、出して。なんでもするから。ここから出して」
「……ダメ」
「なんで。なんでダメなの。僕が何したの」
女は答えなかった。ペットボトルをテーブルに置いて、出ていった。
三回目も同じだった。食べた。薬は飲まなかった。枷は外れなかった。七日目の夜が来て、殺された。懇願しても、泣いても、同じだった。
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——四回目。
泣かなかった。話しかけもしなかった。
食事だけ受け取って、あとは女を無視した。全部の時間を枷に使った。
ベッドのネジ。前回、爪で少しだけ回せた一本。今回はもっと計画的にやった。食事のスプーンの柄は太すぎた。でもスプーンの先端——すくう部分の縁を、コンクリートの壁で削ったらどうなる。
やってみた。何時間もかけて、スプーンの縁を壁に擦りつけた。少しずつ、少しずつ薄くなっていく。
三日目に、ネジの溝に嵌まる厚さになった。回してみる。回った。ゆっくりだけど、確実にネジが緩んでいく。
四日目。ネジが一本抜けた。ベッドの脚が一本、外れる。
パイプの脚。長さは四十センチほど。軽いけど、金属製だ。
これを使えば壁の金具を——いや、金具はボルトで固定されている。パイプで叩いたくらいでは外れない。
じゃあ何に使える。考えた。鎖の環は太い。パイプでは切れない。枷の錠は小さい。こじ開けられるか。無理だった。
結局、何にも使えなかった。パイプを握りしめたまま七日目の夜を迎えた。女が入ってきたとき、振りかぶった。
女は一瞬だけ目を見開いた。それから、悲しそうな顔をした。
「そんなことしなくていいのに」
パイプは避けられた。前回の拳と同じだ。僕が何をしても、この女には届かない。
押さえつけられて、殺された。同じだった。
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——五回目。
目を開けた。天井。蛍光灯。枷。
首に手を当てた。何もない。絞められた跡もない。でも感覚は残っている。四回分の、細い腕の圧迫感。息ができなくなる瞬間の、喉の奥が潰れていくあの感触。目を閉じればいつでも再生できる。たぶん一生消えない。
「——起きたんだ」
女の声が聞こえた。
もう泣かない。暴れない。懇願もしない。四回死んで、わかったことがある。
泣いても暴れても無視しても武器を作っても、七日目の夜は来る。枷がある限り、この部屋から出られない。部屋から出られない限り、何も変わらない。
でも——何も手がかりがないわけじゃない。
ベッドのネジは外せる。道具も作れる。スプーンを削ればいい。女には外出のパターンがある。枷の構造も、鎖の長さも、部屋の間取りも、全部頭に入っている。
足りないのは、正しい使い方だ。
今までは枷を「力で壊す」ことしか考えていなかった。でも、そうじゃない。枷には鍵穴がある。鍵穴があるなら、開けられる。ベッドのパイプが使えないなら、もっと細いものを探す。スプーンを削る要領で、もっと細い金属を——たとえば、ベッドのネジそのもの。
女が、僕の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
僕は女の目を見た。まっすぐ見て、答えた。
「……大丈夫」
七日ある。今度こそ、この枷を外す。
鎖が、ガチャリと鳴った。




