死んだ日のこと
暗い。
それが、最初に思ったことだった。
目を開けているのか閉じているのかもわからない。瞼の裏と現実の境目が溶けてなくなったみたいに、ただ暗い。
空気が重い。湿っていて、肺の奥にまとわりつくような空気。呼吸をするたびに、鉄錆みたいな匂いが鼻の奥を刺す。
足首に、何かが食い込んでいる。
冷たくて、硬い。動かそうとすると金属がぶつかる音がした。鎖だ。足首に鎖がついている。そこまで理解するのに、ずいぶん時間がかかった気がする。
頭が割れるように痛い。後頭部に手をやると、乾いた何かがこびりついていた。血だ、たぶん。いつの血かわからない。
ここはどこだ。
なんで僕はこんなところにいる。
考えようとするたびに、頭痛が思考を押し潰す。記憶を遡ろうとすると、ノイズみたいなものに阻まれて何も掴めない。名前は——奏多。朝倉奏多。それだけは出てきた。
少しずつ目が慣れてくる。薄暗い部屋。コンクリートの壁と天井。窓はない。蛍光灯が一本だけ天井にぶら下がっていて、チカチカと不規則に点滅している。部屋の隅にパイプベッド。小さなテーブル。最低限の家具。まるで誰かがここで生活するために用意したような——
部屋の端に、人影があった。
女だった。
壁にもたれるように座って、膝を抱えている。長い黒髪が顔の半分を隠していて、表情はよくわからない。年は僕と同じくらいか。こっちを見ている。暗がりの中で、その目だけがやけにはっきりと見えた。
「——起きたんだ」
静かな声だった。怒っているわけでも、焦っているわけでもない。ただ事実を確認するみたいに、そう言った。
「ここ——どこ。きみ、誰……?」
声が掠れた。喉がカラカラだった。何日も水を飲んでいないみたいだ。
「水、飲む?」
質問には答えずに、女はゆっくり立ち上がった。テーブルの上のペットボトルを取って、こっちに差し出す。
飲まなかった。知らない場所で、知らない女の子に渡されたものを口にする気にはなれなかった。
「……出して。これ、外して」
足首の鎖を掴んで引っ張る。ガチャガチャと音が鳴るだけで、びくともしない。壁の金具にしっかり固定されている。
「ダメ」
「なんで……何なの、これ。きみがやったの?」
「……ごはん、あとで持ってくるから。お薬も」
「待って、聞いて——!」
叫ぶと、後頭部に激痛が走った。視界が白く弾けて、思わずうずくまる。
女は何も言わなかった。ペットボトルをテーブルに戻して、部屋を出ていく。重い扉が閉まる音。鍵がかかる音。
それだけだった。
——ここから先の記憶は、ひどく曖昧だ。
何日経ったのかもわからない。女は定期的に食事を持ってきた。食べなかった。薬を出された。飲まなかった。水だけは三日目あたりで折れて飲んだ。飲まなければ本当に死ぬと思ったから。
枷は外れない。届く範囲のものは全部調べた。ベッドの脚。テーブルの裏。壁の継ぎ目。床板。何も見つからなかった。何も変わらなかった。
後頭部の痛みはどんどんひどくなった。視界がぼやける時間が増えた。吐き気が止まらない日があった。
何日目かの夜——たぶん夜だと思う、この部屋に昼も夜もないけれど——女が入ってきた。
いつもと違った。
食事のトレイを持っていない。テーブルの上を片付けている。丁寧に、一つ一つ。ペットボトルを端に寄せて、使い捨ての食器を重ねて。まるで部屋を整えるみたいに。
こっちを見た。
笑っていた。
今まで一度も見たことのない表情だった。穏やかで、満ち足りていて——でも、目の焦点がどこか遠い。こっちを見ているのに、こっちを見ていない。何か別のものを見ている目だった。
「——ねえ、奏多くん」
名前を呼ばれた。教えていない名前を。
「やっと、ふたりきりだね」
最初からふたりきりだった。何を言っているんだ、この人。
女がこちらに近づいてくる。しゃがんで、僕の顔を覗き込む。手を伸ばして、頬に触れる。冷たい指先だった。愛おしそうに頬を撫でる。恋人にするみたいに。
「もう関係ないよ。全部——全部、終わるから」
何の話だろう。何が終わるんだろう。
聞こうとした。声が出なかった。衰弱していた。何日もろくに食べていない体は、もう女一人を押し返す力すら残っていなかった。
細い腕が首に回される。
抱きしめられているのだと、最初は思った。温かかった。この地下で初めて感じる人の体温だった。
——締まる。
じわりと、でも確実に、喉が圧迫されていく。
「っ——」
「大丈夫。大丈夫だから。ずっと一緒だよ」
大丈夫なわけがない。首を絞められているのに、何が大丈夫なんだ。
抵抗しようとした。腕を掴んだ。だが指に力が入らない。爪を立てても、女は離さなかった。
「ごめんね。でも、しかたないの。だって——奏多くんは、わたしのだから」
耳元で囁かれた。声は優しかった。子守唄みたいに穏やかだった。首を絞めている手と同じ人間の声だとは思えなかった。
視界の端が暗くなっていく。蛍光灯のチカチカがやけにゆっくりに見える。
最後に見えたのは、女の顔だった。
笑っていた。
——暗転。
---
ピピピピピ。
スマホのアラームで目が覚める。
朝だ。カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。布団のぬくもり。枕の柔らかさ。窓の外ではカラスが鳴いている。
朝倉奏多、十七歳。高校三年生。
今日の予定。学校。授業。帰りにコンビニ。以上。一人暮らしのワンルームアパート。施設を出てからずっとここだ。特別なことは何もない、いつもの一日。
学校ではそこそこうまくやっている。クラスメイトとも先生とも波風を立てずにやっていける程度のコミュニケーション能力はある。昼は誰かと食べるし、一人の日もある。普通だ。どこまでも普通。
「奏多、今度の連休どうする? 帰省?」
昼休み、隣の席の平野にそう聞かれた。
「いや、特に予定ないかな」
「実家遠いんだっけ」
「……まあ、そんな感じ」
話を逸らした。実家はない。帰る場所がない人間は、こうやって曖昧に笑う技術だけ上手くなる。
別にそれを不幸だとは思っていない。施設を出て、バイトして、自分で暮らしている。それでいい。それだけでいい。昔のことはあまり覚えていないし、覚えていなくても困らない。
放課後、コンビニで弁当を買って帰路につく。
いつもの道。住宅街を抜ける細い路地。街灯が少なくて、夜は結構暗い。引っ越してきた頃は少し怖かったけど、もう慣れた。
——ふと、足が止まる。
振り返る。
誰もいない。
気のせいか。最近、妙に視線を感じることがある。登校中とか、コンビニの中とか。振り返っても誰もいない。疲れているのかもしれない。
歩き出す。イヤホンから流れる音楽。コンビニ袋のガサガサという音。自分の足音。
それ以外の足音に、気づかなかった。
後頭部に、衝撃。
何が起きたか理解する前に、視界が弾けた。
膝から崩れる。アスファルトが頬に当たる。コンビニ袋が転がった。それが最後に見えたもの。
意識が、落ちる。
---
——暗い。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。
空気が重い。湿っていて、肺の奥にまとわりつくような空気。
足首に、何かが食い込んでいる。
「——大丈夫?」
知らない声が聞こえた。
目を凝らす。薄暗い部屋。コンクリートの壁。チカチカと点滅する蛍光灯。
女がいる。
目の前にしゃがんで、僕の顔を覗き込んでいる。
「ここ、どこ——きみ、誰……?」
「大丈夫。大丈夫だから」
女が微笑んだ。
後頭部が、割れるように痛い。
足首の鎖が、ガチャリと鳴った。




