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第2話 これは夢だと言ってくれ

天野零は、開け放った引き戸の前に立ち尽くしたまま、長い間、指一本動かせずにいた。

冷たく湿った潮風が、頰を容赦なく切りつける。夜の空気は予想以上に冷えていて、Tシャツ一枚の体がすぐに震え始めた。頭上には、都会では絶対に見えないほどの美しい星空が広がっていた。しかしその美しささえ、今の零にとっては不気味でしかなかった。

「……これ、夢だよな?」

零は小さく、掠れた声で呟いた。自分の声が、まるで他人事のように遠く聞こえた。

白峰凛が、すぐ後ろからそっと零の袖を掴んだ。彼女の指は冷たく、微かに震えていた。いつも冷静で頼りになる凛が、こんな風に取り乱している姿を見るのは初めてだった。

「零……ねえ、ちゃんと説明して。私、本当に頭が回らないの……どうなってるの、これ?」

凛の声は弱々しく、普段の芯の強さがほとんど感じられなかった。それが零の胸を強く締め付けた。

零はゆっくりと振り返り、暗い部屋の中にいる仲間たちを見た。

そこにいたのは、いつもの賑やかなオタクサークルではなかった。

鈴木拓海は床にへたり込んだまま、両手で頭を抱え、何度も首を横に振っていた。

「うそ……うそだろ……俺、寝てるんだよな? 起きてくれよ……マジで起きて……」

高橋大輔はスマホを両手で握りしめ、画面を何度も何度もタップし続けていた。

「繋がれ……Wi-Fi繋がれよ……お願いだから……これが切れたら、もう何も……」

小林悠は部屋の壁際に体を寄せ、膝を胸に抱えて小さく丸くなっていた。時々、嗚咽のような息を漏らしながら「怖い……怖いよ……お母さん……家に帰りたい……」と繰り返している。

佐藤宏樹は引き戸の近くに立ち、海を見つめたまま石のように固まっていた。

「……あれ、赤城? 加賀? そんな……馬鹿な……俺、絶対に寝てるよな……」

渡辺翔は眼鏡を外して何度も目を擦りながら、掠れた声で呟いていた。

「星の配置……艦のシルエット……全部、資料と一致する。でも……そんな馬鹿なことがあるか……」

山田健太は工具箱を抱えたまま、床に座り込み、放心した表情で一点を見つめていた。

零は喉がカラカラに乾くのを感じた。心臓が激しく鳴り、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

(落ち着け……落ち着けって……どうやって落ち着けっていうんだよ! 俺はただのオタクだぞ……戦争なんて……)

頭の中では知識が溢れていた。1942年、太平洋戦争、南雲機動部隊、ミッドウェイ……でも、それが現実になった瞬間、すべての知識は無力だった。ただ、底知れぬ恐怖だけが胸に残る。

凛が零の腕を強く引いた。

「零……あなたが一番詳しいんでしょ? 言って。この状況……どういうこと?」

零は唇を強く噛み、ようやく声を絞り出した。

「……俺も、信じたくない。でも……多分、タイムスリップだと思う。1942年の太平洋。戦争の真っ只中……」

その言葉が落ちた瞬間、部屋全体が凍りついた。

拓海が「え……」と小さく声を漏らし、大輔がスマホを取り落としそうになった。悠はさらに小さく丸くなり、宏樹は「やめてよ……そんなの……」と弱々しく否定した。

零自身も、自分の言葉を信じきれていなかった。

(俺が言ってるんだぞ……信じろよ……でも、信じられるか?)

重い沈黙が降りる中、凛だけが零の横で静かに息を吐いた。

「……零。私、信じたくない。でも、あなたの顔を見たら……本気でそう思ってるんだってわかる」

零は凛の瞳を見つめ返した。そこには恐怖と、それでも零を信じようとする必死さが混ざっていた。その視線に、零は少しだけ力をもらった気がした。

その時——

遠くの海の方から、複数のエンジン音と人の声が近づいてきた。

零が目を細めて暗闇を見つめると、小型ボートのような影が数隻、こちらの岸に向かってきているのがはっきりと見えた。白い帽子と軍服を着た人間の輪郭が、月明かりに浮かび上がる。

渡辺翔が息を飲んだ。

「……日本海軍の兵士だ。斥候隊……間違いない」

その言葉で、部屋の中の空気が一気に張りつめた。

兵士たちの足音が、急速に近づいてくる。

「誰だ! そこにいるのは!」

鋭く、緊張しきった声が夜の闇を切り裂いた。

零たちはサークル棟の入り口で完全に固まってしまった。逃げる気力も、隠れる余裕もなかった。

やがて、複数の懐中電灯の光が一斉にこちらを照らし、銃を構えた日本海軍の兵士たちが姿を現した。彼らの表情は極めて厳しく、警戒心が最大限に高まっているのが一目でわかった。

「動くな! 両手を上げろ!」

「ここはどこだ! お前たちは何者だ!」

兵士の一人が大声で叫びながら近づいてくる。銃口が零たちに向けられていた。

拓海が「ひっ!」と情けない悲鳴を上げ、大輔はその場にへたり込み、悠は顔を両手で覆って震えた。宏樹でさえ、ゆっくりと両手を上げながら青ざめていた。

零は必死に頭を回転させたが、適切な言葉が一つも出てこなかった。

兵士の隊長らしき人物が、零の顔を強く懐中電灯で照らしながら言った。

「服装が妙だ……民間人か? それとも敵の工作員か!? 答えろ!」

別の兵士がサークル棟の中を覗き込み、奇妙な機械や荷物を見て眉をひそめた。

「長官に報告だ! 全員拘束しろ!」

兵士たちが一斉に動き、零たちを取り囲んだ。

抵抗する気力など、誰にも残っていなかった。

零は凛と目を合わせ、苦く引きつった表情を浮かべた。

(……本当に、最悪のスタートだ)

こうして、オタクサークル「黒の騎士団」は、太平洋戦争の只中にタイムスリップしたその夜、日本海軍の兵士たちに発見され、拘束されることになった。

長い、恐ろしい夜が、まだ始まったばかりだった。

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