後編
びょう、と少しだけ強い風が頬に吹きつけて、五十鈴は物思いから顔を上げた。
親に叱られた子供じゃないんだから、いつまでもこうしていても仕方がない。
五十鈴は唾を飲み込み、意を決してシロエの部屋のドアをノックした。
「どうぞ」
思った以上に優しい声だった。幸いにも、疲れ果てて不機嫌になっている様子はない。
五十鈴は軽く頭を下げて入室する。
そこで見たのは、机に座った優しそうな青年が、机の上に停まった何羽かの小鳥にえさをあげている姿だった。
「五十鈴さんか。珍しいね」
シロエが入口の五十鈴の顔を見て笑う。五十鈴は机の上の小鳥を見ていた。
「雀、ですね」
「ああ、換気に窓を開けていたら、入ってきちゃったんだ。まだ網戸はないからね」
シロエがパンをちぎって机上に撒くと、かけらを追ってぴょんぴょんと雀が跳ねた。
「僕は〈調教師〉じゃないから可能かどうかわからなかったけど、どうやらこの程度なら調教行為とは見做されないみたいだ」
シロエは溜息をつく。
「こんなことすらできるかどうかいちいち確かめなきゃわからない世界なんて、いい加減疲れるけどね……。
それで、僕に何か用事が?」
「あっ、いえ。全然大したことじゃないんで、疲れていたらあとでいいんですけど」
「いや、大丈夫だよ」
シロエの雰囲気はあくまで穏やかだ。激務上がりで気が立っているかと思いきや、逆にほっとして気が抜けているのかもしれない。シロエの怖いイメージに振り回されすぎたかなと五十鈴は反省する。まあ、全てはあのおどろおどろしい張り紙が悪いのだ。そう思うことにした。
一気呵成に話を切り出す。
「実は、〈天秤祭〉の予定についてなんですけど――」
五十鈴の説明を聞いて、シロエは少しの間きょとんとしたあと、何故か破顔した。
思わぬ反応に戸惑う五十鈴に、ごめんごめんとシロエは謝る。
「なんか思いつめた顔だったから、どんな大げさな頼みごとなのかなと思っててさ。
ギルドとしての『秋祭り』の予定は何も決まってないから、好きなように予定を組んでいいよ。
もし〈円卓会議〉から何か仕事が降ってきても、できるだけ年少組のところまでは行かないようにするから」
「いいんですか?」
「もちろん。みんなと一緒に楽しんできなよ」
「ありがとうございます!」
想定していた中では一番いい返答に、五十鈴はほっとした。
あんなに悩んでいたのがバカみたいだ。シロエだって実際話してみれば好青年以外の何者でもない。
……あるいは、この友好的な態度の裏に何かを潜ませているのかもしれないが。
「しかし、五十鈴さんはいい子だね」
「え?」
予想外のシロエの言葉に、思わず素になって問い返してしまった。シロエは穏やかな笑みを浮かべたまま語る。
「だって、若い子なのに全然わがままを言わないしね。最近は聞かなくなったけど、若い女の人の中には、やれ化粧品がないだの、やれテレビがないだの、スパに行きたいだの、いろいろ不自由になった現状に文句たらたらの人がたくさんいたから」
ああ、と五十鈴は得心した。そういう女子は確かにいる。特に〈大災害〉直後はひどかった。突然異世界に突き落とされた過度のストレスに耐え切れず、身の回りのありとあらゆるものにケチをつけまくる女性プレイヤーが続出したのだ。今になって考えるとそんなことをのたまっている場合では到底なかったはずなのだが、気持ちはわからなくもない。あれは一種の現実逃避だ。
それに、そうやってストレスを解消できなければ、おそらく不安に押し潰されて流されるままに〈ハーメルン〉のような悪人に酷い目に遭わされていたのだから、五十鈴にそれをとやかく言う気はない。わがままを言われた方はたまったものじゃなかったのかもしれないけど。
「そのくらいならまだ可愛いもんだよ。用事が入ったから今日は壁役も回復職もなしで〈邪竜の壁城〉最深部まで行ってらっしゃいとか、慇懃無礼陰険メガネがいけすかないからバグでもなんでも使ってアバターのメガネをブチ割る方法を考えろだとか、邪魔な恋敵を排除して一対一で後輩とデートする作戦を四人から同時に相談されたりとか、ユーレッドのオーロラが観たいから今すぐ連れてけとか、そんなことを突然言われてももうどうすればいいのか……」
「シ、シロエさん!?」
何かトラウマを想起するスイッチが入ってしまったのか、シロエの目から急速にハイライトが失われつつある。
五十が慌てて彼の言葉を遮ると、シロエははっと気が付いたように顔を上げた。気のせいか体が少し震えていた。
「でも。アカツキさんだってミノリだって、そんなにわがままを言う方じゃないですよね?」
「うーん。確かに直接口に出してあれこれ要求してくるタイプではないんだけどね。無茶も言わないし。でも何も要求しないのかというと……。いっそ、口に出してくれた方がわかりやすいかな」
「はあ」
気の抜けた返事をしながらも、五十鈴は内心納得するところがあった。アカツキはどうかよくわからないが、ミノリはシロエに理想のヒーロー像を投影しすぎているきらいがある。あの熱に浮かされたような口調を思い出す。口に出して何か言うことはなくても、些細な態度から隠しきれない期待が時折垣間見えることがあるのかもしれない。
「それで、五十鈴さんは? やっぱりルンデルハウスとどこかへ?」
「うっ? あ、あたしですか!?」
いきなり話題を振られて、しかもそれが図星だったために、五十鈴は戸惑ってしまった。
「あ、あー。そうですね。あたしはそのー、あのバカの飼い主なので」
「ははっ。飼い主か、なるほどね」
どこまで理解しているのか、なんだか全てを見透かしているような優しい目でシロエが五十鈴を見つめる。そうじゃないんです、と言おうと思って五十鈴は口をつぐむ。思えばルンデルハウスを追ってギルド間移籍までしている時点で察してくださいと言わんばかりの挙動なのだ。ここで無理に否定したところで説得力はかけらもない。
とはいえ、五十鈴自身としては、ルンデルハウスとそういった関係になりたいという欲求はないし、これがその手の感情であるという自覚もない。本当に、気の置けない友人というか、出来のあまり良くない弟を放っておけない感覚というか――誤魔化しでも照れ隠しでもなく、本当にペットと飼い主の感覚なのだ。腐れ縁の幼馴染というのがいたら、こういう気持ちになるのかもしれない。
傍から見ると誤解されかねないことは、十分すぎるほどにわかっているけれど。
「相変わらず根を詰めてますから、たまには休ませなきゃいけませんし。それに、ルディの財布はわたしが管理してるんで、お祭りも一緒に行動しなきゃいけませんしね」
「そうなの?」
「そうなんです。あのおバカわんこにお金を持たせると、なーんも考えずにしょうもないガラクタを買ってくるんですよ。装備品ならまだ使い道もありますけど、振ったら光と音の出る剣のおもちゃとか、電車の模型とか、役に立たないものばっかり」
「元々こっちになかったものだから面白いんじゃないかな」
「そうかもしれませんけど、他にもっといろいろ買うものはあるじゃないですか。ローブはこの間〈見習い魔導士のローブ〉からちょっと背伸びしたのに切り替えたばかりだから良いんですけど、杖とかアクセサリだってそろそろレベル四〇台の装備品を見据えなきゃいけないし、中伝の巻物だって全然揃ってないんだし。お金なんかいくらあっても足りないのにあのおバカわんこは……」
シロエがさっきにも増して生暖かい目線で自分を眺めていることに気付き、五十鈴は慌てて口をつぐんだ。これじゃ本当にのろけだ。ついでに言えば、自分の慎ましやかな金銭感覚を知られることにもどことない気恥ずかしさもあった。五十鈴は割と倹約に燃えるタイプだが、旦那の無駄遣いを嘆く主婦みたいだと言われたら全く反論できない。
「ま、まあ、そういうわけで。あたしがしっかりルディの面倒を見ないといけないなと」
「うん、後悔のないようにね」
後悔のないように。
その言い方に、シロエの何気ない一言に、五十鈴は小さな、しかし明確な違和感を覚える。
そして、勘のいい五十鈴はすぐに悟った。
シロエが今、内心で考えているが、口に出していないことが何なのかを。
五十鈴の表情がわずかに強張ったのを見てシロエも察したのだろう、失言を後悔するように、苦虫を噛み潰したような顔をした。
しかし、聞いてしまったものは仕方がないし、聞かなかったことにすることもできない。
それに五十鈴だってそのことを考えていなかったわけではない。むしろ逆だ。
だから五十鈴はあえて云った。
「シロエさん。わたしもわかってますから」
〈冒険者〉と〈大地人〉が仲間になるということの意味。
いくら〈冒険者〉と同じ能力を得たとしても、そもそもの在り方が違うのだ。
運命まで共にはできない。
そんな大事なことを、考えないわけがない。
「わたしたちが現実に帰る日が来たら、ルディとは別れなくちゃいけませんよね」
五十鈴には想像もつかないが、もし本当に〈冒険者〉達が生まれ育ったあの日本に帰る方法があるとして。そして、その方法で無事に帰り着くことができるとして。
元々〈大地人〉であるルディは、わたしたちと一緒に世界を渡ることができるのだろうか。
できるとして、ルディは「向こう」に渡ることを望むだろうか。
わかっている。
答えは否だ。
『僕がなりたいのは……“冒険者”だ。困っている人を助けられれば、細かいことは気にしない』
あの夏の日没間近のチョウシの町の大通り、死を待つだけだった血まみれのルンデルハウスは、シロエの示した選択肢に確かにこう答えたのだ。逃れられない圧倒的な死の影を目前にして、魂を取り繕える人間はいない。ルンデルハウスはこの理不尽が山積した世界で、理不尽な不幸に泣いている人々を救うために〈冒険者〉になった。あの言葉は間違いなく、ルンデルハウスという一人の青年の心の一番奥に潜んでいる、彼という存在の核となる願いだ。
ルンデルハウスには守りたいものがある。それは五十鈴のちっぽけなそれとは比べられないほど巨大で途方もない何かだ。
それを放って無責任な異界の旅に出ることはない。
ずっと隣でルンデルハウスの努力を、焦りと痛みを、大仰なおどけた態度の奥に秘められた決意を見続けてきた五十鈴にはそれが痛いほどわかる。
それが五十鈴にとって、あるいはルンデルハウスにとってどれだけの痛みを伴う決断であったとしても、決して揺らぐことはないだろう。
だからこそ同じく揺ぎない意志を携えたシロエにルンデルハウスは共感したのかもしれない。
あ、と五十鈴は気が付いた。
自分がシロエの何に怯えていたのか、ようやく彼女は悟ったのだ。
それは、五十鈴がどれだけ頑張っても、決して影響を与えられないような冷たく尖った意志への畏れ。
自分はシロエの底知れない決断力の裏に、いずれ自分を切り捨てていくであろうルディの心を垣間見ていたのだ。
決して後ろを振り返ることなく、まっすぐ風を切って飛んでいく鳥のような心を。
五十鈴がただ見送ることしかできないその影を。
「……それは今考えるべきことではないよ」
努めて穏やかに発されたシロエの声が、五十鈴の思考を遮った。
「残念ながらすぐに帰れるメドは立っていない。当分は今のままだ。悪かったね、無闇に不安にさせるようなことを言って」
「……」
「いつ来るかわからない終わりのために、今日心を痛めて過ごす必要はない」
シロエの声には不思議なほどの力強さがあった。その声に込められたものの固さに五十鈴ははっとする。この固さには覚えがある。
目の前の青年が、そしてルンデルハウスが持っていて、五十鈴が持たない何かだ。
強固な意志は淡々と語った。
「全ての物事には終わりが来る。途中で腐ることだってあるし、衰えることも、形が変わってしまうこともある。人と人との関係も同じだよ。いつまでも同じでいられるとは限らないし、どんどん歪んで当初の面影を失くしてしまうことだって珍しくない。
でもね、それが当たり前なんだ。
いつか変わってしまうから。別れがやってくるから。そんな理由で、今、足を止めることはないんだよ。
大事なことは、胸を張って終わりを迎えられるようにすること。終わりがどうしても避けられないものならば、より良い終わりに近付くよう努力すること。そうすれば、いつか終わりが来たって、きっと後悔はしないはずなんだ」
シロエの声はあまり大きくなかったが、鋼のような重みと、鋭い剣のような確信があった。
その目はどこか遠くを見定めて、どことなく悲壮な雰囲気すら漂わせている。
それを見て、五十鈴は何故か、とても寂しそうだな、と思った。
理由はわからない。
しばらく、部屋には沈黙が流れた。
「……なんてね。班長と、僕の恩人の受け売りだけどね」
僕もそう教えてもらったから、このギルドを作ろうと思ったんだ、とシロエは少し照れくさそうに笑った。その顔には先ほどの鋭さは影も残っていない。なんだか恥ずかしいことを言っちゃったとばつが悪そうに視線を窓の外に向ける、普通の青年の姿がそこにあった。
五十鈴はその横顔を眺めたまま、しばらく黙っていた。
やがて頷き、にっこりと笑う。
「……そうですね。うん。〈天秤祭〉だって次があるかもわかんないし、思い切り楽しまなきゃ損ですよねー」
「お小遣いに不安があるなら、少しくらいならギルド口座から出すこともできるけど」
「大丈夫ですよぉ。いつも狩りに行ってるので、お金は結構持ってますから」
これは本当だ。年長組の護衛の元で訓練へ赴く回数は多く、その都度報酬は上下なくきっちり分配されるため、五十鈴たちは低レベル組にしては相当に裕福な方と言える。まして五十鈴は倹約家だ。結果として懐具合にはかなりの余裕がある。もちろん欲しいもの全てを買えるほどではないが、お祭りで多少散財する程度ならなんの差し支えもない。
もっとも、年少組だけの狩りで稼いだお金の一部はギルド口座にこっそり入れている。もちろんシロエはそんなことなどとうの昔に承知済みで、あえて気の済むように放置しているのだろう。貯蓄が少ないとぼやきながら、年少組の入金した額の分だけはいつまで経っても手付かずなのがその証拠だ。
「お疲れのところありがとうございました。ドアの張り紙は剥がしておきますね」
「張り紙……あ、あれか。まだ剥がしてなかった?」
「はい」
「じゃあ、悪いけど捨てといてくれないかな」
「わかりました」
一礼して、シロエの部屋を退去する。ドアが完全に閉じるその時まで、斜めに差し込むオレンジ色の光の中、シロエの顔は優しげな笑みを浮かべていた。
憑き物が落ちたように迫力を失った張り紙を剥がしていると、廊下の向こうからアカツキが歩いてくるのが見えた。無事に書類を届け終わった報告に来たのだろう。五十鈴がここにいるとは思わなかったのか、一瞬だけ歩みを止めて驚いていたようだったが、五十鈴が会釈すると、む、と聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声で挨拶を返す。そして、物音のひとつも立てずにするりとシロエの部屋へと入っていった。まさに忍者の手並みだった。
――主君。任務は完了した。
――う、うわぁっ! いつの間に!
ドア越しに微かに聞こえる遣り取りに、五十鈴はくすりと笑った。知らない間に懐まで潜り込まれてしまったシロエが慌てる様子と、むすっとしながら内心ご満悦のアカツキの姿がはっきり思い浮かぶ。あれでバレていないと思っているんだから大概だ。ミノリはシロエばかり見ているせいか、アカツキの想いにはまだ気付いていないようなのだが、それはそれで信じられないと思う。
さんざんに自分を悩ませた手の中の張り紙をくしゃくしゃに丸め、五十鈴は歩き出した。歩きながら、少しずつ笑みが消えていく。
シロエの言葉と表情の本当の意味について。
勘の鋭い五十鈴にわからないはずはなかった。
あの言葉は五十鈴とルンデルハウスを気遣った言葉であることに間違いはないだろう。
だけど、別れが待っているのは五十鈴たちだけではないのだ。
〈記録の地平線〉。五十鈴の第二の家族であり、シロエが作り上げた小さく温かい家。
あまりにも当然のことすぎて今まで考えもしなかったが、〈記録の地平線〉だって、現実世界への帰還を果たせばこの世からなくなってしまうのだ。
ミノリ。トウヤ。アカツキ。にゃん太。直継。シロエ。そして、ルンデルハウス。
彼らとの大事なつながりは、今後地球に戻れるにしても、戻れなかったにしても、恐らく一生失われることはないだろうという小さな確信が五十鈴にはある。五十鈴が〈記録の地平線〉に加入してまだたったの二か月。だがその二か月は、生死の境がより曖昧なこの世界でなお生き抜くために協力し、必死になって育んだ、大きな大きな二か月だ。もしこの先、メンバーが別々の場所に分かれて生きていくことになっても、この思い出の輝きはいつまでも胸に灯っているだろう。
でも。
終わりの来ないものはない。シロエの言葉の通りだ。
無事に地球に戻ることができた瞬間、〈記録の地平線〉はその終わりの時を迎える。
もともと〈記録の地平線〉は、〈円卓会議〉設立のため――つまり異世界でのサバイバルのために結成されたギルドだ。大規模戦闘のため、生産販売のため、楽しいゲームライフのため――〈エルダー・テイル〉の頃から存在する他のギルドとは、言ってしまえば別物である。
自らの終焉に向けて邁進するギルド。
マリエールから、昔のシロエはどのギルドにも所属せずソロで活動を続けていたことは聞いている。そんな人物が、ついに決意し自ら作り上げ育てた居場所を、自らの手で終わらせようとしているのだ。シロエ本人は割り切っているのかもしれない。だけど、五十鈴の見たところでは、それは強すぎる意志が前進以外の心を覆い隠しているだけだ。
本人さえ気付いていないかもしれないが、寂しくないわけがない。
もちろん、帰ったからといって簡単に忘れられるものではない。ものではないが――それ以上のものでもないのだ。それぞれのメンバー同士、帰る場所も待っている人もばらばらだ。五十鈴はあの何もない田舎町へ。ミノリやトウヤは両親の元へ。直継は社会人生活へ。シロエやアカツキは大学生活だろうか? にゃん太は……ちょっと想像がつかないけれど。
ばらばらになった〈記録の地平線〉のみんなは、いつかきっとまた集まるだろう。
慰安旅行と称してみんなで遊びに行くかもしれないし、オフ会みたいな軽いノリで会う仲になるかもしれない。
電話やネット上で頻繁におしゃべりする関係になるかもしれない。
ひょっとすると直継とマリエールの結婚式に友人として全員出席するなんてことさえあるかもしれない(その可能性は決して低くないと五十鈴は見ている)。
でもそれは、元〈記録の地平線〉としての肩書きを背負ってのことなのだ。
その時にはこの優しい空間はとっくに消滅している。まるで一夜の夢のように。
〈記録の地平線〉は喩えるなら、自分の消滅に向かって突き進む小鳥だ。
シロエ本人の姿勢をそのまま体現したようなギルド。〈三日月同盟〉の賑やかな空気がマリエールの人柄を端的に表しているのと似ている。
小さいけれど鋭い軌跡をもって、時に楽しげに、時に真面目に、向かい風を、雨を、雪を、嵐を、道行きを邪魔する何もかもを切り裂いてゆく。そこに容赦はない。やると決めたら徹底的にやる。その先に待っているものが何であれ。
五十鈴たちを〈ハーメルン〉から救出し、アキバの街に〈円卓会議〉を設立した時のように。
それがシロエであり、〈記録の地平線〉なのだろう。
シロエは寂しいと思うだろうか。
〈記録の地平線〉の終わりを思い浮かべて、悲しい気持ちになることはあるだろうか。
ならないわけがない。
「それどころではない」から表に出さないだけで、自ら生み育てたものがこの世から消える様を見て、悲しくならない人間なんていないだろう。
五十鈴の想像にすぎないけれど、あの覚悟の塊のような男だって、そんなごく普通の感傷からは逃れられないはずだ。
夕焼けに染まる執務室で見た、困ったような笑顔を思い出す。
でも。
それでもシロエは五十鈴の心配をしたのだ。
つまりそういうことなのだ。
五十鈴は思い出す。〈大災害〉から間もない頃、セララを迎えにススキノまで飛び出したという話を。アキバの街を根底から作り変えたことを。自分たちを助け出し〈ハーメルン〉を叩き潰したことを。ミノリの要請を受け、見たこともない〈妖術師〉一人のために大急ぎで遠い町まで飛んできたことを。できない、意味ない、関係ない、そう言っていくらでも切り捨てられたはずのものを、すべて拾い上げてきたことを。
ギルドの空気はギルドマスターの性格を色濃く反映する。
この優しいギルドが全てを証明しているではないか。
どこからともなくいい匂いが漂ってきたことに五十鈴は気付く。
と同時に、階下から班長の夕飯コールが聞こえてきた。
今日は奮発すると言っていた。どんなご馳走が待っているのだろう。
そして階下に降りていけば、男同士のバカ話に興じるルディとトウヤと直継がいて、にゃん太の手伝いに奔走するミノリがいて、自分も手伝って、やがて降りてきたアカツキが直継の顔面に飛び膝蹴りを入れて、シロエはそれを苦笑しながら眺めるのだろう。そんな穏やかなバカ騒ぎは夕食後の団欒の時間になっても続くのだ。
いいギルドに入ったな、と改めて思う。
そういえば、つい先日新しく覚えたばかりの呪歌があった。
覚えたてだからまだ効果は低い。パーティ全体の敏捷性をほんのわずか上昇させるのみだ。
でも試しにメニューからアイコンを選んでそれを特技として使用した時、体が勝手に口ずさんだリズムはすぐに気に入った。その名の通り軽やかで、少しだけ鋭くて、でもとても楽しそうで、心が浮き立つような曲だった。
あれなら食後の団欒に賑わうダイニングのBGMにはぴったりだ。ルディもきっと喜んでくれるだろう。
とんとんと軽快に鉄の階段を下りながら、五十鈴は窓から薄闇に包まれ始めたアキバの街を見た。
沈みかけの太陽ではそろそろ光量が心もとなくなってきたからか、あちこちで蝋燭や魔法の小さな光が揺らめき始めている。じきアキバは宵闇に沈み、冒険を終え家に帰った人々の安らぎの場になるだろう。
このギルドもそんなありふれた小さな暖かい家のひとつになるのだ。そのためなら、新曲のひとつやふたつ披露するくらいやぶさかではない。
できればウッドデッキや屋上で少し練習してからが良かったけど、なに、少しくらいの失敗もまた笑いの種になるだろう。
頭の中でコードを確認しながら、五十鈴は家族の食卓へと降りていった。
風を切る小鳥のスケルツォ(A Songbird Flies Like an Edge)(終)