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59 基礎数学

 ジンとソラは、食堂に移動し、椅子に座る。

 テーブルの上には、黄色いソースがかかった料理が置かれていた。


「これは、カレーライスという食べ物じゃ。そのスプーンですくって食べる」


 ジンの説明を受けて、ソラはスプーンで少しすくい、おそるおそる口に運んだ。


 ――辛い、けど、おいしい! キイさんの料理はやっぱりすごいな。


 ソラは初めてのカレーライスを夢中になって食べた。


 食べ終わって、応接間に戻ると、キイがコーヒーの入ったカップを運んできた。


「コーヒーでも飲みながら、教養数学と基礎数学の違いの話をしようかの」


 ジンの提案に、ソラは、よろしくお願いします、と応じた。


「まず、一番の違いは、日常用語をできるだけ使わず、専門用語と数学記号を使って議論をすることじゃな」


「えっと、誰と議論をするのですか?」


 ソラが尋ねると、ジンは苦笑いを浮かべた。


「数学で議論というのは、定義や公理から出発し、論理的な推論を重ねて、定理を証明する一連の流れのことじゃ。これも専門用語の一種じゃな。専門用語と数学記号を使うことで、曖昧さがなくなるとともに、思考が効率化され、さらに概念間の関係が分かりやすくなる」


 ソラは、なるほど、と相槌を打った。


「あと、基礎数学に共通する事項として、集合、写像、論理の使用が挙げられるのお。集合というのは、特定の条件を満たすモノの集まり。モノと言っても実世界の物体ではなく、数学的対象のことじゃがの。写像と論理は知ってのとおりじゃが、詳細な性質を用いて議論する」


「なぜ集合を使うのですか?」


 ソラの質問に、ジンは例を挙げて答える。


「集合を使うと、例えば、aは実数、の代わりに、aはRの要素、という言い方ができる。Rは実数全体の集合じゃ。数式組版では、垂直線を二重打ちする黒板太字という字体を使うことが多い。集合の要素である、という関係は、εに似た数学記号で表す。今の魔導文書で無理に書けば、a ε Rじゃな」


 ソラは、たしかにすっきり書けますね、と感心したように声を上げた。


 ジンの話は、教養数学と基礎数学で、線形代数学がどう異なるかの解説に移る。


「次は、基礎数学の線形代数学の話じゃな。何と言っても、扱う対象をできるだけ広げるという動機に基づいて、教養数学の線形代数で扱った数、ベクトル、行列から性質を抜き出して、専門用語の名前を付けることが挙げられるのお」


 ジンの話が理解できなかったソラは、すみません、具体的にお願いします、と返した。


 ジンは、まず数の一般化抽象化の説明を始める。線形代数において、数は足し算、引き算、掛け算、割り算の四則演算が自由にできる数学的な対象として登場する。


「逆に言えば、ある集合の要素間に四則演算に相当するものが用意されていれば、数の代わりに使えることになる。こういった集合を体と定義する。実数全体や複素数全体は体じゃ。それぞれ実数体、複素数体と呼ぶ。体は他にもあるから、数の一般化抽象化になっているわけじゃ」


 ジンの説明に、ソラは異議を唱える。


「ちょっと待ってください。複素数の範囲で代数方程式は必ず解を持つという代数学の基本定理は、実数の範囲では成り立ちませんから、四則演算が定義されている体というだけでは、数の代わりとして不十分だと思います」


「その通りじゃ。固有値などの議論では、前提条件が追加される。具体的には、出てくる代数方程式が解を持つという条件が体に付く」


 ジンの話は、ベクトルの一般化抽象化に移る。教養数学では、ベクトルは、数を並べたものであったが、基礎数学では、ベクトル空間の要素として定義される。


「ベクトル空間というのは、特定の条件を満たす集合のことじゃ。具体的な条件は、大きく二群に分かれる。要素間の足し算と引き算が定義されていること、および係数体の要素であるスカラーとの掛け算が定義されていることじゃ」


「係数体って何ですか?」

「そのベクトル空間の定義に使う体のことじゃ。例えば、実数体や複素数体を係数体に選ぶことができる」


 教養数学の線形代数とのあまりの違いに、ソラは、くらくらした。


「なんか、教養数学の数を並べたものと違いすぎませんか?」


「数を並べたものの集合がベクトル空間になっていることは分かるじゃろう。数を並べたものの集合のことを数ベクトル空間と呼ぶ。基礎数学では、数ベクトル空間を一般化抽象化したベクトル空間を扱うのじゃ」


「数ベクトル空間以外のベクトル空間には、どんなものがありますか?」


「例えば、実数全体で定義された実数値を取る関数の集合がそうじゃ。この場合、係数体は実数体じゃ。二つの関数を足し算、引き算してもまた関数。関数と実数を掛け算しても、また関数だから明らかじゃろう」


 ジンの挙げた例に、ソラは、なるほど、と返した。


 ベクトル空間の定義が一段落し、ジンの話は行列に移る。基礎数学では、行列は線形写像に一般化抽象化される。


「線形写像というのは、ベクトル空間からベクトル空間への写像で、写像元のベクトル空間で足し算したりスカラーを掛けたベクトルの移る先が、写像先で足し算したりスカラーを掛けたベクトルと必ず一致するようなものじゃ。数ベクトルに行列を掛ける処理が線形写像になることは分かるじゃろう」


 ジンの問いかけに、ソラは淀みなく答える。


「線形写像になるというのは、要するに、Aを行列、x、yを数ベクトルとするとき、A掛ける(x足すy)、が、A掛けるx、足す、A掛けるy、に等しいということですね。ああ、aが数とするとき、A掛ける(a掛けるx)が、a掛けるA掛けるx、に等しい、もいりますね」


 ソラの回答を受けて、ジンは、その通りじゃ、と満足そうにうなずいた。


 ここで、ソラは疑問に感じたことをジンに尋ねる。


「ベクトル空間と線形写像を扱うのはいいですが、対象をここまで広げてしまうと、議論を展開する手がかりがなくなるのではないですか?」


 ソラの質問に、ジンは嬉しそうな表情をして答える。


「ああ、そうじゃ。そこで、線形代数学では基底を持つベクトル空間に限定して考察する。基底というのは、有限個のベクトルの集合で、線形独立、かつそれらの線形結合でベクトル空間のすべての要素が表せるものじゃ。線形独立というのは、0ベクトルを表す係数の取り方が0しかないことを指す」


「なるほど。ここで教養数学の数ベクトルと繋がるわけですね。基底を固定して線形結合の係数を並べた数ベクトルを考えれば、ベクトル空間は実質、数ベクトル空間になりますね。線形写像も行列で表すことができます」


 ソラの指摘に、ジンは少し困った顔をした。


「坊やの指摘はその通りなんじゃが、基礎数学の線形代数学では、基底の取り方によらない性質を重要視して、議論が展開される」


 ジンは、そう言った後、基礎数学の線形代数学で扱われるトピックの例を挙げる。


・部分空間 ベクトル空間の部分集合で、ベクトル空間になっているもの

・次元  ベクトル空間の基底を構成するベクトルの個数


「例えば、ベクトル空間の様々な部分空間を考えて、それらの次元がどうなるか議論する」


 ジンの説明に対して、ソラは、たしかに、教養数学では出てきませんでした、と応じた。


 ジンは、基礎数学の線形代数学で扱うトピックについて補足する。


「それと、基礎数学では、行列式の詳しい性質とジョルダン標準形を扱う。行列式を使った連立一次方程式の解法や固有値の特徴付けなどが出てくる。ジョルダン標準形というのは、うまく基底を選ぶと、線形写像を表す行列が上三角行列になるというものじゃ」


「教養数学の三角化と何が違うのですか?」


「三角化では正規直交基底だったが、ジョルダン標準形では、基底ベクトルが直交するとは限らない基底を許す。その結果、非対角要素をほとんどすべて0にできる。正方行列をN乗した行列の要素をNの式として具体的に求めたいときなどに便利じゃ」


 ソラは、なるほど、と返した。


 ジンは、基礎数学の説明のまとめに入る。


「基礎数学の雰囲気はこんな感じじゃ。この調子で、抽象的な数学的対象が次から次へと出てくると思えばよいじゃろう。ノマス生まれの数覚スキル持ちに基礎数学への適性がどのくらいあるのかは分からんが、地球では結構な割合で脱落者が出ていた」


「なぜそんなに抽象的な数学的対象が必要なのでしょうか?」


「現実世界の多様な現象をモデル化するのが、それだけ大変ということじゃな。例えば、魔導波のふるまいを定量的に理解するには、魔導物理という高度なモデルが必要で、魔導具の理論は、魔導物理に基づいて構築されている。だから、魔導具開発には、基礎数学の修得が必須となるわけじゃ」


 ジンの説明を受け、ソラは姿勢を正して、ジンに告げる。


「将来、魔導具開発の道に進むかどうかは、まだ決められませんが、基礎数学は、さっきいただいたカレーライスみたいに思われました。変わった味ですが、深みがあっておいしいです。正直、どこまで付いていけるかは分かりませんが、基礎数学の修得を目指したいと思います」


 ソラの宣言に、ジンは嬉しそうに、そうか、と応じた。

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