58 地球の思い出
トロワ姫誘拐から一週間後、キイに王都まで迎えに来てもらい、ソラは久しぶりにジンの家を訪問した。
「キイさん、どうもありがとうございました」
ソラは、キイにお礼を言った後、魔導車のドアを開けて外に出る。そんなに経っていないのに、周りの景色が懐かしく感じる。
玄関に入り、靴を脱いで上がり、応接間に向かう。ソファに座っているジンと目が合った。
「ご無沙汰しています」
ソラが挨拶をすると、ジンは、ああ、よく来たな、と応じた。
ソラは、失礼します、と言って、向かいのソファに座る。
ほどなく、キイがグラスの乗ったトレーを持って応接間に入ってきた。
「マスター、ソラ様、果実ジュースをお持ちしました」
キイはグラスをテーブルに置くと、お辞儀をして出て行った。
ソラは、グラスを持って一口飲んだ。おいしい。移動で喉が渇いていたこともあり、たちまちグラスは空になった。
「念話でなく、対面で話したいことがあるそうだのお」
ジンの問いかけに、ソラは淀みなく答える。
「はい。トロワ姫誘拐の影響で、師匠にお願いが二点あり、伺いました。まず、トロワ姫の誘拐は、不正な報告書をトロワ姫に見抜かれた地方貴族が口封じのために計画したと分かりました」
ソラがそこまで話したところで、ジンが口を挟む。
「ああ、そのあたりの話は王から聞いているから省いて構わんぞ。皇国の好戦派と繋がっていたそうじゃな。まったく、ワシらの体験をさんざ聞かせたというのに」
ジンのつぶやきが理解できなかったので、ソラはジンに質問する。
「師匠たちの体験ってなんですか?」
「ああ、言ってなかったかのお。ワシらは、50年前に地球で起こった大規模戦争で使われた破壊兵器の爆発に巻き込まれて、ここノマスに飛ばされたのじゃ。あんな体験をすると、戦争は止めようという気になるのお。それ以降、地球からの転移者は現れていないから、地球の戦争がどうなったかは知らんが」
「王国以外の転移者もそうなのですか?」
ソラが続けて尋ねると、ジンは、遠くを見るような表情をして答える。
「帝国や皇国に飛ばされた転移者も同じじゃ。ヤツらと別に仲が良かったわけじゃないが、貿易や技術革新で国を豊かにして戦争という手段が選ばれないようにしよう、という点では一致しておった。数覚スキルとそれに基づく数理科学の知識を活用し、政治や経済の重鎮となって、睨みを利かせていたのじゃ」
ノマス生まれで数覚スキル持ちのソラとしては、必然の質問をする。
「数理科学って何ですか?」
「地球に存在していた、数学を道具あるいは言語として使う学問の総称じゃな。例えば、地球には天気予報という、明日の天気を予測する学問があった。大気の状態を測定して、それと数学的なモデルを組み合わせ、最終的には巨大な連立一次方程式を解くことで明日の天気を算出する」
実世界のモデル化は、線形代数の応用でも取り上げており、ソラには身近に感じられた。
「線形代数の応用のような感じでしょうか?」
「まあ、一面ではそうとも言える。ただ、モデル化自体が複雑で、専門の研究が必要じゃから、数学の単純な応用とは言えないのお。数理科学に属する学問と数学の関係はそんな感じじゃな。地球に魔導具はなかったが、魔導具開発も数学を多用するから数理科学の一分野と言えるじゃろう」
ソラは、最近の状況変化の要因についてジンに尋ねる。
「なぜ皇国は戦争をやりたがっているのでしょうか?」
「三つかの。一つは地球からの転移者が社会から引退することで、停滞してきた経済をなんとかしないとという切実感。もう一つは、転移者が政治からも引退することでうるさいことを言うヤツがいなくなったという解放感。最後は、トロワ姫に発現した数覚スキルに対する危機感じゃな」
「たった一人の数覚スキルが発現するだけで、戦争をするほどの危機感を持ちますか?」
ソラが疑問を呈すると、ジンはあきれたような顔をした。
「どうも坊やは、危機感が足りないのお。ワシのところにどれだけ頻繁に刺客が来ていることか。三国間の微妙なバランスなど、数覚スキルの前にはすぐ崩れ去る。トロワ姫は王族じゃから特に狙われやすいが、坊やも偽装のネックレスをつけていなければ、トロワ姫と同じ目にあったところじゃぞ」
ジンの迫力に圧倒され、ソラは恐縮しながら口を開く。
「ちょうど、師匠への一番目のお願い事項の話に繋がったので、説明させてください。トロワ姫の安全確保と国を豊かにして戦争を回避するために、王国、帝国、皇国で協定を結んで数覚スキル保持者を増やす案が出ています。これまでは、一人ずつ魔導具でスキルを調べていましたが、まとめて調べることはできませんか?」
ソラの問いかけに、ジンはしばらく考え込んでいた。
「これまでの発現事例の記録を見る限り、ノマス生まれの人間の数覚スキルの発現には、先天的な素質と、数覚スキル持ちとの接触が必要なようじゃ。鑑定の魔導具を改良すれば、先天的な素質は見分けられるじゃろう。あとは、候補者を講堂に集めて、一斉放送ができる念話の魔導具でまとめて接触するだけじゃな」
ジンの回答を聞き、ソラは目を輝かせた。
「それは素晴らしいです。発現するのが仮に5歳児の1パーセントであっても、三か国で毎年数万人の数覚スキル保持者が生まれることになります」
「しかし、せっかくの数覚スキル第一号の利点がなくなるが、坊やはそれでいいのかの?」
ジンの懸念に、ソラは迷いのない表情で答える。
「このままだと、トロワ姫と同様に、ボクも一生、暗殺におびえることになりますから、数覚スキル保持者が増えるのは歓迎です。数覚スキル保持者を増やす火種の役割を担うことで、先行者利益はあると考えています」
「なるほど、スキル発現と教育を商売にするわけじゃな」
「はい。野営で火を育てるように、ノマスの国土で数覚スキルを育てていきたいと考えています。国がスポンサーになるので、資金の心配もありませんし」
ソラは、一息つくと、ふと思いついたように口を開く。
「そう言えば、師匠はボクがやりたいと言ったことに一度も反対したことがないですね」
ソラの疑問に、ジンは当然といった顔をした。
「数覚スキルを伸ばす最大要因は、本人の好奇心とやる気じゃ。このままだとノマスで数覚スキル持ちが絶えると思っていたところに、坊やが現れた。数理科学の威力を知っている元日本人としては、どんな形であれ応援する気になるというものじゃ」
ソラは、ありがとうございます、と感謝の言葉を述べ、姿勢を正した。
「さっきの話の続きで、師匠への二番目のお願い事項になります。数覚スキル発現者への教育をどうしたらよいか、何かアイデアはございませんか?」
「40年前に魔導具開発に必要な数学の講義を計画したときは、まず教養数学と基礎数学の二段階に分けたのお。もっとも教養数学の段階で全員脱落したから、結局、基礎数学の講義はしなかったが」
ジンの回答は役立ちそうに思われた。ソラは興味深く詳細を尋ねる。
「まず、教養数学について教えてください。どんな内容なのですか?」
「それほど深い数学を必要としないジョブ向けじゃ。具体的には、坊やが習った線形代数と、微分積分、確率統計の三科目。転移者の数覚スキル持ちでも大半は、この程度の数学しかできないが、それでも十分豊かな生活をしておるぞ」
「たしかにボクらは線形代数だけで、会社を作って利益を上げていますから、三科目を修得できれば、王都に住めるくらいのお金持ちになれそうです」
ソラはジンの説明に納得し、続けて基礎数学について質問する。
「次に、基礎数学について教えてください」
ソラの依頼に対して、ジンはしばらく考えたあと、魔導具を操作して応接間の空中に文字を映し出す。
代数学 線形代数学、抽象代数学(群論、環論、体論)
幾何学 位相幾何学、微分幾何学、代数幾何学
解析学 複素関数論、実解析、微分方程式、確率論、関数解析学
応用数学 統計学、離散数学
「基礎数学は、数理科学で必要となる数学のことじゃ。分野によって要不要はあるが、一通り挙げるとこのくらいかのお。ちなみに、魔導具開発ではこれら全科目が必要じゃな」
ジンの説明で、ソラは身構えた。
「なんか、たくさん科目がありますが、修得にどれくらいかかるものなのでしょうか?」
「ノマス生まれは早熟で、15歳でスキルが固まるから、それまでに基本的な学習をすべて終える必要がある。6歳から始めるとして、まず初等教育の計算と教養数学で3年間くらいかのお」
ソラは、思ったよりも学習期間が長いことに安堵した。
「3年間もかけてよいのなら、教養数学は気楽ですね。線形代数だけですが、トロワ姫は修得に1か月もかかっていません」
「初等教育には、他の教科もあることを忘れないようにな。トロワ姫は数学しか勉強しないと、王が嘆いていたぞ。現実世界の課題を解決するには、モデル化の対象である現実世界をよく知る必要がある。数理計画法やデータ分析の用語を借りて、文化は制約条件、歴史は訓練データと考えれば、その重要性が分かるじゃろう」
「おっしゃる通りです。トロワ姫にも、そのように伝えます」
ソラは、恐縮して答えた。
「次は、基礎数学じゃな。これは、その後、3年間くらいかのお。中等部では、専門に応じた数理科学の分野を学ぶのがよいじゃろう」
「こんなにたくさん科目があるので、なんか3年間で終わるような気がしませんが」
ソラが弱音を吐くと、ジンは当然といった顔をした。
「数学を高度に活用するジョブにつこうとするのじゃから、教養数学と修得の難易度が違うのは当然じゃろう」
ここで、ソラは重要なことに気がついた。
「ところで、基礎数学や数理科学の各分野を教えられる人っているのでしょうか?」
ジンは、思案げな顔をした。
「まず基礎数学じゃが、理解しているのは三か国でワシを含めて数十名といったところじゃ。ただ、皆、高齢で多忙だから、実際に教壇に立って教えるのは無理じゃろうな。坊やたちが数年間掛けて学び、それを教えるしかないじゃろう。数理科学も同様じゃが、分野に分かれているだけ、より大変じゃろう」
一息置いて、ジンは続ける。
「おまけに、基礎数学や数理科学には様々な数学記号が出てくるが、それらを魔導文書に記述する際に、現状では絵として入れるしかない。効率よく教科書を作るには、数式組版が可能な出版環境の構築から始める必要があるのお」
「なんで魔導文書で数学記号が使えないんですか?」
「ノマス全体で最大でも数十名しか使わない機能をわざわざ魔導文書ツールに載せたりはせんじゃろう。ワシもこれまで魔導具を多数開発してきたが、数学的な記述については手書きで、それを絵として残すだけじゃ」
ソラは、基礎数学の教育のあまりの困難さにめまいを覚えた。
しばらく考えた後、ソラは、実施できそうな教育計画案をジンに示した。
1年目:
・教師候補として、数覚スキル保持者を数名確保する
・教師候補に教養数学までを身につけさせる
・数覚スキルが発現した5歳児を三か国から試験的に集めて、数覚クラスを作る
2年目から4年目:
・数覚クラスで教養数学の授業を実施する
・数式組版が可能な出版環境を構築する
・転移者から基礎数学を学び、教科書にまとめる
・教養数学の修得者の一部を教師に割り当て、クラスの規模を10倍に拡大する
5年目以降:
・希望者に対して、基礎数学の授業を実施する
・転移者から数理科学の各分野を学び、教科書にまとめる
・希望者に対して、数理科学の授業を実施する
・クラスの規模は3年ごとに10倍にする
「こんな感じでどうでしょうか」
ソラは教育計画案の説明をそう締めくくった。
「いいと思うぞ。目的は国を豊かにすることなのじゃから、最初から、全部教えることにこだわる必要はない。そもそも、あまり拙速に教育を変えられると、15歳でジョブを授ける神託の儀が追従できないからのお。10年くらいかけてゆっくりと変えていくのがよいじゃろう」
「分かりました。10年後、数覚スキルが発現したすべての5歳児が、本人の希望に応じて、初等教育、中等教育でこれらの科目を履修できるようにすることを目標とします」
ソラは、話していてふと気になったことをジンに尋ねる。
「そう言えば、基礎数学の先に発展数学というものはあるのですか?」
ジンは、悲しそうな顔をして答える。
「地球には、数学者という数学を専門的に研究するジョブがあった。彼らのやっていた数学が発展数学と言えるじゃろう。しかし、ノマスへの転移者の中に数学者は一人もおらず、発展数学は失われた研究となったのじゃ」
「発展数学はどのくらいの量があるのですか?」
「地球の人口はノマスの数十倍じゃ。基礎数学に収まらない研究は百年分くらいかのお。ノマスの人口に換算すると数千年の研究になるのお」
「それほど多量の知識が失われたなんて、……残念です」
ジンは、顔を上げ、ソラを見ながら口を開く。
「一つ希望がある。王国のちょうど裏側に、魔素が濃すぎて上陸が難しい大陸があるのじゃが、ワシの魔導具で、その一角に地球から飛ばされたと思われる街の廃墟が見つかった。そこを探れば古文書が出てくるかもしれん」
ソラは目を輝かせた。
「探検してお宝を探すのはワクワクします」
「とにかく魔素が濃いから、現地に行くには、ワシがあきらめるほどの莫大な金と手間がかかるがの。もし坊やが大金持ちになっても、発展数学に興味があったら、探検するのもよいじゃろう」
「分かりました。将来の夢の一つに入れておきます」
ソラは、もう一つ気になったことをジンに尋ねる。
「基礎数学の代数学の中に線形代数学が挙げられているのですが、教養数学の線形代数とどういう関係なんでしょうか?」
ソラの質問に、ジンは、ちょっと長くなるから、先に食事でもどうじゃ、と返した。
――キイさんの料理が食べられるのか、楽しみだな。
ソラは、期待に胸を膨らませて、分かりました、と答えた。
すかさず、キイが応接間に入ってきた。
「マスター、ソラ様、食事の準備が整いました」




