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36 存在の証明

 キイの運転で、孤児院からジンの別荘に戻ったソラは、応接間に向かった。


 ソファに座っているジンに挨拶する。


「師匠、ただいま戻りました」


「坊やか。孤児院の授業は、どうじゃった?」

「ルート2の話をしました」


「初等教育から始めて三日間でルート2か。順調じゃな。これなら数理計画法までやれそうじゃな」

「そうします」


 ソラは、昨日、ジンに依頼したことを念押しする。


「師匠、午後からの数学の講義、よろしくお願いします」

「ああ、昼ごはんを食べたら始めようかの」


 キイに呼ばれ、一旦、食堂に移動した二人は食事後、再び、応接間に戻ってきた。


 ソラが待ちかねたように、話し始める。


「講義の最初の題材として、存在の証明を取り上げていいですか。今日、孤児院でルート2が分子分母が整数の分数で表せない証明をしました。でも、この証明では、ルート2自体がある、存在することは言ってないです」


 ソラは、一息おいて続ける。


「ルート2は、整数の長さで描ける直角三角形の斜辺の長さとして現れるから、存在を証明しなくてもいいかもしれませんが、例えば3乗して2になる数が存在することは、どうやったら証明できますか? 講義で気になったので」


 ソラの問いかけに対して、ジンは少し考えてから口を開く。


「いい質問じゃが、先に、基本を確認するぞ。ワシら数覚スキル持ちにとって、数が視える、すなわち理想世界に数が存在する、というのは、そう感じられるという感覚であって、定理として証明されたかどうかとは別物じゃ。これはいいかの?」


 ソラは、はい、分かります、と返した。


「では、さっきの質問に戻るかの。回答としては、無理、自明、可能の三通りがあるぞ」


 ジンの説明を聞き、ソラは驚きの声を上げる。


「数学の問題では、答えはつねに一つに決まるのではないですか?」


 ソラの問いに、ジンはあきれたように告げる。


「そんなわけはなかろう。数学では、前提となる公理から決められた規則に従って推論して定理を導く。じゃから、公理や推論規則を替えれば、違う数学になる。もちろん、感覚とかけ離れた公理や推論規則が採用されることはないがの」


 ソラはよく理解できなかったので、具体例を尋ねることにした。


「では、まず無理の回答からお願いします」


「ワシら数覚スキル持ちが感覚的に把握している数とは、物の個数や量を示し、足し算や大小比較などができ、小数や分数で表せて、数直線の一点になるといった性質を備えた数学的対象じゃ。だが、感覚に頼る場合、数に関する公理ははっきりしないから、3乗すると2になる数の存在を証明するのは無理じゃな」


 一息おいて、ジンは続ける。


「代わりに、立方体を次第に膨らませていくと、どこかで体積が2になるだろうと想像することはできる。そのときの一辺の長さが、3乗すると2になる数じゃ。こんな形で、この数を視る、すなわち存在を体感することは可能じゃ」


 ジンの説明に、ソラは、なるほど、とうなずいた。


「では、次は自明の回答をするかのお。これは、3乗すると2になる数が存在するという性質を数の公理として追加する方針じゃ。公理は、推論なしで導かれるから定理の一種。よって、3乗すると2になる数が存在する証明は終わりじゃな」


 ジンの回答に対して、ソラは不服を唱える。


「師匠、これはちょっとないのでは? 何でも存在することになってしまいませんか」


 ソラの反論に、ジンは弁明する。


「さすがにこれは冗談じゃ。自明と言っても、もう少しもっともらしい公理を採用する。実際に数学の現場で使われている数の公理を紹介するかのお。上に有界な単調増加数列は上限を持つじゃ。とりあえず連続性の公理と呼ぼうかの。数に対する感覚をうまく捉えておる」


 ジンは、連続性の公理の内容をソラに伝えるため、まず数列について説明する。


「数列とは、数を一列に並べた列のことじゃ。一番目の数、二番目の数、……と順番に数が並んでいれば、どんなものでも数列と呼ぶ」


 次に、ジンは単調増加について述べる。


「単調増加数列というのは、数がだんだん大きくなっていく数列のことじゃ。同じものがあっても構わない」


「1, 2, 3,……や1, 1, 1, ……などですね」


 ソラが、単調増加数列の例を挙げた。ジンは、うなずいて同意する。


 さらに、ジンは上に有界について解説する。


「上に有界な数列というのは、数列のすべての数がある一つの数よりも小さい数列のことじゃ。例えば、3, 3.3, 3.33, 3.333, ……は、すべて4よりも小さいから上に有界じゃ。これは単調増加数列でもある」


 最後に、ジンは上限について説明する。


「上限というのは、数列のすべての数と同じか大きくて、かつ数列の中に差がいくらでも小さい数が存在するような数のことじゃ。例えば、3, 3.3, 3.33, ……は上限10/3を持つ」


 ソラは、上限がよく理解できなかったので、具体例で計算してみる。


「例えば、差の小ささを判定する値として0.001を考えます。上限の10/3と数列の四番目の数3.333の差は、0.00033くらいなので、判定値よりも小さくなります。判定値をもっと小さい値にしても、同様にできますね。確かに10/3が上限になっています」


 ジンは、ソラの計算結果の報告を受け、満足そうな表情を浮かべた。


「この連続性の公理を使うと、小数点以下に数字が無限に続く無限小数の存在が証明できる。逆に言うと、無限に続く数字が必ず一つの数を決めることはこういった公理によって初めて保証される」


 ソラは、ジンの話を受けて具体例を挙げる。


「例えば、1.4, 1.41, 1.414, 1.4142,……という一桁ずつ増える数列を考えます。これは上に有界な単調増加数列になっています。よって、連続性の公理から上限を持ちます。この上限を無限小数1.41421356……と定義すればいいのですね」


 ジンは、そうじゃ、その通り、とソラを褒めた。


 ソラは、ふと思い出したようにつぶやく。


「そういえば、小さいとき、10を3で割ったら、3.333……で、それを3倍すると9.999……で10に戻らないな、と悩んだことがありました。これも無限小数9.999……の値は、数列9, 9.9, 9.99,……の上限である10と定義されると考えればいいのですね。納得しました」


「ここまでくれば、3乗して2になる数の存在を証明することはできるじゃろう」


 ジンに促され、ソラは少し考えてから口を開く。


「正の整数で3乗して2以下になる最大の数は1なので、1から始まる数列を考えます。次に、小数点第一位を0から9まで試して、3乗して2以下になる最大の数を探します。この結果、数列の二番目の数は1.2になります。同様に続けると、数列1, 1.2, 1.25, 1.259,……を作ることができます。これは上に有界な単調増加数列なので、上限を持ちます」


 ソラが、ここで詰まったのを見て、ジンは助け舟を出す。


「この上限が、3乗して2になる数であることを示せば、証明終わりじゃ。これは、3乗して2以下になることと、3乗して2以上になることの二つを示せばよい」


 ジンのヒントでひらめいたソラは、証明を再開する。


「前半から行きます。数列のすべての数は3乗して2以下です。上限といくらでも近い数列の数が存在しますから、上限も3乗して2以下になります」


 ソラは、一息おいて続ける。


「次は後半です。数列のすべての数は、小数点最下位の小さい値を足して3乗すると、2よりも大きくなります。だから、上限も小さい数を足して3乗すると、2よりも大きくなります。この小さい数は、いくらでも小さく取れますから、結局、上限を3乗すると2以上になります。これで証明終わりです」


 ジンはソラの証明を褒めつつ、証明の細部を補足する。


「証明の概略としては合格じゃ。厳密な証明では、3乗という関数が連続という性質を持つことを使う。連続とは、直感的には、その関数のグラフが途切れないことじゃ。きちんと言えば、二つの数の差を所定の値よりも小さく取れば、両者の3乗を好きなだけ近い値にできることだの」


 ソラは、3乗のグラフを頭の中に描き、途切れない曲線であることを思い起こす。


「こういった証明では、ワシら数覚スキル持ちが数を視る感覚を道しるべとするのがよいじゃろう。何か伝えたいことがあるときに、それを理路整然とした文章にまとめるような感じかのお。訓練して数覚スキルが伸びてくると、証明自体も視えるようになるぞ。証明が感覚的に分かる状態じゃな」


 ジンの補足に対し、ソラは、そうですか、それは楽しみです、と返した。


 自明の回答が一段落したところで、講義は、3乗すると2になる数が存在することを証明する問題に対して、可能と回答する場合の説明に移る。


「最後は、可能と回答する場合じゃな。これは、数を構成する方針じゃ。つまり、数学的対象をうまく定めて、足し算等、大小比較、連続性の公理が成り立つようなものを作ることになる。もちろん何もないところからは作れないので、なんらかの存在を保証する公理は必要じゃ」


 ジンの説明に対して、ソラは、この方針が一番優れているのですか、と尋ねた。


「この方針にもメリット、デメリットがあるのお。メリットは、連続性の公理が証明できることじゃ。数学的にすっきりしていると言えるじゃろう。デメリットは、構成した数学的対象が、数に関して我々が持つ素朴なイメージと合わないことじゃな」


 ソラは、浮かんだ疑問を口にする。


「どんなものなのですか?」


「まず、分子分母が整数の分数で表せる数を有理数と言う。有理数は既知として、ルート2のような有理数でない数へ拡張する。この拡張方法はいくつかある。有名なのは、すべての有理数を二つに分ける分け方自体を数と見なす方法と、有理数が作るすべての数列をグループ分けしてグループを数と見なす方法の二つじゃな」


 ジンの説明に、ソラは困惑した。


「有理数の分け方とか、数列のグループが数と言われてもピンときません」


「だから、デメリットと言ったのじゃ。ワシの個人的な意見じゃが、坊やが今の仕事で使う数学、例えば線形代数などをやる上では、連続性の公理を導入する二番目の方針で困らないと思うがのお。数を構成できることは頭の片隅に入れておいて、より高度な数学で必要になったら構成すればよいじゃろう」


 ソラは、素直に、はい、そうします、と応じた。


 3乗すると2になる数の存在証明の解説が終わったところで、ジンは関連する話題を取り上げる。


「せっかく数列や連続性の公理を出したのじゃから、関連する話題である数列の収束についても、ざっくりと話しておこうかのう」


 ソラは、はい、お願いします、と返した。


「数列が収束するというのは、数列の先に行くにつれ、ある値との差がいくらでも小さくなることを言う。例えば、2, 0.5, 1.25, 0.875, ……は1に収束する。上に有界な単調増加数列は収束する。収束先のことを極限とも言う」


 ジンの挙げた例に対して、ソラは、数列の上限が収束先になっているわけですね、と応じた。


「収束する数列では、数列の先の方の二つの数は、いくらでも近くなる。こういう性質を持つ数列をコーシー列と言う。つまり、収束する数列はコーシー列じゃ。実は、この逆も成り立つ。つまり、コーシー列は収束する」


 ジンの説明に対して、ソラは感想を述べる。


「師匠がおっしゃたことの前半は明らかです。問題は後半ですね。どうやってコーシー列の収束先を探せばよいのか」


 ジンは説明を続ける。


「さすがにノーヒントだと厳しかろう。数列の上極限と下極限を使えば収束先が見つかり、収束が証明できる。上極限というのは、大雑把に言えば、数列から有限個の数を除いたときの上限、下極限というのは有限個の数を除いたときの下限じゃ」


 ジンのヒントを受けて、ソラが答える。


「分かりました。コーシー列では、先の方に行くにつれて、数が近づきますから、上極限と下極限が一致し、それが収束先になるのですね」


「その通りじゃ。今回は雰囲気だけじゃが、連続性の公理を使えば、上極限と下極限を厳密に定義でき、さらにコーシー列に対して両者が一致することをきちんと証明できるぞ」


 ジンは、ソラの回答に補足した後、講義のまとめに入る。


「数列の収束は、線形代数でもよく出てくる。坊やの仕事でも有用じゃろう」

「師匠、どうもありがとうございました」


 ソラは、これまでとは違う数学に触れ、喜びを感じていた。


 ――数については、そこそこ分かっていたつもりだったけど、知らないことがいっぱいあるなあ。師匠の家にいるうちに、いろいろ学んで、もっともっと数覚スキルを伸ばすぞ。


 ソラは、元気よく応接間を出て、自室として割り当てられている客間に向かった。

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