第三章 着く前の名前 10・11・12・13・14・15・16
10
午前五時四十六分。
中岡がさらに別窓を開いた。
「仮権限、ありました。先生の正式権限とは別です」
画面から目を離さない。
「島到着前に設定されてる。用途フラグは母体観察特例」
「いつ」
美沢が訊く。
「先生が白砂へ向かう十四時間前」
塩見が、無言で顔を上げた。
「その権限で何が動いた?」
結城が問う。
「受入前確認票と搬送票の先行印字です」
中岡が言う。
「説明実施欄は日時空欄のまま。完了チェックだけが先に閉じてる」
画面の右上に、印字された承認者名がある。
MISAWA JUN
誰も、すぐには喋らなかった。
「本人がまだ島へ着く前に」
結城が低く言う。
「説明だけが終わっていた」
「ログごと切り出して封緘」
美沢は言った。
「自動通知はしないで」
「了解」
11
午前六時三分。
検疫棟、旧搬入口の先は、現在は使用していないことになっている。
白砂へ改装された研究棟の白とは違い、ここだけは検疫施設の古さがそのまま残っている。
床の継ぎ目には潮が白く噛み、壁の下半分に古い塗り直しの跡がある。
鉄扉の向こうに、冷気がまだ薄く生きていた。
完全に止まってはいない。誰かが、ときどきだけ使っていた温度だった。
棚は三段。
上二段は空。
最下段の奥に、白い輸送ケースが一つだけ置かれている。
光を斜めに当てると、側面の印字が浮いた。
MATERNAL LINE-01
誰も、すぐには動かなかった。
「開けますか」
中岡が言う。
美沢はケースを見た。
白い。
名前ではなく、分類だけが先に立つ白さだった。
「開けてください」
封が切られる。
冷えた空気が細く逃げた。
中にあったのは、人ではなかった。
細長い検体カセット。
胎児心拍の感熱紙ロール。
湿気を吸った診療サマリー。
そのいちばん上に、透明袋へ入れられた白い手首帯。
美沢は袋の上から、その文字を読んだ。
MARTA DUQUE
印字ではない。
油性ペンだった。少しだけ滲み、書いた手の揺れまで残っている。
「患者は来てない」
中岡が低く言った。
「でも、患者から切り離せるものだけは来てる」
白い手首帯。
母体所見。
胎児心拍。
共有範囲。
順番だけが先に走り、名前は最後に袋へ残された。
12
午前七時十九分。
白い輸送ケースは、旧搬入口の簡易封緘庫へ移された。
結城が封緘票を二重に貼り、中岡が写真を撮る。
塩見は、そのあいだも扉の前から動かなかった。
誰も口にはしなかったが、あの箱を白砂の中心へ近づけたくなかった。
港から上がってきた受入速報を、美沢は立ったまま読んだ。
第二便 ヴェスディオス経由
患児一名 付き添い一名
母親、妊娠あり
「名前は」
美沢が訊く。
中岡が画面を寄せる。
「エレナ・ドゥケ。患児はトマス・ドゥケ。六歳」
誰もすぐには喋らなかった。
ドゥケ。
白い手首帯の透明袋越しに見た文字が、今度は画面の黒の上へ浮く。
「港へ連絡してください」
美沢は言った。
「自動同期停止。説明前ラベル出力禁止。母子観察区画は開けない」
「財団の人間が来る可能性は」
朽木が訊く。
「来ても後ろへ並んでもらいます」
美沢は答えた。
「先に話すのは患者と家族です」
13
搬送船は、予定より四分早く入った。
晴れているのに風は荒く、桟橋の鎖が金属音を細かく鳴らしていた。
海面は青いまま騒ぎ、白砂の白だけが余計に冷えて見える。
最初に降りてきたのは、銀色の身分章を付けた男だった。
濃紺の防水コートの襟元に、ヴァン・デル・レイ財団の細いバッジが見える。
「Foundation field coordination(財団現場調整担当です。)」
男は早口の英語で言った。
「受入導線はA。母体観察は先行で――」
「白砂では、その順番では受けません」
美沢が遮る。
男は一瞬だけ言葉を止めたが、すぐ立て直した。
「ヴェスディオス側では既に同意――」
「白砂では」
美沢はもう一度言った。
「説明が先です」
その後ろで、母親が子どもを抱いて立ち止まっていた。
風に煽られてフードがずれる。
痩せた頬。濡れた前髪。抱かれた男児はぐったりしている。熱で赤い耳だけが目立った。
母親は、コートの前を無意識に押さえていた。腹の前だけ、少し強く。
「エレナ・ドゥケです」
ゆっくりした英語で言う。
「息子、トマス。夫は後便。私は先に来いと言われた」
言いながら、子どもの額の髪を払う。
その手つきが、手慣れているのに落ち着かない。数えていた呼吸の回数が途中で分からなくなった人の手だった。
財団の男がもう一度口を挟む。
「妊婦のため、母子観察ユニットを優先すべきです」
エレナの目が、その言葉ではじめて揺れた。
「誰が言いました」
彼女は男へ向かって訊いた。
「私、あなたにそれ、言ってない」
風の音が、そこで一度だけ強くなる。
「観察区画Bへ」
美沢は塩見へ言った。
「紙のタグを使って」
財団の男はまだ何か言おうとしていた。
だが結城が一歩前へ出る。
「この場で先に効力を持つのは、現場責任者の判断です。異議は後で文書で」
男は口を閉じた。
閉じたが、諦めた顔ではなかった。
14
B区画の説明室は、窓の外に白い壁しか見えない。
そのぶん、音だけが遅れて返る。
トマスは簡易ベッドへ寝かされ、冷却パッドを首の後ろに当てられていた。
眠っているというより、熱で意識が浮いたり沈んだりしている顔だ。
エレナは椅子へ座る前に、一度だけ腹へ手を置いた。
隠すためではない。そこにあると、自分で確かめるみたいな触り方だった。
「分かっていることから話します」
美沢が言う。
「お子さんの血液細胞の染色体には、現在当地で観察している症例に近い橋形成が出ています。感染を示す証拠は薄い。原因はまだ確定していません」
エレナは頷いた。
だが、次の言葉を待つあいだ、視線だけが机上の仮受入帯へ落ちる。
そこに置かれていた白い帯を見て、顔色が変わった。
MATERNAL LINE-02(母体ライン02)
「……それ」
彼女は言った。
「何ですか」
美沢は帯を裏返し、机の端へ伏せた。
「説明前に使うものではありません。ここでは使いません」
エレナは、すぐには納得しなかった。
納得より先に、別の恐怖が立った顔だった。
「私、船で言ってない」
声がかすれる。
「夫には言った。妹にも。でも、船では誰にも言ってない」
「何を」
エレナは目を閉じた。
「妊娠です」
塩見と結城が、同時にごく小さく息を止める。
「週数は」
美沢が訊く。
「二十一」
エレナは答えた。
「昨日、ここへ来ると決まってから、隠したほうがいいと思って。息子のことで十分なのに、また別の順番にされるのが嫌で」
その言葉の選び方に、美沢は一瞬だけ菜月を思い出した。
似ているのは傷つき方ではなく、傷つく前の防ぎ方だ。
「分かりました」
美沢は言った。
「今この場で、その情報はあなたが言った順番で扱います。お子さんのこと、そのあとであなたのこと」
エレナはそれでようやく少しだけ肩を下ろした。
だがすぐ、別の名が口から出る。
「マルタは」
「妹です」
エレナが言った。
「マルタ・ドゥケ。先にここへ送られたはずです。財団は、白砂で保護されてるって」
部屋の空気が、わずかに固まった。
「こちらで確認します」
美沢は答える。
「今は、お子さんの説明を先に続けます」
エレナはすぐに反発しなかった。
今この人は怒るより先に、聞き漏らさない順番を選んでいる。
「また別の順番にされるのが嫌だった」
彼女は小さく続けた。
「だから隠した」
15
説明室を出ると、結城が低い声で言った。
「先生。いまの時点でマルタの箱を本人へ結びつけるのは危ないです」
「分かっています」
美沢は歩きながら答える。
「でも、向こうは最初から結びつけている」
港から上がってきた追加マニフェストには、さっきまでなかった備考欄が出ていた。
FAMILY LINK / DQ-2(家族リンク/DQ-2)
その下に小さく、
RELEASE HOLD(解放保留)
「家族到着で解放する前提になってる」
結城が言う。
「待っていたのは患者じゃなく、家族ですね」
塩見が低く言った。
美沢は返事をせず、右上へ書き足す。
家族照合停止
現場確認前の解放禁止
そのとき、中岡が声を上げた。
「先生、箱の付属スリーブ、もう一度見てください。湿気で張りついてて、一枚に見えてました」
16
透明スリーブは、湿気で内側同士が貼りついていた。
中岡が手袋の先で、端をそっとめくる。
最初に見えたのは、もう確認済みの白い手首帯だった。
MARTA DUQUE
その裏に、もう一枚、貼りつくように重なっていた。
誰も口を開かなかった。
さらに慎重に剥がす。
二枚目の帯は未使用だった。
切り離し線も、そのまま残っている。印字はくっきりしていた。滲みはない。先に作られて、まだ誰の手首にも巻かれていない。
そこにあった名を、美沢は声に出さずに読んだ。
ELENA DUQUE
MATERNAL LINE-02
塩見が、ようやく息を吐いた。
「来る前から、あったんですか」
結城は帯を見たまま言う。
「来る前からです」
エレナが妊娠を申告する前に。
エレナが白砂へ着く前に。
マルタが箱になったあと、その次の帯まで、もう待っていた。
美沢は白い帯へ目を落とした。
マルタ。
エレナ。
白い手首帯は、まだ誰の皮膚にも触れていない。
なのに順番だけが、先に完成していた。




