第四章 先に着く名前 1・2・3・4
第四章 先に着く名前
1
午前八時三分。
B区画の説明室は、窓の外に海ではなく白い壁しか見えない。
そのぶん、声だけがわずかに遅れて返る。
トマスは簡易ベッドで眠っていた。
熱で耳だけが赤く、呼吸は浅い。
エレナは椅子へ深くもたれず、いつでも立てる角度で腰を掛けている。
膝の上には閉じた母子手帳。両手はその表紙を押さえていた。
手を遊ばせないための持ち方だった。
「分かっていることから話します」
美沢は机上の紙ではなく、エレナの顔を見て言った。
「トマスくんの血液細胞の染色体には、白砂で観察している症例に近い橋形成が出ています。感染を示す証拠は薄い。原因は、まだ確定していません」
エレナはうなずいた。
だが、その次の説明を待つあいだも、視線は眠っている息子の胸の上下から離れない。
「ここからが、まだ分かっていないことです。進行速度。治療がどこまで効くか。あなたに関連する変化が出ているかどうか」
そこで初めて、エレナは顔を上げた。
「私にも、何かあるんですか」
「今の時点では、まだ言い切れません」
美沢は答えた。
「だから採血検査をします。お子さんのこと、そのあとで、あなたのことを説明します」
エレナは一度だけ目を閉じた。
安堵ではない。最悪を一歩だけ先送りにされた人の閉じ方だった。
「……マルタは」
美沢は、すぐには答えなかった。
「分かっていることだけ言います。マルタ・ドゥケという名前は、白砂へ向かう経路の資料にありました」
エレナの喉が強く動く。
「名前で、ありましたか」
行方より先に、消されていないことを確かめる声だった。
「はい」
エレナはすぐには返事をしなかった。
「まだ分かっていないことがあります。どこまで運ばれ、どこまで人として扱われていたか。そこは確認中です」
エレナは息を吸った。
だが問い返す代わりに、母子手帳の表紙へ掌を置く。
「白い島の医者は、先に名前を聞くって」
途中まで英語で出かかった語尾を、自分で押さえ込む。
「妹、そう言ってました」
その言葉だけが、白い壁で遅れて返り、部屋へ沈んだ。
「そうします」
美沢は答えた。
2
午前九時十九分。
エコーのジェルは、体温より少し低い。
エレナは探触子を当てられた瞬間、肩をこわばらせた。
だが痛いとは言わない。
言えば、そこで自分の手綱が緩むと分かっている顔だった。
美沢がプローブをゆっくり動かす。
モニタにまず灰色の粒が現れ、その中に脈のある影が立つ。
「心拍あります、規則性も保ってる」
エレナの手が、ベッドの縁から少し離れた。
その横で、朽木が画面右下を見ている。
「週数、出ます」
朽木は言い直した。
「……二十二週一日」
22w1d。
数字だけが、画面の片隅で白く浮いた。
「やっぱり」
エレナが言う。
「分かってたんですか」
塩見が訊く。
「向こうのクリニックでは、そう言われました」
エレナは答えた。
「でも、二十一って言えば、まだ息子の横に残れると思った。二十二だと、先に私だけ連れていかれるから」
塩見が息を止める。
「誰がそう言ったんです」
「港の臨時クリニックです」
エレナは目を閉じたまま言う。
「『順番だから』って。先に妊婦を見る、それから子ども。子どもはあとからでも追えるって」
そのとき、説明室の扉が二度だけ控えめに叩かれた。
返事を待たず、防水コートの男が顔を覗かせる。
財団の現場調整員だった。
人の顔より先に、週数の数字を見る種類の視線だった。
潮でコートは湿っているのに、持っている紙の角だけは真っ直ぐだった。
「対象は二十二週を超えています」
彼は滑らかな日本語で言った。
「母体観察の先行導線が必要です」
「使いません」
美沢が遮る。
男は一拍遅れて、手元の紙を持ち替えた。
「現地では既に、line two として――」
その語が落ちた瞬間、エレナの目が動いた。
塩見がそれを見るより早く、美沢が紙を取る。
「その呼び方はここでは、使わない」
紙を机の端へ置き、黒いペンで対角線を一本引く。
「無効です」
男は、初めて苛立ちを見せた。
怒鳴らない。顔も崩さない。ただ、声の摩擦だけが増える。
「比較線が切れます」
「切ります」
美沢は言った。
「人より先に来る比較線なら」
男は紙の角を指先で揃えた。
濡れた袖口をわずかに持ち上げ、腕時計へ視線を落とす。秒針が次の目盛りを越えるのを見届けてから、なお視線を上げずに言う。
「比較が切れれば、外の判断が遅れます。次の搬送窓まで一分ありません。向こうでは、それで機を逃した症例が出ている。line one の資料との整合も――」
今度はエレナが先に反応した。
「line one」
その二語だけを繰り返す。
「それ、妹ですか」
男は表情を変えなかった。分類用語を使っただけだ、という顔だった。
彼にとっては、誰かの妹である前に、症例の一つなのだと認識している顔だった。
「この場で」
美沢は言った。
「説明の順番を飛ばすなら、あなたは後ろに」
結城が一歩前へ出る。
穏やかな声だったが、文の切り方だけが硬い。
「現場責任者が、今、分類用語の使用停止を指示しました。異議は文書でどうぞ。紙はこちらで受けます」
男は黙り、それから紙を畳んだ。
閉まった扉の向こうで、遠ざかる足音だけが少し遅れて返ってくる。
3
午前十時三十七分。
記録されていた音声は、説明室ではなく空いた処置室で聞いた。
トマスの耳に入らない場所。
エレナがそう望んだ。
中岡がノイズを持ち上げ、不要な帯域を落とす。
それでも、最初に来るのは風だった。次に金属音。遠くで鳴る警告音。
エレナは、最初の二秒で顔を上げた。
「それ」
エレナが言った。
「南桟橋の暴風警報です」
中岡の指が止まる。
「分かるんですか」
「分かります」
エレナは答えた。
「島ごとに警報の長さが違う。あれはサン・アウレリオの港。クリニックの裏で鳴るやつです」
中岡が何も言わずに波形を戻す。
マルタの声が流れる。
『……wait…… please……』
『説明は……あとって……言われて……』
『まだ……夫にも……』
『名前……』
そこへ男の声が重なる。
『保護者通知は転送後』
『母体評価を先に』
最後に、もう一度だけ。
『ラインじゃない……』
『マルタです』
再生が止まる。
エレナは泣かなかった。
両手を組み、親指で片方の爪だけを押していた。根元が少し白い。
「妹は、まだ港にいた」
「この音が入ってるなら、まだ船にも乗ってない」
「白砂へ送られる前に、もう、こっちの中に入ってたんですね」
中岡が新しい窓を開く。
音声ファイルの受信時刻が、灰色の数字で並ぶ。
02:14 RECEIVE
03:52 DEPARTURE
「先に来てる」
塩見が低く言う。
「声のほうが、ね」
美沢は胸ポケットの紙を出し、余白へ書いた。
10:39 MARTA音声/港警報特定/受信02:14/出港前
乾く前に、エレナが訊いた。
「白い島は、妹が来る前から、妹の声まで持っていたんですか」
中岡の指だけが、次の窓を開く前で止まった。
4
午前十一時二十一分。
エレナは、二度目に説明室へ入ってきたとき、先に椅子ではなく扉のほうを見た。
閉まっているのを確かめてから、ようやく腰を下ろす。
「"white island doctor" という言い方を、最初に誰から聞きましたか」
美沢が訊く。
エレナはすぐには答えなかった。
考えているというより、どの記憶から出せば自分の足場を崩さずに済むかを選んでいる顔だった。
「港です」
やがて言う。
「ヴェスディオス側の臨時クリニック。英語が通じない人が多いから、説明は紙で読むことがある」
そこで言葉を切る。
「ラミネートのカードでした。表に、熱とか、出血とか、船酔いとか。裏に、運ぶときの言い方」
「その裏に、ありましたか」
「ありました」
エレナはうなずく。
「"White island doctor will explain later."」
自分で語順の乱暴さに気づいたらしい。言い直す。
「……白い島の医者が、あとで説明する。そういう意味で」
塩見が壁にもたれたまま訊く。
「カード、一枚ですか」
エレナは首を振る。
「束でした。青い留め具で三つ。ひとつだけ、最初から足りなかった」
言い終えたあと、彼女は唇を噛んだ。
言い足せば、怖さのほうが先に出ると知っている仕草だった。
美沢は紙を出し、余白へ書く。
11:24 Vesdios港/説明カード束三つ/white island doctor
扉へ置いていたエレナの視線が、初めて紙へ落ちた。
「先生、紙に書くんですね」
「時刻だけは、あとで言い換えたくないので」




