第四章 先に着く名前 5・6・7・8・9・10
5
午後零時十分。
中岡の端末の画面には、灰色の地に文字が並んでいる。
飾りがないぶん、何が起きているのかだけが、むき出しに見える。
小さな見出しが出ている。
愛媛県母子支援/避難用枝
「愛媛県の母子手帳支援データです」
中岡は画面を見たまま続けた。
「災害時に、先に手助けが必要な人を拾うための仕組みです。その途中から、白砂へだけ流れる道が一本つながってます」
塩見が眉をひそめた。
「助けるための道が、なんでこっちにつながるんですか」
「だから見てます」
中岡の指が少し動く。
表示が一段切り替わった。
「妊娠十五週。子ども連れ。付き添いは母親。今日の午前九時台に、一度だけ白砂側へ送られてます。正式な医療搬送の書類より先です」
結城が低く言った。
「本人が来る前に、拾ってる」
「拾ってるだけじゃありません」
中岡が別の表示を開く。
妊婦と子連れの付き添い、それを母親先行移送へ繋ぐようになっていた。
塩見が、息を吐いた。
「母子を切り離す気ですね」
「機械のほうで、自動的にです」
結城が言う。
さらにその下の表示が開く。
子どもは待機ルートへ、保護者への通知は移送のあと。そんな順番が、もう組まれていた。
美沢は画面から目を離さずに言った。
「自治体の通信そのものは止めません。白砂へ流れる道だけ切ってください」
中岡がこちらを見る。
「切れます。ただ、すぐには消えません。今この瞬間に新しく流れる分は止められても、もう向こうへ渡ったものまでは戻せない。今も、あと一件出そうになっています。それだけじゃありません」
中岡は時刻の表示を拡大した。
「同じ条件の情報が、九時十一分に一度、外へ出されています。こちらが止めても、既に、向こうでは受けている状態です」
結城が訊く。
「止めても、向こうでは残る?」
「残ります」
その直後、画面の隅に小さな青い文字が灯った。
REMOTE ACK(遠隔受信確認) 09:12
塩見が先に気づいた。
「受け取り確認……もう向こうに届いてる」
中岡が短く答える。
「はい。向こうでは、準備は始めていると思います」
さらに別の小さな表示が、音もなく開いた。
件名だけが見える。
PREP-BAND(識別帯準備)
DEST: ROOF HOLD(移送先:屋上待機区画)
中岡の目つきが変わる。
「……識別帯の準備です。しかも移送先が屋上待機区画になってる。帯だけじゃない。上にも回してる」
美沢が画面へ寄る。
「今、止められますか」
「こっちから出る分は止められます。でも、向こうに渡ったものは消せません」
その瞬間、右下の表示が一行だけ変わった。
小さすぎる文字を、結城が先に読んだ。
STAGING SLOT(待機区画) B-3
RESERVED(確保済み)
「待機区画のB―3……確保済みです」
結城の声が低くなる。
「部屋まで押さえてる。まだ誰も来ていないのに」
同時に、廊下の奥にある未使用の処置室B―3の表示灯が、誰も触っていないのに青へ変わった。
一拍遅れて、電子錠の短い解錠音が鳴る。
閉まっていた扉が、ひとりでに開いた。
暗い室内で、モニタが小さく起動音を鳴らす。
患者名の欄だけが、空のベッドの横で先に白く開いた。
通りかかった補助員が、その青い灯だけを見て空のワゴンを向けかけた。
結城が無言で手を上げると、補助員は進路だけを戻した。
潮見が息だけで言った。
「……もう部屋まで待ってる」
中岡は別の表示に切り替えた。
白い帯の印が一つだけ灯っている。
印字保留
LINE-03
「まだ通信しています。第三系統の帯です」
美沢は一拍だけ目を閉じ、すぐ開いた。
「出力される前に止める」
そう言ってから続ける。
「止めきれなかったら、出力されたものを先に回収します。誰にも渡さないで」
「了解」
中岡の指がキーボードへ落ちる。
灰色の画面の隅で、保留中の白い帯の印だけが妙に明るく見えた。
6
午後零時四十三分。
区画Bの入り口に、美沢は手書きの紙を一枚貼った。
氏名確認前の分類用語使用禁止
その下に、自分の署名。
印字ではない。黒いインクの癖が残る、生の署名だった。
塩見は、その横へ新しい手首帯を並べる。
油性ペン。白い帯。乾くまで少し時間のかかる名前。
安西芽衣。
安西結芽。
エレナ・ドゥケ。
トマス・ドゥケ。
菜月はドアのところで、それを見ていた。
メモ帳は開いていない。代わりに、貼られた紙の文言を目で追っている。
廊下の端の小さなラベルプリンタが、誰も触っていないのに細く鳴った。
ぴ。
全員の視線が、一度にそちらへ向く。
中岡が端末を見る。
「残りがありました」
言い終える前に、白い帯が一枚だけ吐き出された。
7
帯は、まだ温かかった。
美沢が手袋をしたまま拾い上げる。
上段に氏名。
下段に、小さな分類コード。
ANZAI MEI
MATERNAL LINE-03
塩見が最初に息を吸った。
吸ってから、吐けなかったみたいに黙る。
菜月はメモ帳を開かなかった。
帯だけを見ていた。そこに書かれた文字を、一つずつ目でなぞるように。
「三……」
結城が低く言う。
「母体優先、第三系統。既に一と二がある」
財団の現場調整員は、今度こそ何も言わなかった。
ただ、紙の角だけを指先で揃え、袖口の下の時計を親指でなぞった。
美沢は白い帯を裏返した。
裏に体温も、追加情報もない。
ただ名前と、母体優先の第三系統を示す記号だけがある。
まだ誰の手首にも巻かれていない。
なのに、もう出来上がっていた。。
美沢は帯を握り潰さなかった。
潰さずに、記録台へ静かに置く。黒線を一本引き、その下へ書いた。
無効
説明前の運用禁止
12:46
それから振り向く。
「芽衣さんに話します」
8
午後一時十二分。
芽衣は、結芽のカーディガンの袖をたたみ直していた。
右だけがよく裏返るのか、同じところを二度折って、指先で角を揃える。
その動きが終わるたび、視線だけが眠っている娘へ戻った。
「安西さん」
美沢が呼ぶと、芽衣はすぐ顔を上げた。
泣いてはいない。泣く前に、聞く順番を作ろうとしている顔だった。
「先に、分かっていることから話します」
芽衣は小さくうなずく。
「あなたの名前で、説明の前に手首帯が自動で作られました。そこに、第三番目を示す分類語が入っていました。それは今は使いません。封をして保管してあります」
芽衣の眉が寄る。
「……第三番目」
「はい」
「三って」
喉が一度だけ強く動く。
「前に二人いるってことですか」
「そう読めます」
芽衣はすぐには返事をしなかった。
代わりに、たたみ直したばかりの袖口へ指を差し入れ、また抜いた。
同じ手順を繰り返して、自分のほうを崩さないようにしている。
「分かっていないことがあります」
美沢は続けた。
「誰がその帯を作ったのか。何を見て、あなたの妊娠週数を拾ったのか。そこはまだ確定していません」
「でも、十五週って入ってた」
「はい」
芽衣は視線を落とした。
自分の腹ではなく、ベッド脇のバッグを見る。そこに母子手帳が入っているのだと、美沢には分かった。
「夫には言いました」
芽衣が言う。
「でも、会社にはまだです。結芽にも、ちゃんとは。言うと、園で先に言うから」
息を吸う。
「町のクリニックと、保健師さんくらいです。週数まで知ってるのは」
「だから先に言いました」
美沢は言った。
「あとから別の形で渡ると、受け取り方が変わるので」
芽衣はそれを聞いて、ようやく目を閉じた。
返事のかわりに、美沢は紙の余白へ時刻を書く。
13:14 ANZAI MEI/LINE-03説明
インクが乾くのを待つあいだ、芽衣が静かに言った。
「結芽、起きて隣が空だと、数え始めるんです。一、二、三って」
笑おうとして、失敗する。
「三までで泣くので」
美沢は、その数字に返事をしなかった。
「私の前ではしません」
代わりにそう言う。
「説明が先です。あなたが聞いていない移送は、一つも通しません」
9
午後一時三十一分。
私用端末が震えた。
白衣の胸ポケットの中で、小さく骨に当たるみたいな震え方だった。
画面を開く。
凛からだった。
――みた
――おそかった
たったそれだけ。
句点も絵文字もない。
返信欄にカーソルが点る。
「ごめん」まで打って、送らずに消した。
美沢はそのまま画面を落とし、胸ポケットへ戻す。
おそかった。
その四文字だけが、白衣の内側へ残った。
10
午後二時六分。
午後になると、書類の順番は人を動かしに来た。
廊下の向こうで、複数の足音が止まった。
一人ではない。二人でもない。車輪の軽い鳴りも混じっている。
ノックのあと、返事を待たずに扉が少しだけ開く。
中央の搬送補助チームだった。
白い防水ガウン。手にはクリップボード。
先頭の一枚が、こちらから読める角度で持たれている。
上段に氏名。
下段に分類語。
そのさらに下に、もう決まったもののような運用文。
ANZAI MEI
MATERNAL LINE-03
芽衣の名前の下に、母体優先の第三系統という分類が印字されている。
そのさらに下。
保護者通知:移送後
観察優先:母体先行
先頭の男が、クリップボードを胸の高さで持ったまま言う。
目は芽衣ではなく、紙の下段に落ちていた。
「安西芽衣さん。区画移送を始めます。説明は移送後に――」
「始めません」
美沢は、相手の言葉が終わる前に言った。
返事は早すぎるくらいだった。
胸ポケットの内側で、さっき消した「ごめん」がまだ残っている。
右手の親指に力が入りすぎているのが、自分でも分かった。白衣の縫い目を、無意識に爪で引っかいていた。
男は一拍遅れて、眉だけを動かした。
「中央からの指示です」
「ここは白砂です」
美沢はクリップボードを受け取る。
最下段、承認者欄に自分の名が印字されていた。
MISAWA JUN
芽衣が、その文字を見た。
見た瞬間に顔色が変わる。怒りではない。もっと手前の、足場が一つ消えたときの変わり方だった。
「……先生の名前ですよね」
「印字です」
美沢は答えた。
「私の指示ではありません」
男が口を挟む。
「ここを止めると後ろが詰まります」
午前から同じ文を何件も読んできた喉のざらつきが、最後の語尾にだけ残った。
言い終えたあと、彼は無意識に喉元へ指を当て、それから手を下ろした。
「その紙、置いていってください」
美沢は言う。
「本人より先に出たものは、今日は一枚も外へ戻しません」
男が初めて視線を上げた。
「……運用伝票をですか」
「人を消してる」
美沢は分類語の上へ一本線を引く。
無効
説明前運用禁止
14:07
美沢はクリップボードを閉じたまま、自分の脇の机へ置いた。
「この部屋で先に効力を持つのは、いま私が言った順番です。分かっていること。分かっていないこと。急ぐ理由。そのあとで、移すかどうかを決める。外で待ってください」
男は動かなかった。
抵抗の仕方を決めかねている顔だった。
塩見がその横へ半歩出る。
「待ってもらえますか」
柔らかい声だった。
柔らかいが、退かない声でもあった。
ようやく男は口を閉じ、後ろへ下がった。
扉が半分閉まる。その隙間から、白いガウンの袖だけがしばらく見えていた。
扉が閉まりきる前に、クリップボードの下から別の紙が床へ滑った。
床の上で、薄い一枚だけが妙に明るく見えた。
美沢がかがんで拾う。
ANZAI YUME
CHILD HOLD ROUTE
LINK-03 MOTHER TRANSFER PRIORITY
安西結芽。
子どもは待機ルートへ。第三連結、母体移送を優先する。
そう読める文だった。
芽衣の手が、結芽の手首へ移る。
脈を取るのではなく、そこに帯が巻かれていないことを確かめるみたいな触り方だった。
美沢はその紙も裏返し、同じように線を引く。
無効
説明前の母子分離禁止
14:09
芽衣は紙を見なかった。
見ないまま、結芽の髪を耳の後ろへ挟み、すぐ落ちる一筋だけをもう一度やり直した。
「娘と別にされるのは嫌です」
やがて、小さく言う。
「まだ、嫌だって言っていいなら」
「言ってください」
「嫌です」
それは叫びではなかった。
紙へ書けば、そのまま残る強さの声だった。




