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第四章 先に着く名前 11・12・13・14

   11


 午後三時三十一分。


 中岡の画面は、また灰色へ戻っていた。

 その灰色の隅で、屋上ヘリポートの運用窓だけが妙に白い。


「これです」


 美沢が寄ると、一行だけが浮いている。


 屋上受け入れ枠 準備完了

 22W

 氏名空欄

 受入承認済み


 塩見が低く言う。

「港じゃなくて、上を開ける気ですね」

「しかも、公式受け入れ前」

 結城が続ける。

「名前が入る前に」

 中岡は別窓を開く。

「配信元は中央です。作成元に財団ノードが噛んでます」

 それで十分だった。

「自動起動を切って」

 美沢が言う。

「名前が入る前の受け入れはしない。誘導灯も、区画も、手首帯も全部」

「切ります」

 中岡は短く答えた。

「ただ、向こうが手動で上げると競合します」

「競合したログも残してください」

「残します」

 天井の奥で小さく電流が走る音がした。

 中岡が顔を上げる。

「……切ったはずなんですけど」

 次の瞬間、屋上のヘリ誘導灯モニタが、誰も触っていないのに一つずつ点きはじめた。


 白。

 白。

 白。


 灰色の画面の中で、受け入れの順番だけが先に光る。

 屋上受け入れ枠

 22W

 氏名空欄

 受入承認済み


 まだ、誰の名前も来ていないのに。


 12


 午後四時二十一分。

 空から来たのは、まだ誰の名でもない受け入れだった。

 来たのは海保のヘリではなかった。

 灰色の塗装をした中型輸送機で、尾翼の小さな登録記号だけが異国のものだった。機体側面のロゴは剥がされた跡があり、その下に薄く財団の紋が残っている。消したつもりで消しきれなかった印だった。

 落としたはずの誘導灯が、一列だけまた点く。

 中岡が奥歯を噛む。

「手動で入れてきてます」

 機体が接地する。

 風圧で、結城の手の中の紙が大きく鳴った。

 タラップが開き、まず医療補助員が二人。

 そのあとにストレッチャーが出る。

 タラップ脇では、午前の調整員がまた袖口を上げていた。人の顔ではなく、到着の秒を受け取る癖だけは変わらなかった。

 乗っていたのは、ひどく軽そうな女だった。

 頬が削げ、唇が乾いている。腹だけがはっきりと丸い。コートの前は途中までしか閉じられておらず、その下の病衣の白が風に揺れる。片手が腹の上で止まり、もう片方の指先がストレッチャーの縁をわずかに掻いていた。

「意識レベル混在。血圧低下傾向。妊娠二十二週相当」

 補助員が英語で言う。

「正式識別は搬送後に――」

「ここで聞きます」

 美沢は遮った。

 女はすぐには目を開かなかった。

 だが、声だけは届いていたらしい。まぶたがかすかに震える。

 財団の連絡員が、風に負けない声を作る。

「対象の識別は室内で――」

 言いながら、彼もまた濡れた書類の角を親指で揃えた。

「先に名前です」

 美沢はストレッチャーの横へしゃがんだ。

 風が頬を打つ。濡れた髪が女の額へ貼りついている。

「聞こえますか。名前を教えてください」

 女の唇がわずかに動いた。

 声ではない。息の形だけが先に出る。塩見がすぐ酸素マスクの位置を直す。

 三度目で、ようやく音になる


「……マル……」


「もう一度」


 まぶたが薄く開く。焦点はまだ合わない。

 それでも、名を聞かれた人間の目だった。


「……マルタ」


「名字は」


「ドゥケ……」


 マルタ・ドゥケ。


 美沢はその名を、胸ポケットの紙へ先に書いた。それから塩見へ言う。

「手首帯」

 塩見はポケットから白い無地の帯と油性ペンを出した。

 印字済みの透明袋には触れないまま、膝の上で書く。


 MARTA DUQUE


 その遅い筆圧を、財団の男は黙って見ていた。

 口を挟かず、視線だけで計算をやり直している顔だった。


   13


 午後四時三十八分。


 マルタはB区画の一番奥へ入れられた。

 濡れたシートの端から、海の匂いが細く残る。

 塩見が酸素流量を見、朽木が採血の準備をする。

 結城は搬送票の濡れた角を一枚ずつ乾いたタオルで押さえ、中岡は屋上から切ってきた手動起動ログを追っている。

 マルタは目を開けたり閉じたりしていた。

 意識が戻るたび、最初に見るのは天井ではなく、自分の手首だった。そこに印字ではなく手書きの名があることを、毎回確かめるように。

「マスク、少しだけ外します」

 塩見が言った。

「短くでいいので、答えられますか」

 マルタは小さくうなずく。

「ここへ来る前、どこにいましたか」

 美沢が訊く。

 返事はすぐには来なかった。

 言葉を探しているのではなく、どこからを先に言うか選んでいる遅れだった。

「……港じゃない」

 掠れた声。

「白い……箱。先に」

 そこで息が乱れ、塩見がマスクを戻す。

 酸素の流量音が一段上がる。

「妹さんは」

 美沢が訊いた。

「エレナ・ドゥケ」

 マルタのまぶたが、はっきり震えた。

「……来た?」

「来ています」

 その一言だけで、マルタの喉が動く。

 泣くのではない。泣く前に呼吸を戻そうとする喉の動きだった。

 そのとき、扉の外で誰かが立ち止まった。

 塩見が開けると、エレナが立っている。髪の先がまだ湿っていて、片手は腹の前、もう片方はドアの縁を掴んでいた。

「名前だけ」

 エレナが言った。

「中を見なくていい。今いる人の、名前だけ」

 彼女は敷居を越えなかった。

 美沢はマルタのほうを見る。

 マルタは目を閉じていたが、聞いていない顔ではなかった。閉じたままのまぶたが、ほんのわずかに上がる。

「マルタ・ドゥケです」

 エレナの指から、ドアの縁の力が抜けた。

 抜けて、それでも倒れないよう、今度は腹へ手を当てる。

「……生きてる」

「生きています」

 美沢は言った。

「でも今は短く」

 エレナは入ってこなかった。

 代わりに、扉の外からひとつだけ言う。

「マルタ」

 ベッドの上で、マルタの指が動いた。

 手首帯の最後の文字だけをなぞるみたいに。

「……エレナ」

 塩見はドアを半分だけ閉めた。

 完全に閉める場面ではなかった。


   14


 午後五時一分。

 中岡の画面には、灰色の一覧が並んでいた。

 その中に、いま新しく開いた窓だけが妙に白い。

「マルタ・ドゥケの処理履歴です」

 中岡が言った。

「二本あります」

「二本?」

 結城が訊く。

「患者本体の搬送ログと、識別資材優先搬送です」

 中岡はカーソルを二本の行へ滑らせた。

「本人と、本人より先に白砂へ送られた箱」

 画面の右端に、処理名が並ぶ。

 本体保留搬送

 識別資材優先搬送

 さらにその下に、別の枠が出ていた。

 第二準備 完了

 ELENA DUQUE / 22W

 中岡の声だけが淡々としていた。

「マルタさんのログが閉じる前に、次が立ってます」

 塩見は壁へ手をついた。

 掌の下で爪の色だけが少し変わる。

「家族ごとに、順番を作ってたんですね」

 結城は画面の下端を見ていた。

 一番小さい字のところを、読み上げるというより、自分に確認するように。

「承認フラグ……条件付き自動実行です」

 エレナは、いつのまにか部屋の入口まで戻ってきていた。

 そこから先へは入らない。だが、聞こえてしまった顔をしている。

 腹の前に置いた手だけが、少し持ち上がる。

「待って」

 短い一語だった。

 言い終えてから、自分で呼吸を取り戻すように、彼女は言い直した。

「私が着いたから」

「マルタじゃなくて、次が開くんですか」

 美沢は胸ポケットの紙を出す。

 余白は、もう端に細く残るだけだった。

 ペン先が一度だけ宙で止まり、それから書く。


 17:01 識別資材優先搬送/第二準備完了/ELENA DUQUE 22W


 そのとき、ベッドの上のマルタが閉じかけた目をもう一度だけ開いた。

 酸素の音に混じるほど小さい声で言う。

「……違う」

 美沢が顔を上げる。

「何が」

 マルタの視線は、エレナではなく、画面のほうへ向いていた。

「次……妹じゃない」

 息が切れる。

 塩見がすぐに身を乗り出す。

 けれどマルタは、それでも言葉を切らなかった。

「もう一人……いる」

 さらに小さく。

「まだ……名前のままの人」

 そこで、扉の外にいた芽衣が、ほとんど息だけみたいな声で言った。

「まだ、いるの」

 誰に向けた問いでもなかった。

 だが、その一語で、画面の中にあるはずの無名が、急に同じ廊下の先へ近づいた。

 その直後、誰も触っていない廊下の端のラベルプリンタが、温まる前の短い唸りを鳴らした。

 美沢は反射的にそちらを振り向いた。

 胸ポケットの中で、端末が鳴った気がしたが、実際には何も震えていなかった。

 中岡が、反射みたいに別窓を開く。

 灰色の一覧に、一行だけ増えた。


 NO NAME (名前無し)

 NO FAMILY LINK (家族連結無し)

 ETA 21:20


 美沢は記録台の端から、まだ何も書かれていない白い帯を引き寄せた。

 親指と人差し指でそれを持ち上げ、無意識にペンも取る。

 そこで、動きが止まった。

 NO NAME と書けば、まだ来ていない誰かを、こちらの手で先に無名へ変えることになる。

 胸ポケットの内側で、おそかった、の四文字がまだ残っている。

 指は、白の上で止まった。

 美沢はペン先を下ろさず、帯をそのまま記録台へ置き直した

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