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第五章 衝突 1・2・3

 第五章 衝突


   1


 午後九時二十一分。


 記録台の上の帯は、まだ白いままだった。


 ペン先にだけ、黒が溜まっている。落ちなかったインクが、小さく丸く光っている。


 中岡の端末の隅で、灰色の窓だけが戻ってくる。


 屋上受け入れ枠

 22W

 氏名空欄

 受入承認済み


「……上、受け入れを手動で上げてます」


 中岡の声は低い。

 塩見はラベルプリンタへ手を伸ばした。


「印字口、抜きます」

「お願いします」


 薄いプラスチックが擦れる音がした。

 小さな音なのに、白い廊下では妙に遠くまで行く。


 美沢は白い帯を見た。

 まだ誰のものでもない。名前が入る前のまま、記録台に置かれている。


 そのとき、廊下の向こうで車輪が鳴った。

 軽いブレーキ音。

 空のベッドが先に来る音だった。


 ノックが二度。

 返事を待たず、扉が細く開いた。


 財団の搬送補助チームが二人。

 後ろに、空の移送ベッド。

 先頭の女はクリップボードを胸の高さで持ち、目だけで室内を数えていた。


「区画再編を始めます。新規受け入れのため、母子観察区画の空き床を一床確保します。安西芽衣さんを今から移送――」


「待ってください」


 美沢が言うと、女はそこで初めて目を上げた。


「待っていたら受け入れ窓が閉じます、次の患者が入れません」

「聞いています」

「では、速やかに」

「その前に、本人へ話します」


 女はクリップボードを持ち直した。

 紙に書かれた順番と、目の前の順番を合わせ直そうとしている沈黙だった。


   2


 午後九時二十七分。


 芽衣はまだ十分に起き上がれていなかった。

 結芽は母の脇で半分眠っている。毛布の下から、小さな靴下のつま先だけが見えていた。


「……私、動かされるんですか」

 芽衣が言う。

 美沢は女に詰め寄った。

「今ですか」

 先頭の女が答える。

「説明は移送後でも可能です。区画全体の受け入れが詰まるので――」

「本人に向かって言ってください」

 美沢が言った。

 女の視線が、ようやく芽衣へ移る。

 その遅れ方だけで十分だった。

 芽衣は毛布の上から、結芽の足先へ手を置いた。

 押さえるみたいな、確かめるみたいな触れ方だった。

「娘と離れますか」

 廊下の向こうで、別の足音が速くなる。

 屋上受け入れ要員だと分かる走り方だった。

「一時的に導線が分かれます」

「それは離れるってことです」

 芽衣は泣かなかった。

 泣く前に、言葉の形だけを先に固める声だった。

 美沢は空の移送ベッドへ手をかけ、ブレーキを踏んだ。

 小さく、硬い音がした。

「本人が納得する前の移送は通しません」

 先頭の女の喉が一度だけ動く。

「先生、今は全体優先です」

「知っています」

「一人を止めると、後ろが詰まります」

「知っています」

 美沢は言った。

「それでも、先に本人に話します」

 そのとき、結芽が目を覚ました。

「いち」

 眠たそうな目のまま、天井ではなく車輪を見ている。

「に」

 移送ベッド。

 扉の隙間。

 立ったままの白いガウン。

「さん」

 その「さん」と同時に、搬送補助チームの一人が芽衣のベッド柵へ手をかけた。

 美沢がその手より先に足元へ回り、もう一度ブレーキを踏み込む。

 硬い音が重なった。

「どこいくの」

 結芽が問う。

 芽衣は娘を引き寄せる。

 引き寄せながら、相手ではなく美沢を見る。

「まだ、嫌だって言っていいですか」

「言ってください」

 即答だった。

 芽衣は一度だけ結芽の頭へ手を置き、それから言った。

「娘と離れるなら行きません」

 大きなことは言わない。

 制度の理屈も責めない。

 ただ、それだけを自分の言葉で置く。

 その細さが、この場ではいちばん強かった。

 内線が短く鳴る。


『次便ヘリ、接地しました。妊娠中。意識レベル低下傾向。受け入れ先を』


 来た。

 名前のないまま、来てしまった。


   3


 午後九時三十三分。


 到着した次便ヘリの妊婦の受け入れは、母子観察区画ではなく第二処置室へ回された。

「そこは母体対応の換気空調システムが――」

「知っています」

 美沢は言った。

「でも受けます」

 ストレッチャーが半分開いた第二処置室の扉を押し広げる。

 最初に見えたのは、腹ではなく手首だった。

 細い。冷えている。帯はまだない。

 付き添いはいない。

 代わりに、白砂のスタッフではない男が一人、カルテ封筒を抱えて横についた。財団の現場調整員だと、名札を見る前に分かった。

「仮識別だけでも先に」

 男が言う。

「氏名空欄のままだと混乱します」

「仮の番号、記号はつけません」

 美沢はストレッチャーの脇へ回った。

「聞こえますか。名前を言えますか」

 女の瞼が半分だけ開く。

 視線の焦点が合わない。口元がわずかに動いて、すぐ閉じた。

 塩見が酸素をつなぐ。

 結城は腹囲と出血量の確認に入る。

 中岡が後ろから低く言った。

「受け入れログは」

「病床管理だけ先に。白の手首帯はつけないで」

「了解」

 印字されないままの帯を、美沢は処置台の角へ置いた。

 白いまま、そこにある。

 財団の男がもう一度だけ言う。

「処置が遅れます」

 美沢は無視して女の顔へ屈んだ。

「ここは白砂です。あなたの名前を知りたい」

 返事はなかった。

 代わりに、呼吸が浅く速くなる。

 結城が短く告げる。

「落ちます。先にライン確保」

「お願いします」

 名前はまだない。

 それでも処置は始まる。

 その順番の悪さを引き受けるように、美沢は白い帯から目を離さなかった。

 同じころ、母子観察区画では、搬送補助チームが芽衣のベッドの脇にいた。

 まだ動かしていない。

 だが、動かす前提だけはもう床の上へ広がっている。



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