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第五章 衝突 4・5・6

   4


 午後九時四十六分。


 航の部屋は、さっきと同じ明るさだった。

 同じなのに、間に合わない部屋の明るさに見えた。

 菜月はモニタではなく、ドアの開く音で美沢を見た。

「遅れましたね」

「少しだけ」

「少しで済みますか」


 責める声ではなかった。

 だから余計に、言い訳が役に立たない。

 朽木が画像をめくる。

 橋形成の指標は、落ちきってはいない。

 GRF-7 は確かに悪化速度を鈍らせている。

 けれども、鈍らせているだけだった。


「投与タイミング、十五分押してます」

 中岡が言う。

「第二処置室で回線を食われました」


 菜月は頷いた。

 事実そのものより、誰も隠さなかったことのほうを受け取った顔だった。


 航は眠っている。

 眠っているというよりは、疲れて、意識が沈んでいるようであった。

 鼻翼が小さく動くたびに、頬の薄さが目についた。


 菜月が言う。


「そっちは、守れましたか」


 美沢はすぐに答えなかった。

 守れた、と言うには早すぎた。

 守れなかった、と言うには、まだ何も終わっていなかった。


「順番は、戻しました」

 やっと言う。

「でも、航くんの時間を削りました」


 菜月は航の足先の毛布を直した。


「じゃあ、ちゃんと次を考えてください」

「はい」

「この子の時間は、もう順番の話じゃないから」


 朽木が画面から目を上げないまま言った。


「止めてるだけでは、追いつかない」


 美沢はその言葉を聞いた。

 聞いただけで、まだ返さない。


 モニタの波形は保っている。

 保っているが、戻ってはいない。


   5


 午後九時五十七分。


 安西母子の区画に戻ると、空気が少しだけ静かになっていた。

 静かになったというより、疲れて声量が落ちている。


 結城が、芽衣の枕元に紙を置いていた。

 同意書ではなく、白いメモ用紙だった。見出しも印もない。


「難しい言い方をやめます」

 結城が言う。

「今動く理由。動いたら起きること。動かないで起きること。三つだけ話します」


 芽衣は頷く。

 結芽は母の腕に頬をくっつけたまま、半分だけ起きていた。


「ひとつ目。今、別の妊婦さんが来ています。かなり状態が悪いです。高度な治療が可能な部屋が要る。

 ふたつ目。芽衣さんが動くなら、結芽ちゃんをどうするかを決めないといけない。

 みっつ目。動かないと、他の重症の患者さんの受け入れや処置が遅れます」


 塩見が足した。


「お母さんだけ動かして、芽衣ちゃんと離すかどうかは、こちらが勝手に決めません」


 芽衣は結芽の髪を撫でた。

「一緒なら、動けます」

 少し置いて、

「一緒じゃないなら、動きません」

 その条件だけが、はっきりしていた。


 そのとき、第二処置室の扉が細く開いた。

 中岡が顔だけを出す。


「先生」

「はい」

「声、出ました」


 美沢はそちらへ向かった。


 女は、酸素マスクの下で目を開けていた。

 焦点はまだ弱い。

 それでも、さっきよりこちらを見ている。


「聞こえますか」

 美沢が言う。

「名前を言えますか」


 唇がかすかに動く。


「……さ」

 息が切れる。

 もう一度。


「さえ……き」


 結城が横で復唱した。

「佐伯?」


 女の瞼が一度だけ閉じる。

 肯定にも見えるし、力が切れただけにも見える。


「下の名前は」


 塩見が静かに訊く。


「……みう」


 そこまでで、また呼吸が速くなる。


「今日はここまでです」

 美沢が言った。

「いまは、ここまででいい」


 結城が白い帯を差し出す。

 今度は油性ペンの先が止まらなかった。


 佐伯 美羽


 印字より遅い。

 だが、遅いぶんだけ、誰の名前か分かる速度だった。


 塩見がその帯を、美羽の手首へ巻く。


 仮の記号ではなくなった。

 それだけでも、第二処置室の空気は少し変わった。

 同時に、母子観察区画の端末が短く鳴った。

 優先枠再配分

 白砂側 一件ロスト(喪失)

 誰も、その表示を読み上げなかった。


   6


 午後十時四分。


 搬送補助チームは三度目に入ってきた。


 今度はさっきより人が多い。

 同意条件が出たのだから、もう動かせるという顔をしていた。


「安西さん、移送開始します。お子さんは後便で――」

「違います」

 結城が言う。

「それには同意していません」


 先頭の女はクリップボードを見下ろしたまま答える。


「現場事情で変更をさせてもらいます」

「その説明は受けていません」

「後で――」

「後では、受けていません」


 声は大きくない。

 大きくないのに、部屋の温度が一段下がった。


 芽衣が結芽を抱え直す。

 抱え直した拍子に、顔が痛みでわずかに歪む。

 それを見て、美沢はベッド柵へ手を置いた。


「この条件では動きません」

「先生、次窓が閉じます」

「知っています」

「受け入れ全体に影響が出ます」

「知っています」


 一拍置いて、美沢は言った。


「後で説明するのは、説明じゃありません」


 廊下の端末が短く鳴る。

 中岡がそちらを見て、何も言わない。


 向こうは数を失い、こちらは時間を失う。

 どちらももう戻らない形で、そこへ置かれる。


 先頭の女が、ようやくクリップボードを下ろした。


「報告書に記録しますよ」

「してください」


 女たちは押してこなかった。

 押してこないまま、ベッドを押し戻す。

 その中途半端な停止が、いちばん息苦しかった。


 搬入口の脇には、いつの間にか財団のケースが二つ置かれていた。

 携行冷却箱と、簡易監視ユニット。

 まだ受領印はない。

 ないのに、もう中へ入る前提の置き方で並んでいる。


 財団の現場調整員が、その横に立っていた。


「失った枠の補助は可能です」

 低い声で言う。

「夜間警備も増やせます。データ共有だけ先に回線を――」


 美沢は返事をしなかった。


 第二処置室では、美羽の手首に巻かれた帯がまだ乾ききらないまま光っている。

 母子観察区画では、結芽の手首に何も巻かれていない。

 その二つのあいだで、白砂は一件を守った。


 だが、その守り方のままでは、次を失うともう分かっていた。


 守るたびに喪失する場所になったのだと、搬入口に置かれたケースの白さだけが静かに告げていた。

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