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第六章 再生 1・2・3

 第六章 再生


   1


 午前五時十三分。


 夜勤明けの白砂は、静かではなかった。

 音が減っただけで、止まってはいない。


 搬入口の庇の下に、財団のケースが二つ並んでいる。

 夜露で角だけが濡れていた。受領印はまだない。なのに、もう朝を待つ荷物の顔をしている。


 航の部屋では、モニタの数字だけが起きていた。


「越えました」

 中岡が言う。

「夜は」

 美沢は頷いた。

「越えただけですね」

 GRF-7 投与後の推移は、悪くないとも言えた。

 橋形成の比率は落ちている。崩れる速度も、たしかに鈍っている。

 だが、戻ってはいない。


 朽木が端末の画面を二枚並べた。

 昨夜の画像と、いまの画像。

 壊れる速度の差だけが見える。壊れたあとに埋まるはずの空白は、そのまま残っている。


「ここです」

 朽木が言う。

「落ちるのは遅くなる。でも、ちぎれた先が帰ってこない」


 菜月は椅子に座ったまま、航の手を包んでいた。

 眠れていないのに、泣いてはいなかった。

 泣くより先に、数字の変化を覚えてしまった人の顔だった。


「じゃあ」

 菜月が言う。

「今の薬は、何をしてるんですか」


 美沢は画像から目を離さずに答えた。

「壊れる前に、少しだけ待たせています」

「少しだけ」

「はい」


 菜月はその言葉を口の中で転がすみたいに黙る。

 それから、航の指先に触れた。


「この子に要るのは」

 朽木が低く言う。

「待つことじゃない」


 美沢はそこで初めて、朽木が脇に置いた古い透明フォルダに気づいた。

 擦れた表紙。角の白化したインデックス。

 月圏作業員対策計画、とだけ黒く残っている。


「まだ持ってたんですか」

「捨てられませんでした」

「失敗したやつを」

「失敗したからです」


 朽木はフォルダを開く。

 中の図は古い。解像度も低い。

 それでも、美沢には何が描かれているかすぐに分かった。

 砕けた染色体を、順番のまま拾い集め、元の状態に復元する、DNA再生計画の図だった。


   2


 午前七時二十二分。


 検体室の明かりは、朝が来ても変わらない。

 外の色がどう移っても、ここでは白だけが続く。


 朽木は顕微鏡を覗いていた。

 GRF-7 投与群は、染色体の崩れ方が遅い。

 だが、染色体の断片は断片のまま残っていた。

「こっちは止めてる」

 朽木が左を叩く。

「でも、こっちは戻してる」

 右側に置かれていたのは、粒の荒い顕微鏡写真だった。

 赤く染まった微生物。

 丸いものがいくつも連なっている。

「デイノコッカス・ラジオデュランス……まだこれを見てたんですか」

 美沢が隣で呟いた。

 朽木は目を離さない。

「放射線でDNAが何百に砕け散っても、数時間でつなぎ直す……」

「それ、菌ですよ」

「そうです。人じゃない」

 それでも、と朽木は続けた。

「強いんじゃない。順番を見失わないんです」

「……」

「壊れない設計じゃない。壊れたあと、戻る道筋を持ってる」

 美沢は培養画像へ目を落とす。

 人の側の細胞は、そこがない。

 壊れたものを止めることはできても、元の並びへ帰す足場がない。

 朽木が白紙の端へ、短く書く。


 repair scaffold (DNAが損傷した際の、修復タンパク質が集まる土台となる構造。)

 rapid reassembly human side (人の体細胞側での迅速な再構築)


「53BP1, BRCA1, RAD52などのDNA損傷応答因子、つまりは修復タンパク質を、染色体断裂時に大量に産生させることによって、人間の側に戻るための能力を体内のDNAに与えたとしたら?」

「言うのは簡単ですが」

「だから、今まで誰もやらなかった」

 美沢は黙ったまま、朽木のペンを受け取る。

 白紙の下へ、ためらいながら英字を書く。


 hyperstrong DNA 超強化型DNA。


 書いてから、自分で嫌な顔をする。


「名前が軽い」

「中身は軽くないです」


 美沢は strong の下に一本線を引いた。

 強力あるいは頑丈、では違う気がした。

 だが、いまはまだ置換語が見つからない。


「頑丈な DNA じゃない」

 美沢が言う。

「それは、壊れた後、元ある姿への戻り方を持った DNA です」

「略すなら」

「まぁ……HSD でいいです」


 言った瞬間、自分で線を越えたのが分かった。

 仮説に名前をつけるのは、次に続く人間のやることだ。


 検体室の扉がノックされる。

 中岡が顔だけを出した。


「航くん、いま落ち着いてます」

 それから少し置いて言う。

「落ち着いてるだけです」


 それは希望の報告ではなかった。

 猶予がある、そういった意味の報告だった。


   3


 午前十時十一分。


 細胞培養実験室の照明は落としてあった。

 落としてあっても、暗くはない。画面の白さだけで足りる。


 培養皿が二枚、並んでいる。

 左が対照。右が HSD の足場配列を入れた群。

 どちらも照射後四時間三十二分。


 朽木が再生速度を落とした。


「ここからです」


 最初に崩れるのは、いつも同じだった。

 核の輪郭が薄くなる。

 染色体断片の蛍光が散る。

 散ったものは、普通、そのまま散り続ける。


 左の皿では、そうなった。

 赤と緑の細い断片が、視野の中でばらけたまま止まる。

 止まるというより、帰る先を失って固まる。


 右の皿では、違った。


 散ったはずの点が、そこで一度だけ足を止める。

 見えない糸で引かれるみたいに、少しずつ寄る。

 寄って、重なって、細い線を作る。


 中岡が画面の時刻を見る。


「……戻ってる」

「まだ言うには早い」

 朽木は言う。

「でも、散ったままじゃない」


 美沢は椅子を引かなかった。

 前へ寄るでもなく、その場で画面を見たまま言う。


「いや、断裂橋形成が減ってるんじゃない」

「はい」

「切れ目の数そのものが、減ってる」


 皿の右端で、ひとつの細胞が分裂へ入る。

 ゆっくりだった。

 無理をしているみたいに遅い。

 それでも、割れて終わりではなく、割れて続く動きだった。


 朽木が別の視野へ切り替える。

 そこでは失敗している。

 断片が寄りきらず、核が潰れて止まる。

 成功しているのは、まだ皿の一部だけだった。


「全部じゃない」

 美沢が言う。

「一部です」

 朽木が答える。

「でも、方向は出た」


 ライブセルイメージングシステムが織りなすの無音の世界の中で、分裂した二つの細胞が動いた。

 二つの細胞からは、染色体の断裂橋が消失していた。

 派手な変化ではない。

 歓声を上げるような種類でもない。


 それでも美沢には、分かった。


 止めているだけではない。


 ごく一部でも、細胞が障害前の状態に戻り始めている。


 その認識だけが、静かに部屋の温度を変えた。


 

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