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第六章 再生 4・5

 4


 午後一時三十二分。


 概念実証のあとに来るのは、たいてい残酷な段差だった。


 同じ足場配列を、成人由来の複合オルガノイドへ与える。

 分裂している細胞、ほとんど止まっている細胞、修復速度の違う細胞が混じった系。

 人の身体に近づけるほど、結果はきれいではなくなる。

 中岡が投与後の分布図を並べた。


「入ってる場所が揃いません」


 画面の染色体には、モザイク構造が出来ていた。

 効いたところだけが淡く光る。

 効かなかったところは、最初からいなかったみたいに暗い。


 朽木が言う。


「成体はもう、全部が同じ速度で分かれてない」

「だから」

 美沢は視線を動かさない。

「同じ量を入れても、元の身体には還らない」


 さらに六時間後の画像へ送る。


 戻った細胞群が、小さな島みたいに残っている。

 その周囲では、戻れなかった細胞群が崩れている。

 境目がいちばん悪かった。

 引っ張り合うみたいに歪み、組織の面そのものが裂ける。


「ここ」

 朽木が境界部を拡大する。

「戻った側が悪いんじゃない。戻らない側が悪いんでもない」

「DNAの設計が揃ってない」

 美沢が言う。

「同じ身体の中で、別の身体のDNAの作製が始まってる」


 塩見が後ろで黙って見ていた。

 しばらくして、画面から目を離さずに訊く。


「これを、そのまま人に入れたら」

「効いた場所だけが先に持ち直します」

 朽木が言う。

「持ち直さない場所との境目で、細胞核の余計な歪みが出る」

「臓器ごとに差も出る」

 美沢が続ける。

「血流、分裂速度、もともとの損傷度。全部で構造がずれる」


 中岡が別の表を開く。


「突然変異、過剰免疫反応、腫瘍化のリスク全部跳ね上がります」


 部屋が少しだけ静かになった。

 希望の次に来る沈黙だった。


 航に使えるか、という問いを、誰もまだ口にしない。

 口にしないまま、全員が同じことを考えている。


 美沢はやがて言った。


「この形では入れません」

 それから、はっきり区切る。

「成人体には、まだ使えない」


 朽木は否定しなかった。

 ただ、机の端へ指を置いたまま言う。


「部分的には戻せる」

「部分的では足りない」

「分かっています」


 足りない。

 その言葉が、数値より先に残る。


 GRF-7 は、壊れる前に待たせる。

 HSD は、ごく一部なら戻せる。

 けれど、いま目の前にいる患者に要るのは、部分ではない。


 同じ身体の全部だった。


 その日の午後、菜月は小処置室の前で、その紙束を見た。

 朽木が閉じ忘れた透明フォルダの端から、古い微生物の図が少しだけ覗いている。

 その上に、さっき美沢が書いた HSD のメモ。

 速記に近い字で、矢印と丸と、消しかけた strong。


「それ」

 菜月が言う。

「次の薬ですか」


 美沢はすぐには答えなかった。

 否定したほうがまだ安全だった。

 でも、もう安全な場所には戻っていない。


「薬、というより」

 朽木が言いかける。


 菜月が、その先を取った。


「治すんじゃなくて」

 視線を紙から上げる。

「作り直すんですか」


 部屋の中で、航の呼吸だけが一定に続いている。

 その一定さが、逆に足りなさを際立たせる。


 美沢は嘘をつかなかった。


「いまのままでは、戻れないので」

「戻れるように、身体の細胞の設計図を先に変える」

「……はい」


 菜月はすぐには怒らなかった。

 驚いたあと、怖がるより先に、航を見る。

 その順番がきつかった。


「この子には」

 菜月が言う。

「間に合いますか」


 質問は短かった。

 答えも短くするしかなかった。


「まだ分かりません」

 美沢は息を吸う。

「でも、今のままでは間に合わないのは分かっています」

 菜月は目を閉じた。

 泣かなかった。

 泣かなかったまま、ベッド柵に手を置く。

「じゃあ」

 目を開ける。

「もう、治療とかの話じゃないんですね」

 誰もそれを否定できなかった。


 5


 午後四時五分。

 胎児超音波室は、検体室より暗かった。

 暗いぶんだけ、画面の白が生き物に見える。

 塩見がプローブを当てる。

 芽衣はベッドに半身を預け、結芽は椅子の上で眠っていた。

 午前の騒ぎが嘘みたいに静かだが、静かなだけで何も減っていない。


「動いてます」

 塩見が言う。


 画面の中で、小さな四腔が規則正しく縮む。

 まだ外の世界の空気を知らない心臓だった。


 美沢は画面を見る。

 その奥で、さっきのまだらな分布図が重なる。

 成人体では揃わない。

 揃わないなら、まだ揃っている時期に入れるしかない。


 朽木が、抑えた声で言った。


「全身を一つの設計にするなら、ここ、この状況しかありません」


「言わないでください」

 美沢はすぐに返した。


 塩見はプローブを離さない。

 けれど、聞こえている顔だった。


「分化が進みきる前」

 朽木は続ける。

「全部がまだ、同じ身体として増えている時期」

「分かってます」

「分かってるなら」

「言わないでください」


 芽衣が画面から目を離さずに訊く。


「何の話ですか」


 そこで部屋の中の全員が、少しだけ遅れた。

 遅れたあと、結城がドアの前で足を止める。

 入ってきたところだった。


「まだ」

 美沢が言う。

「仮説の話です」

「赤ちゃんのですか」

「……はい」


 芽衣は腹へ手を置く。

 置いてから、もう一方の手を伸ばし、眠っている結芽の頭に触れる。

 その順番だけで、言葉より先に何かが決まる。

「いまいる子には」

 芽衣が訊く。

「使えないんですか」


 美沢は画面を見た。

 規則正しい拍動。

 まだどこへも分かれていない、ひとつの速さ。

「この形のままなら」

 やっと言う。

「難しいと思います」

「じゃあ」

 芽衣の声は小さい。

「生まれてる子には、もう遅い」

 誰もすぐには答えなかった。

 結芽の寝息だけが、部屋の隅で一定に続く。


 塩見が検査を終え、ジェルを拭き取る。

 白いガーゼに透明が吸い込まれていく。

 その手つきが、妙に慎重だった。


 美沢はようやく言う。


「今いる子どもに間に合わせる形では、ありません」


 芽衣は何も言わない。

 怒りもしない。

 ただ、腹と結芽の頭へ置いた手を、どちらからも離さなかった。


 画面は消えた。

 消えても、美沢の目にはさっきの心拍だけが残っている。


 全部がまだ同じ速さで増えている時期。

 全部がまだ、一つの設計として間に合う窓。


 そこへ手を入れるしかないのだと分かった瞬間、

 それが今いる子どもたちの側には開いていないことも、同時に分かった。


 窓の外は、もう夕方だった。

 搬入口の庇の下には、財団のケースが朝と同じ位置に並んでいる。

 動いていないのに、近づいてくるみたいに見える白さだった。


 美沢は超音波室の暗いガラスに映る自分の顔を一度だけ見た。


 壊れない身体では足りない。

 止まる身体でも足りない。

 壊れたあとに、還ってゆく身体が要る。


 その考えを、自分の頭の中だけへ戻すことが、もうできなかった。


 これはもう、治療の話じゃない。


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