第七章 冒涜 1・2・3
第七章 冒涜
1
午前八時九分。
最初に増えたのは、人ではなく、着信ランプだった。
代表内線、病棟直通、広報窓口。
白砂の朝はいつも早いが、この朝の速さは別の種類だった。
音が止まらない。鳴り終える前に次が来る。
結城が一件だけ取る。
相手は名乗らなかった。
名乗らないまま、最初に聞いた。
『DNAの胎児導入計画は事実ですか』
結城は受話器を少しだけ離し、もう一度耳へ戻す。
「その名称ではお答えできません」
『では、母体投与による胎児遺伝子改変は』
「お答えできません」
『否定しないんですね』
切れる。
切れた瞬間に、別の着信が入る。
中岡がメール画面を閉じきれないまま言った。
「件名だけで二十七件あります」
「急ぐものだけ回してください」
美沢が言う。
それでも、見えてしまう。
神の領分
子どもを設計するのか
白砂は何を始めた
冒涜をやめろ
件名は短い。
短いぶんだけ、外で言葉だけが先に走っているのが分かる。
休憩室の無音テレビの下に、細い帯が流れる。
四国の島で白砂ワクチン、開発か
胎児導入案に賛否
朽木が、その文字だけを見て言う。
「厳密には違いますが」
誰に向かってでもなく、画面へ向けた声だった。
「ワクチンじゃない」
「でも予防で打つなら、外はそう呼びますよ」
結城が答える。
窓際の小さなモニタには、正門前の固定カメラが映っている。
朝の光の中に、もう三脚が二本ある。
記者証を下げた人間と、記者証のない人間が半分ずつ。
紙のボードを持っている者もいる。
塩見がモニタの角度を変えた。
「母子側から見えないようにします」
「お願いします」
正門の前で、一人の女がボードを上げる。
文字はまだ遠い。
それでも、黒の太さだけで読めた。
子どもを守れ
美沢はその画面を見たまま、何も言わない。
正しいところがある。
だから厄介だった。
2
午前九時二十六分。
搬入口の庇の下で、財団の現場調整員は今日も低い声だった。
声だけ聞けば、夜間の補給確認にしか聞こえない。
「保全移送の用意ができます」
男が言う。
「検体、培養系、母体症例。優先順位はこちらで組めます」
庇の外では、小雨が始まっていた。
ケースの上に細かく点が打たれ、ラベルの文字だけが濃くなる。
「頼んでいません」
美沢が言う。
男は頷いた。
「頼まれる前に来ています。正門の様子は見ました」
「見ました」
「今は保護の段階です」
「誰を」
「施設全体」
その言い方で、誰を先に動かしたいのか分かる。
患者でも、家族でもない。
成果だ。
そのとき警備から無線が入る。
『東側柵に投棄物。一件、確認を』
塩見が受け取りに行き、数分後、透明袋を持って戻ってくる。
中に入っていたのは、土で汚れた紙束だった。
爆発物でも薬品でもない。
湿った土と、印刷された文だけ。
表紙には団体名があった。
自然治癒生態帰還ネット
その下に、大きく一行。
適応ではなく停止を
さらにページをめくると、もっと短い文が並んでいる。
汚れた環境に子どもを慣らすな
放射線兵器を止めずに耐える身体を作るな
未来の子どもに同意不能の設計を押しつけるな
誰もすぐには何も言わなかった。
財団の男だけが、土のついた紙を見てから言う。
「だから申し上げています」
「守る、と」
「はい」
「その代わり、こちらの決定権を持っていく」
「違います」
男は一拍置く。
「失う前に押さえるだけです」
失う。
その言葉もまた、患者のことではない。
塩見が袋をたたんだ。
「この人たち、言ってることは全部外れてるわけじゃないですね」
「そうです」
美沢が言う。
「だから、こちらが先に話さないといけない」
財団の男はそれ以上言わなかった。
言わなくても、ケースはもう庇の下にある。
雨を避ける位置まで、きれいに寄せられている。
どちらも守ると言う。
どちらも、先に決めようとする。
3
午前十時四十二分。
小会議室の空気は、朝より少し乾いていた。
誰も眠れていないのに、眠気の話をする顔ではない。
ホワイトボードには昨夜の続きが残っている。
HSD:超強化型DNA
母体投与経由胎児期導入案
その下に、結城の紙。
分かっていること。
まだ分かっていないこと。
急ぐ理由。
やめる基準。
塩見が先に言った。
「母子区画を、防波堤にしないでください」
誰もすぐに返さない。
「正門に人が増えたからって」
塩見は続ける。
「妊婦さんと子どもを奥へ隠すみたいに動かすのは違います。守るって言って、また匿名から始まる」
結城が頷く。
「説明順序は変えません」
「変えたら終わりです」
塩見が言う。
朽木は窓のほうを見たまま低く言った。
「研究系は狙われます」
「分かっています」
美沢が言う。
「保冷庫の動線だけは絞ります」
「外からだけじゃありません」
朽木は振り向く。
「財団も来る。向こうの『保護』は、奪う順番がきれいなだけです」
中岡が端末を見ながら口を挟む。
「中央からも対外発言停止。記者対応は一本化しろ、だそうです」
「槙原ですか」
「はい。怒ってはいません」
「でしょうね」
怒っていない人間ほど、止め方がうまい。
結城は紙の一行目を指で叩いた。
「外が何と呼んでも、こっちはこれで始めます。これは治療ではありません」
「それを、患者に言うんですね」
塩見が訊く。
「最初に」
「最初に」
結城が答える。
美沢はホワイトボードを見る。
治療ではない。
それでも患者の身体に関わる。
そのとき、正門側から短いざわめきが届いた。
ガラス越しの遠い音。
誰かがマイクを使い始めたらしい。
聞き取れたのは、一語だけだった。
生命の冒涜を辞めろ。
部屋の中の誰も、その言葉を復唱しない。
「今日中に」
美沢が言う。
「芽衣さんには先に話します。外の言葉より先に、こちらの言葉で」




