第七章 冒涜 4・5・6
4
午後一時十一分。
結芽は、窓に貼った曇り止めの端を指でなぞっていた。
外は見えない。
見えないが、音は来る。
正門前のマイクは、午後になっても止まらなかった。
大きな声ではない。
大きくしないことで、かえって病棟まで届く種類の声だった。
芽衣はその声を聞きながら、美沢の入ってくる気配を待っていた顔をした。
「今、いいですか」
「はい」
美沢はベッド脇へ椅子を寄せる。
「外の人たち」
芽衣が言う。
「私のお腹のことを、もう何か言ってますよね」
美沢はすぐには答えなかった。
言葉の内容より、先にそう聞かせてしまった順番の悪さがある。
「言っています」
「何て」
「……いろいろです」
「その、いろいろを」
芽衣は結芽の頭へ手を置く。
「外の人より先に、こっちから聞きたいです」
結芽が顔を上げる。
「ぼうとくってなに」
芽衣はすぐには答えず、子どもの頬へ手を当てた。
「まだ、覚えなくていい言葉」
それから美沢へ視線を戻す。
「でも私は覚えるから。だから、あとでじゃなくて、先に聞かせてください」
あとでじゃなくて。
それだけで十分だった。
結城が白い紙を持って入る。
昨夜のものより、少し整った紙だった。
見出しは同じ。
分かっていること。まだ分かっていないこと。急ぐ理由。やめる基準。
「呼び方は二つあります」
結城が言う。
「外が勝手につける名前と、ここで責任を持って使う名前です」
「こっちは、何て呼びますか」
芽衣が訊く。
結城は少しだけ考えてから答えた。
「まず、中身から話します」
結芽は毛布の端を指で丸めながら、美沢の顔を見る。
「わくちん?」
「まだ」
美沢が言う。
「そう呼ぶ前の話です」
外ではもう名前が先に走っている。
白砂の中だけが、まだ中身から始めようとしていた。
結城が紙を開く。
「最初に言います。これは治療ではありません」
芽衣は頷いた。
もうその一行には驚かない顔だった。
「今ある病気を、そのまま治す話ではありません。生まれる前の身体に、壊れたあと戻るための設計を持たせるかもしれない、という話です」
「かもしれない」
芽衣が繰り返す。
「はい。まだ、そう言うしかありません」
結城は一つ目の欄を指で押さえた。
「分かっていること。いまの成人の身体には、均一に入らない可能性が高い。胎児期なら、全身を一つの設計として持てる可能性がある。でも、それは可能性です」
二つ目へ移る。
「まだ分かっていないこと。長く生きたときに何が起きるか。どこまで放射線に耐えられるのか。ほかの臓器や成長に、何を残すのか」
結芽が小さく言う。
「ながくって、どれくらい」
誰もすぐには答えなかった。
答えられないことの種類が、その問いには入っていた。
三つ目へ移る。
「急ぐ理由。今いる子どもたちには、いまの治療が十分に間に合わない可能性が高い。生まれてからでは遅い窓が、あるかもしれない」
芽衣の手が、腹の上で少しだけ動く。
そのあと、結芽の肩へ移る。
「やめる基準。母体か胎児に重い悪影響が予測される時点。あなたがやめたいと言った時点。外から、説明の順番に介入が入った時点」
芽衣はそこで初めて顔を上げた。
「介入」
「外部が、決めようとしたら止めます」
結城が言う。
「財団でも、中央でも、反対してる人たちでも」
部屋が少しだけ静かになる。
芽衣は美沢を見る。
「世界を止める前に、子どもを世界に合わせる話なんですね」
美沢はすぐには返さなかった。
返さないままでは済まない問いだった。
「はい」
やがて言う。
「少なくとも、そう見えます」
「見えますじゃなくて」
芽衣の声は強くない。
「そうなんですよね」
美沢は否定できない。
結芽が母の服を握る。
「おそと、わるいの」
芽衣は子どもの頭を撫でた。
「悪い人もいる」
それから、美沢たちのほうを見る。
「でも、悪い世界に合わせるのが正しいかは、まだ分からない」
「分かりません」
美沢が言う。
「だから、先にそう言います」
芽衣は目を閉じた。
閉じてから、ゆっくり開く。
「今、はいとは言いません」
「分かっています」
「でも」
芽衣は白い紙を見る。
「次に聞くときも、今日みたいにしてください。あとでじゃなくて、先に」
結城が頷く。
「その順番で行きます」
5
午後七時三十四分。
最初に落ちたのは、照明ではなく温度表示だった。
保冷庫前の警報が短く鳴り、止まる。
止まってから、もう一度鳴る。
中岡が走ったときには、扉は半開きだった。
こじ開けられた跡はない。
開けた人間が、閉めきらなかっただけの隙間だった。
「温度、上がってます」
「何分」
「分かりません。記録飛んでます」
朽木が手袋のままケースを引き出す。
培養トレイの一つが、表面だけ不自然に曇っていた。
別の一つは無事だ。
全部ではない。
選んで触られたみたいな壊れ方だった。
「停電じゃない」
朽木が言う。
「切り替えだけ落ちてる」
「保安は」
「来ています」
警備が廊下を走る。
その背後を、塩見が母子区画のほうへ逆に走る。
研究の次に狙われる場所がどこか、考えるまでもない。
保冷庫の足元に、紙片が一枚落ちていた。
濡れた靴底で半分踏まれている。
拾い上げると、印字は短かった。
止めろ。子どもの人体改造許さんぞ。
署名はない。
だが朝の紙束と同じ文体だった。
「どれだけ失いました」
「全部じゃない」
朽木が言う。
「でも、HSDの一番新しい列が飛んだ」
新しい列。
午前中の HSD 足場評価系だった。
そのとき、母子区画側で別の短い悲鳴が上がる。
悲鳴と言っても長くはない。
誰かが窓に何かをぶつけられたときの、息の切れた音だった。
美沢は紙片を握ったまま廊下へ出た。
母子観察区画の窓ガラスには、割れ目は入っていなかった。
代わりに、黒い泥が斜めに広がっている。
乾ききらないまま、雨筋だけがその上を細く流れていた。
結芽は泣いていない。
芽衣の腕の中で、固くなっている。
「石じゃありませんでした」
警備が言う。
「土塊です。紙が巻かれてました」
その紙も、同じ文だった。
神に対する冒涜は止めろ。子どもを改造するな。
美沢は芽衣の前に立ち、まず先に言った。
「怪我はありませんか」
「ありません」
芽衣が答える。
「でも、次はありますか」
その問いには、すぐに答えられない。
結城がドアのところまで来て、外の警備配置を確認してから入る。
手には昼間の白い紙を持っている。
四つの見出しのある紙だ。
そのタイミングで、美沢の端末が震えた。
財団からだった。
『保全移送、今夜なら可能です。母体症例と関連系を優先します』
関連系。
誰のことも名前で言わない。
美沢は端末を伏せる。
返さない。
結城が椅子を引いた。
「先に話します」
芽衣は頷く。
まだ結芽を抱いたまま。
外では、正門前のマイクがまだ続いている。
中では、泥のついた窓をカーテンが隠している。
その真ん中で、結城は紙を開いた。
「これは治療ではありません」
最初の一行だけが、部屋の中に静かに落ちる。
芽衣は目を逸らさなかった。
結芽は母の服を握ったまま、言葉の意味までは分からない顔で黙っている。
結城は続ける。
「分かっていることから話します。そのあとで、分かっていないことを話します。急ぐ理由も、やめる基準も、先に話します。外の人が何て呼んでいても、ここではその順番でいきます」
そこへ、エレベータの到着音が鳴った。
結城の言葉は止まる。
止まったまま、全員が廊下の気配を見る。
白い搬送ベッドが一台。
紺のジャケットに臨時通行証。
三人。
顔は落ち着いている。落ち着いているが、ここの空気ではない。
「保護移送です」
先頭の男が言う。
「安西ライン――」
そこまでで、塩見が前へ出た。
「違います」
男は言い直さなかった。
言い直さないほうが、余計に遅い。
「安西さんの件です」
「氏名で言ってください」
塩見が言う。
「本人確認します」
男はポケットから紙を出す。
中央の書式に似ている。
だが余白の幅が違う。
結城はそれを一目見て、すぐに顔を上げた。
「これ、書式が違います」
「時間がありません」
先頭の男が言う。
「知っています」
美沢が答えた。
「だから、この方の名前を言ってください」
先頭の男は一瞬だけ黙る。
その一瞬で十分だった。
ここで本当に働いている人間なら、黙る場所が違う。
結芽がベッドの上で起きる。
起きたまま、母の服を握る。
「どこいくの」
芽衣は子どもを抱き寄せた。
その腕の動きだけで、部屋の中の順番が決まる。
「行きません」
芽衣が言う。
警備の無線が遅れて入った。
『その移送、照会中。待機を』
男たちは押してこなかった。
押してこないまま、目だけが計算している。
「再確認します」
先頭の男が言う。
「してください」
美沢が答える。
三人はベッドを押し戻し、エレベータへ消える。
走らない。
走らないことで、ただの手違いにも見せられる速度だった。
扉が閉まってから、結城が紙を握り直す。
「今の、母体症例だけじゃないです」
「何ですか」
「説明順序そのものを飛ばしてる」
そのとおりだった。
移送を奪いに来たのではない。
誰に何を先に言うか、その順番ごと持っていこうとした。
芽衣は結芽を抱いたまま、しばらく黙っていた。
それから、机の上の白い紙へ目を落とす。
「もう一つ、入れてください」
結城が顔を上げる。
「何を」
芽衣はすぐには言わなかった。
腹へ手を置き、次に眠っている結芽を見る。
その二つを見てから、ようやく口を開く。
「生まれてからも」
一度切る。
「この子を匿名や line で呼ばせないでください」
部屋の中が静かになる。
結城は、そのままの言葉でいったん紙の端へ置き、それから芽衣を見る。
「そのまま書いていいですか」
「はい」
「規則の文じゃなくて」
「そのほうがいいです」
結城は頷いて、四つの見出しの下ではなく、紙のいちばん下へ、そのまま書いた。
生まれてからも、この子を 匿名や番号、line で呼ばせないでください。
字は少しだけ大きくなった。
規則文ではない。
だから、紙の中でいちばん強かった。
美沢はその一行を見た。
外では冒涜と呼ばれている。
財団は保全と呼んでいる。
テレビはワクチンと呼び始めた。
そのどれより先に、ここには別の言葉がある。
名前。
説明。
断る権利。
そして、line にしないこと。尊厳を守ること。
芽衣は白い紙から目を離し、眠っている結芽の手を毛布の中へ戻した。
「それが守れないなら」
静かに言う。
「聞くだけで終わりにします」
結城は紙を閉じない。
乾ききらないインクのまま、机の上へ置く。
美沢はその一行を見たまま、ようやく分かった。
同意候補が立ったのではない。
先に、条件が立ったのだ。
そして白砂が守らなければならないのは、研究の速さではなく、その条件のほうだった。




