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第八章 患者一号 1・2・3・4・5

 第八章 患者一号



 1


 午前七時三分。


 小会議室のホワイトボードには、昨夜の字がまだ残っていた。


 HSD

 母体投与による胎児期導入案


 その下へ、朽木が新しい線を横に引く。

 別の道として。


 限定導入


「身体の中へ、そのままばらまく形では使えない」

 朽木が言う。

「それは昨夜の結論のままです」


「はい」

 中岡が答えた。


 朽木はさらに短く書く。


 造血前駆群

 体外導入

 選別

 再投与


「一度、外へ出します」

 美沢が言う。

「身体の中へまだらに入れるんじゃなくて、体の外で揃った群だけを戻す」


「全部は揃いません」

 朽木がすぐ続ける。

「全身も変えられない。できるのは、戻れる性質を持った細胞群を、内側から少しだけ増やすことです」


 塩見が訊く。


「それで、どこまで持ちますか」

「分かりません」

 美沢が答える。

「でも、今の GRF-7 だけよりは、戻る側へ寄せられる可能性がある」


 可能性。

 そこまでしか言えない。


 ホワイトボードの横には、昨夜見つかった紙が貼られている。


 response-positive pediatric case


 航の部屋番号。

 名前のない三行目。


「向こうも待ちません」

 中岡が低く言った。

「反応症例だと分かってる」


「はい」

 美沢が答える。

「だから、こちらも先に決めます」


 結城が白い紙を机へ置く。


「説明文、作ります」

「『これは治療ではありません』から始めるやつですね」

 塩見が言う。

「はい」


 美沢はホワイトボードの 限定導入 を見た。

 全身ではない。

 治癒でもない。

 それでも、いまいる子どもの身体へまだ届く、最後の細い道かもしれない。


「一例だけです」

 朽木が言う。

「同日内で回せるのは」


「誰を」

 塩見が訊いた。


 誰も、すぐには名前で言わなかった。

 言わなくても、もう全員分かっていた。


 response-positive pediatric case


 その三語の冷たさを、美沢は一度だけ見た。

 それから、口で言い直す。


「黒瀬航くんです」


 部屋の中の順番が、そこでやっと人の側へ戻った。


 2


 午前九時十二分。


 菜月は説明を最後まで遮らなかった。


 航はうとうとしている。

 眠りの浅いところで呼吸だけが動き、菜月はその横で、白い紙の文字を追っていた。


「これは治療ではありません」

 結城が言う。

「体の外へ一度細胞を出して、戻れる性質を持たせた群だけを選んで戻す、限定導入です」


「全部は変わらない」

 菜月が言う。

「はい」

「この子の身体全体を救う話じゃない」

「はい」


 菜月は紙から目を上げる。


「でも、少しは戻るかもしれない」

「可能性はあります」

 美沢が答える。

「壊れる前に待たせるだけじゃなくて、壊れたあとに戻る側へ、少し寄せられるかもしれない」


 菜月は航を見る。

 見る順番が先で、研究のほうはあとだった。


「副作用は」

「発熱、急な炎症、誤った再接続、骨髄不全、腫瘍化」

 朽木が言う。

「最悪の場合、その場で悪くなります」


 菜月は頷かなかった。

 ただ、白い紙の余白へ目を落とす。


「患者一号って書かないでください」


 誰も動かなかった。


 結城がゆっくり訊く。


「どこに」

「どこにも」

 菜月が言う。

「その言い方でこの子のことを決めないでください。航で話してください」


 美沢はすぐに答えた。


「はい」


 菜月はそれでもまだペンを持たない。


「証明のためなら断ります」

 小さな声だった。

「未来の子のための証拠にするなら、断ります」


「しません」

 美沢が言う。

「少なくとも、そのためには使いません」

「その『少なくとも』も、ここに書いてください」


 結城は余白へ、そのまま書いた。


 証明のためには使わない。


 規則文ではない。

 だから、紙の中でいちばん目立つ。


 菜月はようやくペンを持つ。

 署名欄の上には、研究名ではなく、手書きでこうある。


 対象者氏名 黒瀬航


 菜月はそこを一度指でなぞってから、自分の名前を書く。


「同意じゃないんですね」

「説明を受けた記録です」

 結城が言う。

「同意は、いまからです」


 菜月は短く息を吐いた。


「じゃあ、同意します」

 それから美沢を見る。

「航で話したから」


 その一行だけが、この朝の白砂でいちばん重かった。


 3


 午前十一時二十九分。


 採取は静かだった。


 騒がしくすると、特別なことをしている感じが強くなる。

 特別なのに、そう見せたくない日だった。


 航は鎮静の浅いところにいる。

 骨髄穿刺のために体位を少しずらすたび、眉だけがかすかに動く。

 菜月は頭側に立ち、見ないままで手だけを握っていた。


 中岡が検体ラベルを読む。


「黒瀬航」

 そこで一度切って、もう一枚。

「黒瀬航」

 さらにもう一枚。

「黒瀬航」


 印字は速い。

 だが、名前から始まっている。


 朽木が採取管を受け取る。

 骨髄、末梢血、予備群。

 量は多くない。

 多くないから、やり直しが利かない。


「外へ」

 朽木が言った。


 検体はすぐ検体室へ走る。

 美沢は一度だけ航の顔を見る。

 眠っている子どもの顔で、研究の顔ではない。


 ライブセル室では、すでに下準備が終わっていた。

 HSD 足場配列、選別用蛍光、照射負荷の低い再構成試験。

 身体の中でやればまだらになるものを、外で揃えるための、やけに細い工程だった。


「戻れた群だけ拾います」

 朽木が言う。

「戻れなかった群は」

「戻しません」


 培養皿の底で、航由来の細胞がまだ均一に沈んでいる。

 この時点では、ただの細胞だ。

 本人の名前を持っている以外、まだ何の希望も持っていない。


 数時間後、最初の選別像が立ち上がる。


 全部ではない。

 ごく一部。

 それでも、断裂負荷のあとで散らばらず、寄り直す群がある。


 中岡が声を落とす。


「出ました」

「どれくらい」

「少ないです」

「十分です」

 朽木が答える。

「少ないまま戻す」


 多いほどいいわけではない。

 多ければ、そのぶん揃わないものまで混じる。


 航の細胞が、航の身体へ戻る準備を始めていた。

 外で一度だけ、戻れる順番を覚えた群として。


 4


 午後四時十七分。


 再投与のあとは、しばらく何も起きなかった。


 何も起きない時間が長いほど、部屋の空気は重くなる。

 効いていないのか、まだなのか、その区別だけがどんどん難しくなるからだ。


 航は熱を出した。

 微熱ではなく、身体が何かを嫌がっていると分かる上がり方だった。

 朽木が数値を追い、中岡が炎症マーカーを開く。

 菜月は一歩も引かなかった。


「まだ判断しません」

 美沢が言う。


 さらに二時間。

 熱は上がり切って、ようやく少し下がる。

 そのあとで、別の数字が動いた。


「橋形成」

 中岡が画面へ身を寄せる。

「落ちてる」

「投与前比」

 朽木が言う。

「下がってるだけじゃない。再接続指標が上がってる」


 美沢は画像を拡大する。

 いつもなら裂けたまま残るところに、細い線が戻っている。

 戻ると言っても、きれいではない。

 破れたものを急いで縫い直したみたいな不格好さがある。


 それでも、ゼロではない。


 航が目を開ける。

 焦点はゆっくり来た。


「おかあさん」

 かすれた声で言う。


 菜月がすぐ身を寄せる。


「いるよ」


 航は少しだけ目を動かし、美沢のほうを見る。


「……はし」


 言い終える前に息が切れる。


「橋?」

 美沢が訊く。


 航はうっすら頷いた。


「こわれたの」

 そこでまた息を継いで、

「もどる?」


 誰もすぐには答えなかった。

 答えられるほど、まだ結果は揃っていない。


 美沢はベッド柵へ手を置く。


「少しだけ、戻り始めています」


 航はその言葉を理解したのかしないのか、目を閉じた。

 閉じる前に、口元だけがわずかに動く。

 泣くのでも笑うのでもない、力を抜くほうの動きだった。


 菜月はその顔を見てから、ようやく息を吐いた。


 効いている。

 でも足りない。


 その二つが、同じ部屋の中に一緒にあった。


 その夜、院内の短い連絡が増えた。

 警備照会、配線確認、入退室ログ、研究室鍵管理。

 誰も「成功」とは言わない。

 けれど、誰かが「何か出た」ことだけはもう知っている動きだった。


 搬入口の庇の下には、財団のケースがまだ並んでいる。

 その数は昨日と変わらないのに、置かれ方だけが前へ詰められていた。


 端末が震える。


 『保全移送、優先度を上げます。

 反応症例の安定化を確認しました』


 美沢は文を二度読まなかった。

 反応症例。

 やはり名前では来ない。


「見られてますね」

 中岡が言う。


「数値までじゃない」

 朽木が答える。

「でも反応したことは、どこかで拾われてる」


 塩見が母子区画のカメラ角度を確かめる。


「今夜、病棟動線を減らします」

「減らしすぎないでください」

 美沢が言う。

「閉じると、余計にそこだけ狙われます」


 航の部屋では、熱が少し下がっている。

 菜月は椅子に座ったまま、ベッド脇のモニタよりも航の顔を見ていた。


「今夜だけでも」

 朽木が言う。

「持てば」

「何が」

 塩見が訊く。

「明日の画像です」


 その答え方は正しかった。

 正しくて、冷たかった。


 5


 午後十一時四分。


 火災報知は鳴らなかった。


 その代わり、酸素供給異常の警告が三階西棟だけに出た。

 全館ではない。

 部分的だから、本物に見える。


 廊下の赤いランプが短く点き、消える。

 警備が走り、工務が無線で応答する。

 その間に、白い搬送ベッドが一台、静かにエレベータから出てくる。


 塩見は母子区画側にいた。

 だから最初の数秒は、誰も航の部屋の前を見ていなかった。


 菜月が気づいたのは、ベッドではなく、来た人間の靴だった。

 病棟の床に慣れていない、少し硬い足音。


「どちらですか」

 菜月が立ち上がる。


 先頭の男は臨時通行証を胸に下げていた。

 色は合っている。

 印字の位置も近い。

 でも、名前の書体だけが違う。


「酸素系統切り替えのため、一時移送です」

 男が言う。

「黒瀬――」


 そこで一拍遅れた。

 本当に知っている人間なら、遅れない場所で。


 菜月の顔色が変わる。


「誰ですか」


 その問いに答える代わりに、男の後ろの一人がベッド柵へ手をかけた。


 菜月がその腕を払う。

 力任せではない。

 でも、迷いがない。


「触らないで」


 その声で、廊下の向こうにいた美沢が振り向いた。


 同時に、別方向で工務の無線が叫ぶ。


『三階西、誤報の可能性――』


 遅れた。

 その報が届くのが、数秒だけ。


 数秒で、十分だった。


 航の部屋の前には、ベッドが斜めに残っていた。


 シーツは乱れている。

 点滴ラインは途中で外され、床に透明が細くこぼれている。

 白い手首帯が一つ、切られて落ちていた。


 黒瀬航


 印字されたまま、床にある。


 菜月は扉の内側で息を切らしている。

 転んだのか、手のひらに赤い擦過傷がある。

 それでも泣いていない。

 泣くより先に、言わなければならないことがある顔だった。


「サービス側」

 菜月が言う。

「下じゃない。上じゃなくて、横のほうへ」


 美沢は切られた帯を拾い上げる。

 軽い。

 軽すぎる。


 中岡が監視画面を開こうとして、開ききれない。


「西の一部、落ちてます」

「どこまで」

「サービスエレベータ前だけ」


 狙っている。

 最初から。


 塩見が無線へ叫ぶ。


「北側通路、閉めてください。外部搬出――」


 その声の途中で、美沢はもう走っていた。


 サービス通路は夜になると、人の気配が薄い。

 薄いぶんだけ、車輪の跡が残る。

 掃除したばかりの床に、水滴みたいな線が二本、細く伸びている。


 追えば間に合うと思った。

 思って、角を一つ曲がる。


 非常扉の向こうで、搬送ベッドの車輪音が一度だけ鳴った。

 近い。

 近いのに、扉はもう閉まりかけている。


 美沢が押し返したとき、向こうの通路は空だった。

 奥のリフトだけが下降表示になっている。


 おそかった。


 その一語だけが、夜の白い壁に残った。


 北側搬出口のシャッターは、完全には開いていなかった。

 人が一人かがんで通れるくらいの高さ。

 その向こうへ、雨の匂いだけが入ってくる。


 床には、切れた点滴ラインの先と、子ども用の薄い毛布の端が落ちていた。

 航のものだった。


 警備が駆けつけたときには、外にはもう何もない。

 ライトを回しても、濡れたコンクリートが白く返すだけだ。


「車両は」

 美沢が訊く。

「記録、飛んでます」

 警備が答える。

「外周カメラの数分だけ」


 菜月が遅れて来る。

 手のひらの傷に、まだ何も貼っていない。

 息だけを整えきれないまま、落ちていた毛布の端を拾う。


「これ」

 小さく言う。

「航の」


 その言い方で、美沢は顔を上げられなくなる。

 反応症例でもない。

 患者一号でもない。

 航の。


 塩見が周囲を見回し、低く言う。


「反対してる側のやり方じゃないですね」

「はい」

 美沢が答える。

「持っていく側です」


 庇の下には、財団のケースがまだ並んでいる。

 受領印のないまま。

 今夜だけで、それがひどく白く見えた。


 雨が少し強くなる。

 北側搬出口の床で、切れた手首帯のインクだけが濡れずに残っている。


 黒瀬航


 名前はまだ、ここにある。

 身体だけが、もうない。

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