第三章 着く前の名前 5・6・7・8・9
5
午前四時十六分。
港の灯りは、天気が崩れる前ほど妙に明るい。
闇のほうが濃くなるぶん、白い手すりと濡れた鉄板だけが浮く。
海保の小型艇が先に入り、その後ろから灰色の搬送艇がついた。
船腹には、消したつもりで消しきれていない財団のロゴが薄く残っている。
ストレッチャーが降りてくる。
防寒シートの下に、細い体。腹だけがはっきりと丸い。
海保の隊員が短く言った。
「意識清明と傾眠のあいだです。呼吸促迫。出血は今のところなし。付き添いなし」
その横から、防水コートの男が出てくる。
財団の臨時通行証を首から下げている。
「受け入れありがとうございます。事前識別はこの仮符号で――」
差し出されたラベル帯を、美沢は受け取らなかった。
MATERNAL LINE-02(母体ライン02)
「使いません」
美沢は言った。
男は一拍遅れて、困惑とも営業用の笑みともつかない顔を作る。
「識別がないと混乱します」
「人を符号で受けません」
「本人確認はまだ――」
「だから本人に聞きます」
美沢はストレッチャーの横へしゃがんだ。
海風にシートの端が細かく鳴る。
「聞こえますか。名前を教えてください」
まぶたがかすかに上がる。
焦点を結びきらないまま、女は言った。
「……リディア」
「名字は」
「セラーノ……」
リディア・セラーノ。
美沢は、その名を自分の紙へ先に書いた。
それからようやく塩見へ言う。
「仮符号は使わない。リディア・セラーノで通します」
塩見は白い手首帯へ油性ペンを走らせる。
白い帯の上で、名前だけが先に人の形になる。
リディアは、その手元を見ていた。
まだ顔色は悪いが、目だけははっきりしている。
「No line(ラインでは呼ばないで)」
掠れた声だった。
「Please. No line(お願いです。ラインでは呼ばないで)」
「使いません」
美沢は答えた。
「ここでは、あなたを名前で呼びます」
リディアは、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
6
午前四時三十一分。
母子観察区画へ入れる前に、臨時の説明室で最低限の確認をした。
リディアは目を閉じたり開けたりしながらも、耳だけははっきりこちらを追っている。
結城が防水ケースの中身を乾いたタオルへ広げる。
旅券。搬送票。湿った診療サマリー。もう一枚、薄い身分証。
Vesdios National Weather Service / Liaison Interpreter(ヴェスディオス国家気象局/連絡通訳)
「気象局の連絡通訳ですね」
結城が言う。
リディアは小さくうなずいた。
「Storm office…… translation. Warnings. Islands, ports……(暴風対策室で……通訳。警報。島々、港……)」
ヴェスディオス。
芽衣の十五週と、母子観察区画と、財団の優先ノードの向こうに、ようやく具体的な土地の輪郭が出る。
美沢は椅子を少し近づけた。
「リディア。ひとつ聞きます。向こうで、あなたはどう呼ばれていましたか」
瞼がわずかに震える。
聞きたくない問いだと分かる反応だった。
「At the clinic……(診療所では……)」
喉が引っかかる。塩見がストローでほんの少し水を含ませる。
リディアは続けた。
「They said…… maternal line two(そう言われた……母体ライン2って)」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「二」
朽木が低く反復する。
リディアは自分の手首帯を見る。
そこへ書かれた自分の名前を、指先でなぞる。
「Name first(名前が先)」
彼女は言った。
「If name first…… not lost(名前が先なら……失われない)」
美沢は短く頷いた。
「ここでは、そうします」
7
午前四時五十八分。
その言葉のあと、塩見はラベル束を印字トレイへ戻さなかった。
美沢の前へ持ってくる。
「刷りません」
美沢は言った。
「手書きにします」
最初に書いたのは、安西芽衣。
次に、安西結芽。
そして、リディア・セラーノ。
印字より遅い。
だが、遅いぶんだけ、誰の名前か分かる速度だった。
塩見はその乾ききらない帯を、リディアの手首へ巻く。
リディアは文字を見て、目を閉じる。
「White island doctor……(白い島のお医者さん……)」
かすれた声で言う。
「Marta said…… maybe there(マルタが言ってた……たぶん、そこに)」
「マルタ?」
美沢が顔を上げる。
リディアはそれ以上、すぐには言わなかった。
代わりに、自分の手首帯だけを見つめる。
8
午前五時十二分。
中岡が画面を三面に分けた。
ひとつは仮収納ログ。ひとつは旧検疫系の送信履歴。ひとつは外部演算側の残骸だ。
「あります」
中岡が言う。
「MATERNAL LINE-01(母体ライン01)。白砂の正式受け入れには乗ってません。外部演算側の仮収納だけ残ってる」
最下段の状態欄は空白に見えた。
カーソルを置くと、薄い灰色の文字が浮く。
TRANSFER NOT COMPLETED(転送未完了)
「白砂に着いていない」
結城が言う。
「少なくとも正式受け入れでは」
中岡が言った。
「でも音声だけ残ってます。同期失敗で、生データが落ちてる」
美沢は画面の横へ立った。
「再生してください」
最初に聞こえたのは風だった。
遠い金属音。一定ではない警告音。
そのあとに、女の荒い息。整えようとして整わない息だった。
『……wait…… please……(……待って……お願い……)』
英語が途中で崩れる。
『説明は……あとって……言われて……』
『まだ……夫にも……』
『名前……』
そこで音が大きく割れ、別の男の声が重なった。
『保護者通知は転送後』
『母体評価を先に』
次に入った女の声は、短かった。
『ラインじゃない……』
『マルタです』
再生が切れた。
誰も、すぐには次の画面を見なかった。
結城のペン先が紙へ触れたまま止まっている。
塩見は壁へ手をつき、何も言わない。
ラインじゃない。
マルタです。
その二つだけが、白い部屋のどこにも収まらないまま残った。
9
午前五時二十九分。
保安回線の赤いランプが点いた。
美沢が取る。
「白砂対策本部、美沢です」
「槙原です」
声は低いままだった。
「先生。中央は一例目で、二つの失敗を見ています」
美沢は黙って待った。
「ひとつは、判断を遅らせたこと。もうひとつは、説明の順番を現場ごとにばらばらにしたことです」
紙をめくる音が一度。
「同じ失敗を繰り返さないために、順番を作りました」
「説明を後ろへ置く順番を?」
「保全の前です」
言い換えだった。
言い換えで順番の暴力を薄めるやり方を、この男は知っている。
「マルタ・ドゥケ」
美沢は相手の言葉へ被せた。
「その名を、把握していますか」
ごく短く、受話器の向こうの空気が止まる。
「把握していることと、ここで確認することは別です」
「白砂へ来る前に、誰かが勝手に順番を作り、説明前の帳票を準備し、母子観察区画を起こそうとしていた。これでもまだ"整列"ですか」
槙原の声は、さらに少し薄くなった。
「全体を止めないための順番と、個別を守るための順番は、ときどきぶつかります」
「いま、ぶつかっているのはそこじゃない」
美沢は言った。
「説明していない未来を、先に書いていたことです」
槙原は否定しなかった。
通話が切れたあと、塩見が小さく言う。
「全部知ってる声ですね」
「全部は言わない声です」
美沢は答え、紙へ書いた。
5:31 槙原/一例目の失敗/順番を作った




