第三章 着く前の名前 1・2・3・4
第三章 着く前の名前
1
午後十時四十六分。
非常灯の明滅は、もう止んでいた。
白い壁だけが、何事もなかったみたいに光を返している。
美沢は、バインダーを閉じた。紙の端が擦れ、乾いた音が記録庫の空気へ沈む。
「中岡」
呼ぶと、中岡はすぐ顔を上げた。
「全ページ画像化。原本は封緘。閲覧ログはここから起こして、島内と島外へ二系統。自動共有は切って」
「了解です」
「結城さん。今見た内容は、運用文書じゃなく発見として記録してください。誰かの順番になる前に、先に残す」
結城が短くうなずき、ノートを開く。
塩見は棚の前に立ったまま、まだ最初のページを思い出すみたいに天井近くを見ていた。
「母体所見、胎児所見、保護者通知、共有範囲」
独り言みたいに言う。
「決める順番と、知らせる順番が、最初から別なんですね」
「別にした人間がいる」
美沢は言った。
「そこまでは分かりました」
入口のほうで、菜月がメモ帳を握り直す気配がした。
中へは入らないまま、敷居の外で立っている。
「先生」
声は低かった。
「これ、芽衣さんだけのために作ったんじゃないですよね」
「そう見えます」
菜月はすぐに次を言わなかった。
悪い想像から先に口へ出してしまわないよう、自分の中で順番を組み直している顔だった。
「……先に、そういう人が来るって思ってた」
美沢は答えなかった。
答えの形が、そのまま次の行動になると分かっていたからだ。
胸ポケットの紙を出し、余白へ書く。
22:46 母体経由例バインダー確認/日付九日前/通知三番目
そのとき、私用端末が一度だけ震えた。
元夫からだった。
――凛、寝た。
――既読だけでも、つけば安心する。
美沢は開かずに画面を落とした。
2
午後十一時十三分。
検査室の窓は細く、海ではなく防波壁しか見えない。
それでも、波が当たるたびにガラスがごくわずかに鳴った。
朽木がモニタへ身を寄せる。
塩見は芽衣と結芽の記録を並べ、結城は新しく刷られた観察表を見ていた。
「芽衣さんの橋形成は、結芽ちゃんより薄い」
朽木が言う。
「出てること自体がおかしい」
「妊娠例に、GRF-7はまだ使いません」
美沢は即答した。
朽木が顔を上げる。
「言うと思いました」
「言わない」
美沢は言った。
「妊娠例のデータがない。ここで横滑りさせるのは順番が違う」
塩見が別紙を持ってくる。
結芽と芽衣の名が並んだ夜間観察表だ。
美沢は最下段に赤線を引いた。
使用語は家族説明と一致させること。
「表の上では母体でも胎児でもいい」
そう言って紙を返す。
「でも、本人の前で人が先に消える運用はしない」
塩見はその赤線の位置を一度見た。
「分かりました」
廊下の向こうで、家族待機室のラミネートが風に浮いた音がした。
菜月がそれを押さえ、首をかしげている。
「先生」
振り向くと、壁の案内を指していた。
「変わってます」
昨日まで保護者説明だった場所が、今夜は同伴者通知に差し替わっていた。
芽衣がその文字を見る。
胸に手を置いたまま、小さく言った。
「同伴者って……私のことですか」
美沢はラミネートを剥がした。
裏に、差し替え時刻の印字がある。二十三時一分。
「差し替え前の版、全部回収してください」
近くの事務へ言う。
「この文言は使いません」
「でも中央の用語集では――」
「ここは白砂です」
事務は黙った。
静けさのなかで、芽衣が母子手帳の表紙を撫でる。
「名前、消えますね」
声は細かった。
「母親とか、同伴者とか、線とか。そういうのになると、急に自分の話じゃなくなる」
菜月はすぐには口を挟まない。
代わりにメモ帳を開き、書く。
保護者 → 同伴者
横へ、小さな点を二つだけ打った。
「自分の話じゃなくなると、悪いほうから埋まるんです」
菜月が言う。
「だから、名前、消さないでほしいです」
芽衣は返事をしなかった。
その代わり、握っていた結芽の靴下を、今度は折らずに掌へ包んだ。
3
午後十一時四十七分。
中岡が、灰色の管理画面を一枚起こした。
背景は古い検疫施設の名残みたいに無愛想で、装飾がない。文字だけが剥き出しに見える。
「まだあります」
中岡が言う。
表示されていたのは、削除済みのはずの受け入れキューだった。
ANZAI MEI / 15W
右端に、時刻。
07:12
「港の到着予定?」
朽木が言う。
「違います」
中岡は答えた。
「区画側の事前受け入れ時刻です」
塩見が先に理解した顔になった。
「……今日、美沢先生たちが芽衣さんの週数を知ったのって、桟橋ですよね」
「そうです」
中岡が言う。
「白砂が正規経路で十五週を知るタイミングはありません。少なくとも、この時刻には」
誰もすぐには喋らなかった。
「誰かが、本人より先に知ってた」
結城が低く言う。
「しかも区画へ入れる順番まで決めていた」
塩見が続けた。
美沢は画面を見たまま、マニフェストの右上へ書き足した。
自動同期停止
家族説明は現場で再実施
説明前のラベル出力禁止
その下に時刻を書く。
23:49
「中岡さん」
「はい」
「この行、凍結。誰の病室も、誰のラベルも、自動では起こさないで」
「できます。ただ、向こうが別経路からもう一回呼ぶと競合します」
「競合したら、そのログも残る」
中岡は短くうなずいた。
4
午前零時七分。
非表示の外線は、鳴る前から嫌な気配がある。
一度目で切れ、数秒置いて、もう一度鳴る。言い方を決め直している電話だった。
美沢が取る。
「白砂対策本部、美沢です」
「槙原です」
眠っていない人間の声だった。
だが、疲れを声に混ぜない人間の声でもあった。
「先生、母子観察区画を起こしてください」
「理由を聞いても?」
「港が止まります」
槙原は言った。
「南の低気圧が想定より速い。明朝以降、島外搬送は不安定になる。母体所見が出た以上、区画を分けて観察精度を上げる必要があります」
理屈は崩れていなかった。
崩れていない理屈で、人を切るから厄介なのだと、美沢は第一日目の夜に思った。
その感触がまだ残っている。
「分かっています」
美沢は言った。
「でも、説明が後ろに置かれた区画は起こせません」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「先生。いま守っているのは、順番ですか。それとも個別感情ですか」
美沢は机の端の紙を見た。
三十一分。
そこにあるだけで、答えを急がせる数字だった。
「個別を飛ばした順番は、順番じゃありません」
短い沈黙。
槙原は怒らなかった。
ただ、さらに温度を落として言った。
「では、先生名義で遅延記録を残してください。全体停止の責任範囲が曖昧になるほうが、私は困る」
「残します」
「お願いします」
通話が切れる。
塩見が壁にもたれたまま訊いた。
「なんて?」
「母子観察区画を起こせ、と」
美沢は答えた。
「起こさない」
胸ポケットの紙へ書き足す。
0:07 槙原/母子観察区画起動要求/拒否
インクが乾く前に、窓の外で風がひとつ強く鳴った。




