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第二章 遅れて返る声 7・8・9

   7


 白い廊下は、朝より夜のほうが音を遅く返す。

 靴音が壁に当たり、半拍遅れて背中へ戻ってくる。

 母子観察区画へ向かうあいだ、その遅れが妙に気になった。

 閉鎖札はまだ掛かったままだった。

 古いプレートの縁だけが、潮気でくすんでいる。

 新しい非常灯の緑だけが、白い壁へ冷たく反射していた。

 塩見が先に入っていた。

 結芽は処置ベッドで眠っている。

 熱で頬が赤い。

 母親の芽衣は、その横の硬い椅子に座らされ、両手で腹を覆っていた。

 十五週の膨らみはまだ小さいが、隠しきれる段階ではもうない。

「ご主人、つながります」

 塩見が言う。

 小型端末の向こうで風の音がした。

 男の声が少し遅れて届く。

『芽衣? 結芽? 聞こえる?』

「聞こえます」

 芽衣はすぐに答えたが、その声は少し掠れていた。

「ごめん、先に着いちゃって」

『先生、すみません。こっち、まだ動けなくて。説明、僕も――』

「説明は、今からします」

 美沢は遮った。

「順番は同じです。分かっていること、分かっていないこと、そのあとで急ぐ理由をお話しします。ご主人にも同じ順で聞いてもらいます」

 端末の向こうで、一瞬だけ沈黙が生まれた。

 あの三十一分とは違う沈黙だった。待つか進めるかが、もう決まっている沈黙だ。

「分かっていることから言います」

 美沢は芽衣を見た。

「お子さんの血液には、昨日までに見つかっている症例と似た染色体の橋形成が出ています。さきほど採ったお母さんの血液にも、同じ方向の変化が、ごく軽く出ました」

 芽衣の目が、ゆっくり見開く。

「私にも……?」

「はい。ただし、同じ強さではありません。ここからが分かっていないことです。お母さんに出た変化が一時的なものか、進行するのか。お腹のお子さんに影響が及んでいるかどうかも、まだ分かりません」

『胎児は』

 端末の向こうで父親が言った。

『心拍は』

 塩見がすぐに答える。

「今、あります。規則性も保ってる」

 芽衣の肩が、ほんの少しだけ下がる。

 だが美沢は、そこで言葉を止めなかった。

「心拍があることと、安全だと言い切れることは別です。だから急ぎます。今からお母さんと胎児の両方を、こちらで連続観察に切り替えます。説明のあとで、同意をお願いします」

 芽衣は唇の内側を噛んだ。

 その癖は菜月に似ていたが、似ていることが救いになるわけではない。腹へ置いた手が、無意識にもう一度だけ強く押さえ込まれる。

「……私、娘と離れますか」

「離しません」

 美沢は即答した。

「結芽ちゃんの観察導線と、お母さんの観察導線を、できる限り同じ区画に寄せます」

 塩見が横から補う。

「少なくとも今夜は、結芽ちゃんを別棟には移しません」

 芽衣は頷きかけ、途中で止まった。

「この子、起きて隣が空だと、すぐ探すんです」

 腹へ置いたままだった片手が、そこでようやく娘のほうへ伸びる。

 眠っている結芽の足先に、指先だけ触れた。

『芽衣、先生の言う順番で聞いて』

 端末の向こうで夫が言った。

『そこで一人で決めなくていい。抜けたところは、あとで俺が聞くから』

 その一言に、芽衣はようやく息を吐いた。

「……お願いします」

 美沢は頷き、塩見へ目で合図を送った。

 その瞬間、区画の奥で待機していたモニタが、誰も触っていないのに一斉に起動した。


   8


 黒い画面が順に青白く立ち上がる。

 胎児心拍モニタ、外部映像リンク、音声記録、採血ログ同期。閉鎖中だったはずの母子観察区画が、まるで最初から使用予定だったみたいに目を覚ました。

 塩見が舌打ちをこらえる顔になる。

「誰、起こしたんですか」

「まだ誰も通していない」

 美沢は言った。

「中岡」

 返事は内線ではなく、壁のスピーカから来た。

『要求元、今追ってます。中央の定型経路じゃない』

 塩見はすぐ、入口に近いモニタの電源を物理で落とした。

 一台消しても、別の二台が起動したまま残る。

 芽衣の顔色が変わる。

「これ、見られてるんですか」

「塩見さん、病室内の映像と音声、全部切って。胎児心拍はローカルだけ残す」

「了解」

 塩見はケーブルを抜き、カメラのレンズへ使い捨てガーゼを貼った。

 雑ではない。あとで誰がどこまで切ったか分かる切り方だった。

 廊下側のプリンタが、急に動いた。

 誰も印刷指示を出していないのに、白い帯が吐き出される。

 ぴ、と乾いた音。

 手首用のラベルだった。

 上段に患者名、その下に小さな区分コード。

 ANZAI MEI

 MATERNAL LINE

 塩見が眉を寄せる。

「こんなの、今うちの運用に入ってません」

 そのとき、ドアの外にいた菜月が遠慮がちな声で言った。

「先生、それ……昨日の航のと違います」

 誰もすぐには返さなかった。

 菜月は自分でも入っていい場面か迷ったらしいが、言葉を引っ込めなかった。

「昨日のは院内コードだけでした。今の、最初から区分が入ってる。説明されてない番号が先に出るの、嫌です」

 芽衣がそのラベルを見る。

 自分の名前の下にある知らない英字を、まばたきもせずに見つめた。

 そこで初めて、腹へ置いていた手が少し上がる。

 自分と胎児が、同じ線で括られたと理解した手つきだった。

 MATERNAL LINE

 美沢はラベルを取り上げた。

「結城さん」

 後ろから追いついてきた結城が、紙を受け取る。

「これを今、誰に説明した文言として扱えますか」

「誰にも」

 結城は即答した。

「少なくとも私は見てません」

「なら止める」

 美沢はラベルプリンタの電源を落とした。

 紙の口から半分出たままの白帯が、ぴらりと揺れる。

『要求元、分かりました』

 中岡の声が入る。

『中央じゃない。外部演算優先域。ヴァン・デル・レイ財団が白砂へ提供予定だった解析ノードを経由してます』

 室内の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 朽木が入ってきた気配はしたが、誰もすぐにそちらを見なかった。

「財団が、なんで母子観察区画へ」

 遅れて、朽木が低く言う。

「それを今から聞きに行く」

 美沢は言った。

「でも先に順番です」

 芽衣へ向き直る。

「今わかったことを、先に言います。今この区画は、説明していない外部設定で起動されようとしました。ですから、あなたとお子さんのデータ共有は、いま止めています。説明なく外へ出すことはしません」

 芽衣はラベルではなく、美沢の顔を見た。

「……それ、最初から私みたいなのが来るって、分かってたってことですか」

 問いの中心はそこだった。

 美沢はすぐには答えなかった。

「そう疑うに足る準備があった、というところまでです」

 そう言ってから続ける。

「だから、ここから先は一つずつ確かめます。飛ばしません」

 菜月がその言葉を聞いて、メモ帳へ何かを書いた。

 書いたあと、キャップを閉める指先が少し震えた。


  9


 母子観察区画の記録庫は、旧検疫棟時代のまま金属棚が残っていた。

 潮気で少し膨らんだ紙箱の匂いがする。壁の白だけが新しく、その内側の空気は古かった。

「外部リンクは全部切りました」

 中岡が言う。

「でも、区画起動の雛形自体は中にある。起こされたっていうより、前から置かれてたものを誰かが呼んだ感じです」

 塩見が棚の上段を見上げる。

「"前から"って、いつからですか」

「少なくとも症例発生前」

 美沢は最奥の棚へ手を伸ばした。

 まだ誰も触っていないみたいに、薄い埃が紙箱の角だけに残っている。そこへ指を入れると、白いバインダーが一冊抜けた。

 表紙には、簡潔な印字だけがあった。

 白砂プロトコル

 母体経由例

 誰も喋らなかった。

 結城が紙を受け取る前に、塩見がごく小さく「症例前で、これですか」と漏らした。

 結城が横から覗き込み、最初のページを開く。

 箇条書きの見出しは四つ。美沢が家族説明で使う順番と、似ているようで決定的に違っていた。


 母体所見

 胎児所見

 保護者通知

 共有範囲


「通知が三番目だ」

 塩見が言った。

「もう、決めてから知らせる順番になってる」

「説明じゃなくて通知ですね」

 結城の声は低かった。

「しかも、『保護者』より前に『母体』が独立してる」

 美沢はページ右上の日付を見た。

 最初の三症例が世界地図に灯るより、九日前。

 さらにめくる。

 空欄のままの観察表、胎児心拍記録用のフォーマット、同意欄のない仮設計、外部演算ノードの送信チェック項目。

 まだ運用されていないのに、運用だけを待っていた紙だった。

 最後のポケットに、細い付箋が一枚挟まっている。

 手書きではなく、印字。


 優先順位:母体保護 > 胎児評価 > 保護者説明


 美沢はその紙を見たまま、動かなかった。

 胸ポケットの四つ折りの角が、白衣越しに肋へ触れている。

 三十一分。

 順番。

 凛の「見てた?」。

 ばらばらだったものが、同じ一枚の紙の上へ重なって見えた。

「先生」

 菜月の声が、入口からした。

 誰も彼女がそこまで来ているのに気づかなかった。

 菜月は中へ入らず、敷居のところで止まっていた。

 手には、さっきのメモ帳。

「その紙、最初からあったんですよね」

「ええ」

「じゃあ……」

 菜月は一度、唇を閉じた。

 それから少しだけ目を伏せたまま訊く。

「最初から、説明は後ろだったんですか」

 美沢はすぐには答えられなかった。

 答えの形が、そのまま次の行動になると分かっていたからだ。

 棚の上の非常灯が、一度だけ点滅する。

 白い壁へ遅れて返った光の中で、バインダーの日付だけが妙にくっきり見えた。

 九日前だった。

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