表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/23

第二章 遅れて返る声 1・2・3・4・5・6

 第二章 遅れて返る声

 

  1


 午前五時五十八分。


 白い廊下は、朝一番に一番遠くまで音を返す。

 壁に当たった足音が半拍遅れて背中へ戻ってくる。

 その遅れが、船を降りたあとも膝の奥に残っていた揺れと、なぜか同じ長さに思えた。


 当直室の机には、昨夜のままの家族説明の手順書が開いている。

 私用端末の画面は落ちていたが、指で触れると、最後に止めた位置から凛の顔が一瞬だけ浮いた。

 レンズの近くまで寄ってきた頬。

 息を切らした口。

 そこで美沢は指を離した。

 未送信のメッセージ欄に、短い文が残っている。


 ――見てたよ


 送らないまま、画面を閉じる。


 廊下の向こうから塩見が来た。スクラブの袖を一度だけ肘まで上げ、また下ろす。眠っていない顔だった。

「黒瀬くん、橋指数は下がってます」

 それだけで終わらない声音だった

 美沢は頷く。

「代わりに?」

「網状赤血球が落ちてます。白血球の戻りも鈍い。効いたというより、分裂そのものを浅く止めてる感じです」

 潮の匂いが遅れて入り、消毒液に重なった。

「家族には?」

「まだ。夜勤は『少し改善』のところで止めてます」

 美沢は机の手順書へ目を落とした。昨夜自分で書き足した一行の下へ、もう一行を加える。

 改善を伝えるときは、同時に新しい不確実性を伝えること。

 ペン先が紙を掻く音だけが、小さく部屋へ残った。

「先に下がった数字だけ言わないでください」

 美沢は言った。

「昨日と同じ順番で。分かったこと、そのあとで、まだ分かっていないこと」

 塩見は一度だけ、その手順書を見た。

「了解です」

 美沢は端末をポケットへしまい、手順書を閉じた。


    2


 検査室の窓は細く、海ではなく防波壁しか見えない。

 それでも、波が当たるたびにガラスがごくわずかに鳴った。

 朽木は徹夜のままの顔で、モニタへ身を寄せていた。

 隣で結城が紙束をめくり、塩見は航の夜間記録に付箋を足している。

「橋はほどけてます」

 朽木が言った。

「でも、細胞周期全体が落ちてる。壊れる速度も遅くなる代わりに、増える速度も鈍る。一般化して『効く』とはまだ言えません」

「条件は」

「局所時刻の深夜帯。分裂率が高い時間。たぶん、それが外れると噛まない」

 結城が一枚差し出した。

 中央からの夜間連絡票だった。

 簡素な表題が、かえって雑だった。

 二例目以降 同様説明にて運用準備。

「『同様』って、便利ですね」

 塩見が言う。

「何を同じにするのか書かなくて済む」

 結城が紙から目を上げずに言った。

「便利です。読む側には何も残らない」

「二例目が来るんですか」

 美沢が問う。

 朽木ではなく、結城が答えた。

「午前中に一件。鹿児島経由。四歳女児。母親付き添い。父親は天候で移動不能。中央はオンラインでの事前説明を、済ませた扱いにしたいみたいです」

 塩見が眉を寄せる。

「済ませた"扱い"」

「文書にはそう読めます」

 美沢は連絡票を受け取った。

 署名時刻だけが強調されている。

 説明時刻は、ない。

「順番が逆です」

 美沢は言った。

「署名が先に立ってる」

「止めますか」

 結城が訊く。

 美沢は少しだけ黙った。

 ここで流れを止めれば、新患は島へ着いても旧検疫棟で待つことになる。

 止めなければ、説明前の同意が先に走る。

 三十一分。

 説明時刻の空欄より先に、その数字だけが浮いた。

「止めません」

 美沢は言った。

「でも、その順番では受けない。説明は現場でやり直します。署名は最後です」

 そう言いながら、連絡票を机へ水平に置く。

 紙の角を指で揃え、下欄へ自分で書き足した。

 事前署名は無効。

 説明後に再確認。

 その下に時刻を書く。


 6:21


 塩見がすぐ動いた。

「ベッドは?」

「観察区画Bを開けて。家族導線は分ける。航の説明とは混ぜない」

「中央は嫌がりますよ」

「嫌がっても、そうする」


    3


 搬送船は正午前に入った。

 晴れているのに風が強く、タラップが金属音を細かく鳴らしていた。

 四歳の女児は、抱き上げられたまま眠っていた。

 睫毛が汗で額に貼りついている。

 母親は痩せていて、腹だけがわずかに前へ出ていた。

 まだ隠せるくらいの膨らみだったが、美沢の目にはすぐ分かった。

「安西結芽です」

 母親が言った。

 言いながら、眠った娘の前髪を耳にかけ、落ちかけていた靴の踵を押し込む。

 空いた手が一度だけ腹の前で止まり、すぐ娘の背へ戻った。

「夫は宮崎で足止めされてて……船も飛行機も、たぶん今日中は無理で。さっき電話で、そっち着いたら一回待ってって」

 言い終える前に、自分でも頼んでいることの重さが分かったらしい。

 視線が揺れる。

「説明、夫もつないでからで……」


 三十一分。


 あの父親の声が、まったく別の顔でよみがえった。

 美沢は一拍だけ息を吸ってから、言った。

「同意は待てます」

 母親が顔を上げる。

「でも、説明は待てません。先に、分かっていることから話します。ご主人には、そのあと同じ順番でつなぎます」

 安西はすぐには頷かなかった。

 腹の前で手を組み、親指だけで自分の爪を押している。

「……それ、夫に失礼じゃないですか」

「失礼かもしれません」

 美沢は答えた。

「でも、今ここで遅らせて失うもののほうが大きい。だから、先に説明します」

 結芽の肩が小さく痙攣した。

 塩見がすぐ横へ入り、母親の返事を待たずに子どもの体温計を耳へ入れる。

「三十九・一。先に中へ」

 中央から来ていた事務補佐が、端末を見ながら口を挟んだ。

「安西家、オンライン承諾済みの扱いですので、先に観察区画Aへ――」

「Aは使いません」

 美沢が言った。

「Bへ。説明前ログの自動同期も切ってください」

「でも、システム上は――」

「切ってください」

 一度だけ風が強く吹き、港の塩が白い手すりへ粉のように付いた。

 事務補佐は何か言いかけて、やめた。

 結芽は先に運ばれた。

 安西はついていこうとして一歩目でふらつき、桟橋の縁へ手をついた。

 塩見が振り返る。

「何週ですか」

 安西ははっとした顔をした。

「十五……です」

 塩見は美沢を見る。

 美沢は頷いた。

「付き添いの採血も。説明に入る前に最低限だけ取ります」

 母親の顔に、拒絶と安堵が同時に浮かんだ。


   4


 午後、航の採血管を並べるトレイの前で、菜月が言った。

「先生、これ……昨日と違いませんか」

 美沢は振り向く。

 菜月はメモ帳ではなく、スマホの写真を開いていた。昨日の採血管のラベル写真。その横に、今日の採血管。並んだ文字列の末尾だけが違う。

 昨日は院内コードだけだった。

 今日はその後ろに、小さく英数字が付いている。

 OBS-EXT

「昨日は、これ、ついてなかったと思うんですけど」

 菜月はラベルから目を離さないまま言った。

「細かいことなら、すみません。でも、同じものを見てるつもりで違うと……あとで分からなくなるので」

 美沢はそのラベルを取った。

 安西結芽の検体にも、同じ末尾が入っている。

 塩見が寄ってきて、顔をしかめる。

「中央の、観察用の外部連携タグですかね」

「説明してもらってないですよね」

 菜月がすぐに言った。

 声は荒くない。荒くしないことで持たせている声だった。

「聞いてないです。少なくとも、私は。昨日の紙にも……なかったと思います」

 美沢はラベルを二本ともポケットへ入れた。

「止めます」

 そう言ってから、菜月に向き直る。

「気づいてくれて助かりました」

 菜月は一瞬、何か言いかけたが、言わなかった。

 代わりにメモ帳を開き、一行だけ書く。

 『説明されていない番号が付いていた』

 字の最後が、少しだけ右へ流れた。


   5


 中岡はラベルを見るなり、すぐ端末を開いた。

 朽木はその後ろで腕を組み、結城は紙のままでは追えない版履歴をノートへ写している。

「OBS-EXT、外です」

 中岡が言った。

「白砂内部タグじゃない。観察用外部リレー。しかも昨日じゃなくて、ずっと前から雛形が入ってる」

「いつ」

 美沢が訊く。

 中岡は画面を拡大した。

「百八十四日前」

 誰もすぐには喋らなかった。

 結城のペン先が紙の上で止まり、塩見が先に、短く息を吐く。

「症例発生前ですよね」

「前です」

 中岡は淡々と答える。

「白砂プロトコル正式登録より前。しかも、ただの観察系じゃない。家族待機室、採血ラベル、病室ログ、あと――」

 中岡の指が止まる。

 カーソルの先、古い区画図面の中に、薄くグレーアウトした部屋がある。

 母子観察区画。

 塩見が、無言で息を止めたのが分かった。

 朽木が低く言う。

「そこの区画は、まだ閉じたままのはずだ」

「電源が、今朝四時に上がってます」

 中岡は画面から目を離さない。

「誰かが起こした」

 美沢は短く考えた。

 考えるより先に、手が動いていた。

「家族待機室と病室の外部リレー、全部物理で落として」

 中岡が頷く。

「採血ラベルの外部連携タグは止める。内部コードだけに戻す」

「母子観察区画は」

「封鎖のまま。鍵も権限も切る」

 美沢は言った。

「安西さんの説明が終わるまで、誰も近づかせない」

 朽木が顔を上げる。

「それで中央が黙ると思いますか」

「思ってない」

 美沢は言った。

「だから先に切る」

 サービス通路の奥は暗く、白い壁だけが微かに光っていた。

 潮気で金具が鈍く曇っている。

 中岡が配線盤を開けると、古い検疫施設の名残みたいな太い線束の中に、新しい細いケーブルが一本だけ混じっていた。

「これです」

 ニッパーではなく、正式な遮断手順で落とす。

 中岡はそういう人間だった。

 ログを残し、順番を残し、あとで揉めても辿れる切り方しか、しない。

 ランプが一つずつ消えていく。

 家族待機室。観察区画B。採血転送。病室外部音声。

 最後に、母子観察区画の表示だけが残った。

「こいつの電源、別系統です」

 美沢は配線図を見た。

 図面の更新日は、やはり症例発生前だった。


 6


 内線が鳴った。

 塩見だった。声が低い。

「安西さん、採血取りました」

「異常?」

 数秒の間。

 廊下の向こうで、波の音が遅れて返る。

「橋が出てます」

 美沢は受話器を持つ手に力を入れた。

 言葉を選び間違えると、意味が別の順番で立つ。

「結芽ちゃんの?」

「違う」

 塩見が言った。

「付き添いのお母さんです。安西芽衣さん。妊娠十五週」

 中岡がこちらを見た。朽木も、結城も、誰も何も言わない。

 壁に反響した波の音だけが、一拍遅れて戻ってくる。

「母子観察区画の鍵」

 美沢は言った。

「まだ切れてる?」

 中岡が画面を見たまま答える。

「電源は落としました。でも、誰かが三分前に外から起動要求を出してます」

「通した?」

「いえ。まだ」

 美沢は受話器を戻さなかった。

 安西芽衣。十五週。橋が出ている。

 準備されていた母子観察区画。

 症例発生前の権限。

 凛の「見てた?」。

 三十一分。

 全部が同じ机の上へ乗る感覚があった。

「塩見」

 美沢は言った。

「安西さんには、先に分かっていることだけ伝えて。妊娠のことを含めて、説明は私がやる。順番は崩さないで」

「了解」

 電話を切る。

 その瞬間、通路の奥で、落としたはずの非常灯が一つだけ点いた。

 古いプレートの文字が浮かぶ。


 母子観察区画


 誰も動かなかった。

 最初に歩きだしたのは、美沢だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ