第一章 白砂プロトコル A.D.203X年 春 4
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その日の午後、菜月が新しい同意書を持ってきた。
ページの角がきれいに揃っている。
昨夜の版をスマホで撮っておいたらしく、画面には同じ文書の画像が何枚も並び、差分に黄色い線が引かれていた。
黄色はところどころ同じ場所を二度なぞっていて、線の端だけがわずかに震えている。
「たぶん、私の勘違いじゃないです」
そう言って、末尾の一文を指す。
必要に応じて、家族情報を追加的に精査する場合がある。
「昨日、これありましたか。私、たぶん三回どころじゃなく読んでるので、見落としじゃないと思うんですけど」
言葉の端は丁寧だったが、怒っているのが分かった。
怒りをそのまま出すと話が止まるから、必死に平らにしている。
美沢は文書サーバーから前版を呼び出した。なかった。
「誰から受け取りました」
「夜勤の事務の人です。『細かい修正だから、急ぐなら先にサインだけ』って」
菜月はそこで言いよどんだ。喉のところが一度だけ強く動く。
「こういうの、前の職場でよくあって。軽微修正って言うんです。軽微じゃないことのほうが多い」
美沢はその場で結城を呼んだ。
結城は紙を受け取るなり、文末を二度読み返した。
顔色が変わるより先に、声の温度が落ちた。
「これは僕の文じゃない」
「分かるの」
「分かります。『必要に応じて』と『追加的に』を並べる人は、責任範囲を広げたいんです。読む人に伝えるためじゃなくて、あとで使える穴を作るための文です」
菜月がはっとした顔で結城を見る。
結城は続けた。
「読まない一文を、書面に先に入れてはいけない。止めて正解です」
菜月の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「よかった……。私、こういうとき、面倒な家族だと思われるのが一番嫌なんです」
「確認してくれる家族がいないほうが危ないです」
美沢は即答した。
その場で文書管理へ連絡を入れる。
「白砂の同意テンプレートを凍結してください。中央法務からの差し込みも、いったん全部止めます」
端末の向こうで担当者が息をのむ。
「この規模だと、中央からの文言調整は日常で――」
「ここは日常運用じゃない」
美沢は言った。
「家族に説明していない未来を、書類だけ先に進めないでください」
そこで、内線の向こうが妙に長く黙った。
やがて担当者は声を潜める。
「……夜勤の事務、呼びますか。さっきから、自分のせいだって」
数分後、夜勤事務の若い男性が来た。名札が少し曲がっている。
紙を持つ指が震え、爪の間にコピー機の黒い粉が入り込んでいた。
「すみません、僕、中央から最新版だって聞いて……」
「どこから」
「危機調整室です。搬送を止めるな、説明は朝いちで入るから、とにかく差し替えを回せって。名乗りは……最初にあったと思うんですけど、書く前に次の指示が来て」
言い終える前に、自分でもそれが言い訳に聞こえると分かったらしい。
唇を結び、頭を下げる。
美沢はその頭を見た。
順番を決める人間は、たいてい自分の手を汚さない。
いちばん下にいる誰かの指を借りる。
「もういい。あなたは下がって」
「でも――」
「責任の置き場所は、こっちで決めます」
若い事務はもう一度頭を下げて出ていった。
扉が閉まったあとも、紙の擦れる音だけがしばらく残った。
通話を切ると、そのまま解析室へ向かった。
一人で監査ログを追うより、癖を読む人間を横に置いたほうが早い。
中岡は端末の前にいた。机の半分がケーブルで埋まり、紙コップの横に外したキーキャップが一つ転がっている。
話しかけても、まず視線は画面から外れない。
「忙しいところ悪い」
「それはお互いさまです」
愛想はないが、拒絶でもない。椅子を半歩だけずらし、別画面を開いた。
更新履歴は、妙に整っていた。
数秒見ただけで、中岡が顔をしかめる。
「きれいすぎます」
「何が」
中岡は返事の代わりに、画面の時刻列を拡大した。
等間隔の更新、揃いすぎた改行、癖のない句読点。
カーソルが一箇所で止まり、同じ語尾が不自然に並ぶ部分を示す。
それから言う。
「現場のログです。こんなに揃いません。深夜帯なら、もっと汚れる」
差分を追う。
問題のテンプレートは文書サーバーから直接ではなく、一度だけ観測系ミラーサーバーを経由して更新されていた。
しかも白砂プロトコルの正式登録より前の時刻だ。
「この更新者、法律文書の人じゃないです」
中岡が言った。
「変換の癖が合わない。『精査』だけ外から持ってきてる。あと、ここで一回コピペを失敗してます」
画面の一箇所を指先で示す。
「文を知ってる人じゃなくて、文を運んだ人です」
朽木が後ろから画面をのぞき込んだ。いつ入ってきたのか分からなかった。
「観測系ミラー?」
声が、わずかに低くなる。
「そこ、医事書類とは切ってあるはずです」
「切ってあるはずなら、なお悪いです」
中岡は振り返らずに言った。
「誰かが、切れてるはずのものを通した」
朽木が黙る。沈黙の質が少し変わった。驚きだけではない。思い当たる節がある人間の黙り方だった。
「その系、前の月圏計画の名残ですよね」
中岡が続ける。
「観測データを医療側と突き合わせるための迂回路。消したって聞いてましたけど」
朽木はすぐには答えなかった。やがて、画面から目を離さないまま言う。
「完全に切ると解析が遅れるって、当時言ったのは僕です。一時的に残して、あとで閉じる設計だった。閉じた報告にはサインした。だから、残ってるなら僕の責任でもある」
言い訳は足さなかった。
美沢は胸ポケットの紙を出し、余白に書く。
23:18 同意テンプレ更新/観測系ミラー経由/更新者不明
インクが乾くのを待つあいだ、家族待機室の内線ランプが点いた。一度消え、また点く。外線。発信元は非表示。
「二回鳴るの、同じ人です」
中岡が画面から目を離さないまま言った。
「一回目で切って、言い方を決め直してる」
通りかかった塩見が足を止める。
「出たくない鳴り方ですね」
「分かるの」
「こういう間で鳴る電話、ろくなのないです」
塩見は受話器に手を伸ばさなかった。美沢を見る。誰が出るか、その順番を待っている。
美沢は受話器を取った。
「白砂対策本部、美沢です」
数秒の無音のあと、会議室で若い技官の言葉を切った、あの声がした。
「厚労省の槙原です。先生、同意テンプレートを凍結したそうですね」
「しました」
「判断自体は正しい」
美沢は受話器を握り直した。責めるより先に肯定を置く。
人を動かす順番を分かっている声だった。
「ですが、止め方の順番を間違えないでください」
「どういう意味ですか」
槙原は一拍だけ黙った。背後で紙をめくる音と、誰かの咳が混じる。まだ別の会議の途中なのかもしれなかった。
「先生が最初に守るべき家族がいるのは理解しています。ですが、今夜の搬送候補は全国に十八家族ある。ここで"中央が説明前に文言を差し込んだ"という事実だけが先に出ると、全員が署名を止める。止めるなら、理由と訂正文を同時に出す。その整列が必要です」
美沢は数秒黙った。
十八家族が一斉に立ち止まれば、白砂の搬送枠も、いま辛うじて回っている現場も詰まる。
理屈としては分かる。分かることと、その理屈のために説明前の未来を書類へ差し込んでいいことは、別だった。
「差し込んだ主体を、把握しているんですか」
「把握していることと、この場で言えることは別です」
低い声だった。
逃げているというより、順番を崩さないために切っている。
「現場の若い事務を、あなた方の手の延長に使うのも、整列ですか」
受話器の向こうで、ごく短く空気が止まった。
「先生」
槙原の声は、怒ったのではなく、さらに薄くなった。
「感情で順番を崩さないでください」
その一言で十分だった。
相手が何を守ろうとしていて、何を切り捨てる用意があるのか、もう分かった。
美沢は受話器を置いた。
数秒、誰もしゃべらなかった。
空調の風が紙の端だけを揺らす。
「中岡」
美沢は言った。
「今の監査ログ、全文をハッシュ化して別系統に退避。書換不能で二系統。一本は島外、一本は第三者委の封緘先に回して」
中岡が初めて顔を上げた。
「中央承認なしでやるんですか」
「いまから私が承認する」
塩見が息をのむ。
「観測系ミラーは?」
「切る。家族説明系から物理的に離す。復旧権限は私名義で凍結。復旧させるなら、中央に白砂を止めてもらう」
朽木が低く言う。
「それ、正面衝突になります」
「もうなってる」
美沢は書類の最下段に自分の名前を書き、時刻を打った。ペン先が紙をわずかに裂く。
23:31
裂け目のささくれが指腹に残った。
三十一という数字だけが、新しい時刻の上へ重なった。今度は待たない。
署名を終えると、美沢は引き出しの鍵を開けた。
鍵穴に差し込んだ先で、金属が一度だけかすかに滑る。手が止まりかけたのを、自分で押し切る。黒い画面を起こし、凛の動画を初めて再生する。
紙の王冠が少し傾いている。
凛は二番のサビを危うく越え、拍手が起きる前に、いつものように客席を探すように顔を上げた。
そこで動画が終わるのではなかった。カメラがぶれ、誰かの肩が横切り、次の瞬間、画面いっぱいに凛の顔が寄る。
息を切らしながら、レンズの向こうへ口を動かす。
音は拍手に消されていた。
それでも、美沢には読めた。
――見てた?
美沢はまばたきを一度だけして、息を吸ったまま、止めるボタンの上に置いた指を動かさなかった。
机の上では、家族説明の手順書がまだ開いたままだった。




