表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/23

第一章 白砂プロトコル A.D.203X年 春 4

 4

 その日の午後、菜月が新しい同意書を持ってきた。

 ページの角がきれいに揃っている。

 昨夜の版をスマホで撮っておいたらしく、画面には同じ文書の画像が何枚も並び、差分に黄色い線が引かれていた。

 黄色はところどころ同じ場所を二度なぞっていて、線の端だけがわずかに震えている。

「たぶん、私の勘違いじゃないです」

 そう言って、末尾の一文を指す。

 必要に応じて、家族情報を追加的に精査する場合がある。

「昨日、これありましたか。私、たぶん三回どころじゃなく読んでるので、見落としじゃないと思うんですけど」

 言葉の端は丁寧だったが、怒っているのが分かった。

 怒りをそのまま出すと話が止まるから、必死に平らにしている。

 美沢は文書サーバーから前版を呼び出した。なかった。

「誰から受け取りました」

「夜勤の事務の人です。『細かい修正だから、急ぐなら先にサインだけ』って」

 菜月はそこで言いよどんだ。喉のところが一度だけ強く動く。

「こういうの、前の職場でよくあって。軽微修正って言うんです。軽微じゃないことのほうが多い」

 美沢はその場で結城を呼んだ。

 結城は紙を受け取るなり、文末を二度読み返した。

 顔色が変わるより先に、声の温度が落ちた。

「これは僕の文じゃない」

「分かるの」

「分かります。『必要に応じて』と『追加的に』を並べる人は、責任範囲を広げたいんです。読む人に伝えるためじゃなくて、あとで使える穴を作るための文です」

 菜月がはっとした顔で結城を見る。

 結城は続けた。

「読まない一文を、書面に先に入れてはいけない。止めて正解です」

 菜月の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

「よかった……。私、こういうとき、面倒な家族だと思われるのが一番嫌なんです」

「確認してくれる家族がいないほうが危ないです」

 美沢は即答した。

 その場で文書管理へ連絡を入れる。

「白砂の同意テンプレートを凍結してください。中央法務からの差し込みも、いったん全部止めます」

 端末の向こうで担当者が息をのむ。

「この規模だと、中央からの文言調整は日常で――」

「ここは日常運用じゃない」

 美沢は言った。

「家族に説明していない未来を、書類だけ先に進めないでください」

 そこで、内線の向こうが妙に長く黙った。

 やがて担当者は声を潜める。

「……夜勤の事務、呼びますか。さっきから、自分のせいだって」

 数分後、夜勤事務の若い男性が来た。名札が少し曲がっている。

 紙を持つ指が震え、爪の間にコピー機の黒い粉が入り込んでいた。

「すみません、僕、中央から最新版だって聞いて……」

「どこから」

「危機調整室です。搬送を止めるな、説明は朝いちで入るから、とにかく差し替えを回せって。名乗りは……最初にあったと思うんですけど、書く前に次の指示が来て」

 言い終える前に、自分でもそれが言い訳に聞こえると分かったらしい。

 唇を結び、頭を下げる。

 美沢はその頭を見た。

 順番を決める人間は、たいてい自分の手を汚さない。

 いちばん下にいる誰かの指を借りる。

「もういい。あなたは下がって」

「でも――」

「責任の置き場所は、こっちで決めます」

 若い事務はもう一度頭を下げて出ていった。

 扉が閉まったあとも、紙の擦れる音だけがしばらく残った。

 通話を切ると、そのまま解析室へ向かった。

 一人で監査ログを追うより、癖を読む人間を横に置いたほうが早い。

 中岡は端末の前にいた。机の半分がケーブルで埋まり、紙コップの横に外したキーキャップが一つ転がっている。

 話しかけても、まず視線は画面から外れない。

「忙しいところ悪い」

「それはお互いさまです」

 愛想はないが、拒絶でもない。椅子を半歩だけずらし、別画面を開いた。

 更新履歴は、妙に整っていた。

 数秒見ただけで、中岡が顔をしかめる。

「きれいすぎます」

「何が」

 中岡は返事の代わりに、画面の時刻列を拡大した。

 等間隔の更新、揃いすぎた改行、癖のない句読点。

 カーソルが一箇所で止まり、同じ語尾が不自然に並ぶ部分を示す。

 それから言う。

「現場のログです。こんなに揃いません。深夜帯なら、もっと汚れる」

 差分を追う。

 問題のテンプレートは文書サーバーから直接ではなく、一度だけ観測系ミラーサーバーを経由して更新されていた。

 しかも白砂プロトコルの正式登録より前の時刻だ。

「この更新者、法律文書の人じゃないです」

 中岡が言った。

「変換の癖が合わない。『精査』だけ外から持ってきてる。あと、ここで一回コピペを失敗してます」

 画面の一箇所を指先で示す。

「文を知ってる人じゃなくて、文を運んだ人です」

 朽木が後ろから画面をのぞき込んだ。いつ入ってきたのか分からなかった。

「観測系ミラー?」

 声が、わずかに低くなる。

「そこ、医事書類とは切ってあるはずです」

「切ってあるはずなら、なお悪いです」

 中岡は振り返らずに言った。

「誰かが、切れてるはずのものを通した」

 朽木が黙る。沈黙の質が少し変わった。驚きだけではない。思い当たる節がある人間の黙り方だった。

「その系、前の月圏計画の名残ですよね」

 中岡が続ける。

「観測データを医療側と突き合わせるための迂回路。消したって聞いてましたけど」

 朽木はすぐには答えなかった。やがて、画面から目を離さないまま言う。

「完全に切ると解析が遅れるって、当時言ったのは僕です。一時的に残して、あとで閉じる設計だった。閉じた報告にはサインした。だから、残ってるなら僕の責任でもある」

 言い訳は足さなかった。

 美沢は胸ポケットの紙を出し、余白に書く。


 23:18 同意テンプレ更新/観測系ミラー経由/更新者不明


 インクが乾くのを待つあいだ、家族待機室の内線ランプが点いた。一度消え、また点く。外線。発信元は非表示。

「二回鳴るの、同じ人です」

 中岡が画面から目を離さないまま言った。

「一回目で切って、言い方を決め直してる」

 通りかかった塩見が足を止める。

「出たくない鳴り方ですね」

「分かるの」

「こういう間で鳴る電話、ろくなのないです」

 塩見は受話器に手を伸ばさなかった。美沢を見る。誰が出るか、その順番を待っている。

 美沢は受話器を取った。

「白砂対策本部、美沢です」

 数秒の無音のあと、会議室で若い技官の言葉を切った、あの声がした。

「厚労省の槙原です。先生、同意テンプレートを凍結したそうですね」

「しました」

「判断自体は正しい」

 美沢は受話器を握り直した。責めるより先に肯定を置く。

 人を動かす順番を分かっている声だった。

「ですが、止め方の順番を間違えないでください」

「どういう意味ですか」

 槙原は一拍だけ黙った。背後で紙をめくる音と、誰かの咳が混じる。まだ別の会議の途中なのかもしれなかった。

「先生が最初に守るべき家族がいるのは理解しています。ですが、今夜の搬送候補は全国に十八家族ある。ここで"中央が説明前に文言を差し込んだ"という事実だけが先に出ると、全員が署名を止める。止めるなら、理由と訂正文を同時に出す。その整列が必要です」

 美沢は数秒黙った。

 十八家族が一斉に立ち止まれば、白砂の搬送枠も、いま辛うじて回っている現場も詰まる。

 理屈としては分かる。分かることと、その理屈のために説明前の未来を書類へ差し込んでいいことは、別だった。

「差し込んだ主体を、把握しているんですか」

「把握していることと、この場で言えることは別です」

 低い声だった。

 逃げているというより、順番を崩さないために切っている。

「現場の若い事務を、あなた方の手の延長に使うのも、整列ですか」

 受話器の向こうで、ごく短く空気が止まった。

「先生」

 槙原の声は、怒ったのではなく、さらに薄くなった。

「感情で順番を崩さないでください」

 その一言で十分だった。

 相手が何を守ろうとしていて、何を切り捨てる用意があるのか、もう分かった。

 美沢は受話器を置いた。

 数秒、誰もしゃべらなかった。

 空調の風が紙の端だけを揺らす。

「中岡」

 美沢は言った。

「今の監査ログ、全文をハッシュ化して別系統に退避。書換不能で二系統。一本は島外、一本は第三者委の封緘先に回して」

 中岡が初めて顔を上げた。

「中央承認なしでやるんですか」

「いまから私が承認する」

 塩見が息をのむ。

「観測系ミラーは?」

「切る。家族説明系から物理的に離す。復旧権限は私名義で凍結。復旧させるなら、中央に白砂を止めてもらう」

 朽木が低く言う。

「それ、正面衝突になります」

「もうなってる」

 美沢は書類の最下段に自分の名前を書き、時刻を打った。ペン先が紙をわずかに裂く。


 23:31


 裂け目のささくれが指腹に残った。

 三十一という数字だけが、新しい時刻の上へ重なった。今度は待たない。

 署名を終えると、美沢は引き出しの鍵を開けた。

 鍵穴に差し込んだ先で、金属が一度だけかすかに滑る。手が止まりかけたのを、自分で押し切る。黒い画面を起こし、凛の動画を初めて再生する。

 紙の王冠が少し傾いている。

 凛は二番のサビを危うく越え、拍手が起きる前に、いつものように客席を探すように顔を上げた。

 そこで動画が終わるのではなかった。カメラがぶれ、誰かの肩が横切り、次の瞬間、画面いっぱいに凛の顔が寄る。

 息を切らしながら、レンズの向こうへ口を動かす。

 音は拍手に消されていた。

 それでも、美沢には読めた。

 ――見てた?

 美沢はまばたきを一度だけして、息を吸ったまま、止めるボタンの上に置いた指を動かさなかった。

 机の上では、家族説明の手順書がまだ開いたままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ