第96話 見られる側の席
扉を叩く音で目が覚めた。
まだ朝の光は薄い。
泊められた部屋の窓は壁の高い位置にあり、光を入れる以上の役目を持っていないように見えた。
外の様子はほとんど分からない。
石の壁。
固い寝台が並び、机は三つあるのに、水差しは一つしか置かれていない。
見張りが立つ位置まで最初から決まっていそうな、休ませるためというより、まとめて置いておくための部屋だった。
遠路ご苦労様、という空気は薄い。
落ち着ける部屋じゃないと、目を開けた瞬間に思い出した。
「時間です」
扉の向こうから、事務的な声がした。
王都ギルド本部の職員だ。
隣の寝台から、ミナさんが毛布をはねのける。
「うわ、早い……」
「王都は朝から人を働かせる場所なんだろ」
コルトさんが短く返した。
いつもの軽口なのに、少しだけ硬い。
部屋の隅では、テオさんがもう起きていた。
机の上に布包みを二つ並べて、紐の位置まできっちり整えている。
「原本はガランさん。私は控えと整理用の写しを持ちます」
「助かる」
ガランさんは短くうなずいた。
「今日の線は昨日決めた通りだ。証人は教会側。帳簿の原本は見せ先が決まるまで俺から離さねえ。全部を一気に投げる気はない」
その言い方で、胸の奥が少し落ち着いた。
戦う前の確認みたいだった。
剣を抜く代わりに、順番を決める。
王都ではそれが武器になるんだと、嫌でも分かる。
「リアンさんは?」
俺が聞くと、バルドさんが扉の方を見たまま答えた。
「先に教会側へ行った。証人の様子を見るってよ」
「なら、こっちはこっちでやるだけだな」
ガランさんが言う。
「セイ」
「はい」
「お前は、聞かれたことだけ答えろ。盛るな。縮めるな。分からねえことは分からねえでいい」
「はい」
「あと、余計にへりくだるな」
「……出来るだけ善処します」
「善処で済ませるな」
そこで、ミナさんが吹き出した。
「ほら、もうやってる」
「うるさいですよ」
「事実でしょ」
笑いが少しだけ起きた。
それだけで、部屋の空気がほんの少し軽くなる。
こういう時、ミナさんはずるい。
重さを完全には消さないまま、持てる重さに変えてしまう。
廊下へ出た瞬間、王都ギルド本部の朝が押し寄せてきた。
広い。
通路が多い。
人の流れが途切れない。
受付にはもう列が出来ていて、武器を預ける冒険者、書類を抱えた職員、軍の伝令らしい制服姿、白い外套の教会関係者までいる。
なのに、みんな忙しそうに動いているのに、俺たちを見る目だけは一瞬止まった。
値踏みだ。
戦場で向けられる視線とは違う。
敵か味方かを見る目じゃない。
何を持ってきたのか。
どこまで使えるのか。
どこに繋がっているのか。
そういう目だった。
『戦場では、前から来る危険を読めばよかった』
頭の中で、リラが静かに言う。
『ここでは、人の立場が危険の向きを変えます』
(分かってる)
『分かっていても、居心地は別です』
(それも分かってる)
通路の角で、学院の紋入りローブを着た二人組とすれ違った。
片方が俺を見て、すぐに視線を逸らす。
もう片方は逸らさない。
観察する目だ。
それだけで、胃が少し重くなった。
「顔、固い」
小声でミナさんが言った。
「そんなにですか」
「うん。でも昨日よりはマシ」
「比較対象が昨日なら、だいぶ低いところで褒められてますよね」
「王都では、そのくらいから始めるのがちょうどいいんじゃない?」
案内された部屋は、昨日の待機室よりは広かった。
机が長い。
席の位置が最初から決まっている。
壁には王都周辺の地図と、依頼掲示の整理板。
ここがただの会議室じゃなくて、判断を集める場所なんだと一目で分かった。
向こう側には三人。
年配の男が中央。
左右に、書記役と補佐らしい女が座っている。
中央の男は立ち上がらなかった。
でも、礼を欠いているわけでもない。
最初から「ここは自分たちの席だ」と決まっている人の動きだった。
「冒険者ギルド王都本部、事案確認室です。これより聞き取りを行います」
中央の男が言った。
「私は本部副長補佐、レイヴン。記録はすべてこちらで取ります」
名乗りはあった。
けれど、俺には名前よりも声の硬さのほうが残った。
「確認事項は五点。上流祈律帯の件、北外縁・東外縁の濁り対応、大規模救出時の撤退判断、街道で確保した証人および帳簿、そして王都搬入までの経緯です」
「最初に言っとく」
始まる前に、ガランさんが口を開いた。
「証人は今ここに出さねえ。帳簿の原本もだ。写しと口頭で足りるところまで先にやる」
「本部としては、現物の確認を優先したいところですが」
「したいのは分かる」
ガランさんの声は低い。
でも、喧嘩ではない。
「だからこそ順番を守る。王都にいる誰が味方で、誰が抜け道側か、まだ全部は見えてねえ」
一瞬、部屋の空気が止まった。
言いすぎかとも思った。
でも、本部副長補佐は怒らなかった。
その代わり、こちらを見直した。
試す目から、測る目に変わった気がした。
「……街道で、そこまで見たと?」
「見たから持ってきた」
ガランさんは即答した。
「潰されねえ順でな」
そこでテオさんが、すっと布包みを差し出す。
「こちらが写しです。帳簿の数値は表裏で照合済み。護送便の経路変更、不自然な空欄、荷の付け替えと徴税記録のズレをまとめてあります」
書記役の手が、ぴたりと止まった。
「……もう整理済み?」
「読める形にしてあります」
テオさんは淡々としている。
「読みにくい証拠は、読まれないことがありますから」
その一言に、向こうの女が小さく息をのんだ。
たぶん、嫌味に聞こえてもおかしくなかった。
でもテオさんは、本気でそういうものだと思って言っているだけだ。
そこが強い。
「では、上流祈律帯から順に」
本部側が言う。
最初はガランさんが全体の流れを話した。
上流調査の開始。
Aライン、Bライン、Cラインの運用。
濁りの濃度が変わる帯。
支部として踏み越えていい線と、預けるべき線。
そして、救出戦で何を優先し、何を諦めたか。
俺は途中まで、横で聞いているだけだった。
それでいいと思っていた。
でも、本部副長補佐の視線がこっちに向く。
「セイ君」
「はい」
「君の判断について聞きたい。救出戦で、なぜあの時点で下げた」
「……下げないと、戻れなくなる線が見えたからです」
「具体的には」
「前に出れば、目の前の一人は拾えます。でも、その先で回復役が止まる。止まると後ろが詰まる。詰まると退路が潰れる。だから切りました」
「切った?」
「全員を助ける線じゃなくて、戻せる人数を守る線に切り替えたってことです」
部屋が静かになった。
言葉を間違えたかと思った。
でも、本部副長補佐は次の質問を重ねる。
「その判断で、何を捨てた」
「前進です」
「何を持ち帰った」
「生きて戻れる人数です」
自分で言っていて、嫌な言い方だと思った。
綺麗じゃない。
でも、あの時はそうだった。
「功績を取りに行かなかった理由は?」
「危険が上がってたからです」
「それだけか」
「それだけです。進ませたら死ぬ線が見えたので」
「君は自分で前に出られただろう」
「出るだけなら」
「なら、なぜ」
「俺が出て片付く戦場なら、最初からこんな人数は要りません」
言ってから、少しだけ言い過ぎたと思った。
でも止められなかった。
「俺の役目は倒すことじゃなくて、戻すことだったので」
沈黙。
今度の沈黙は長かった。
コルトさんが、その空気を切るように口を開いた。
「補足する。セイの判断がなければ、弓はもっと前へ出てた」
「私も」
ミナさんが続く。
「あの場で“まだ行けるかも”を切れたの、たぶんセイだけだったよ。嫌な役だったけどね」
「嫌な役で済んだなら安い」
ガランさんが言う。
「死ぬよりずっとな」
本部側の書記が、書く速度を上げた。
紙を走る音が、部屋の中でやけに大きい。
次に地図が広げられた。
王都製の綺麗な地図だ。
でも、現場の泥も匂いもない。
俺はその上に、テオさんが用意してくれた薄い紙を重ねた。
赤線。
青線。
戻れた線。
危険が跳ねた場所。
未踏として残した場所。
「ここが、下げた地点です」
俺は指を置く。
「ここで前衛二人を半歩ずつ戻しました。右側の足場が崩れかけてたので、先に左へ寄せてます」
「なぜ右ではなく左だ」
「右は沈みました」
「地図では分からん」
「現場では分かりました」
そこで、少しだけ笑いが起きた。
馬鹿にした笑いじゃない。
乾いた、納得に近い笑いだ。
本部副長補佐が初めて口元を動かした。
「分かった。では、そこを分かる形に変えて持ってきたのが、この記録か」
「はい」
「誰がまとめた」
「リラと俺で下書きをして、テオさんが読める形に直してます」
「最後の一文は私です」
テオさんがさらっと言う。
「読み手が途中で投げないように」
また書記の手が止まる。
たぶん、この部屋では珍しい報告なんだろう。
その後は街道の件に移った。
護送便消失の経緯。
不正徴税。
闇商人の荷。
筋の通った盗賊の噂。
裏組織の手引き。
ただし、そこでもガランさんは線を引いた。
「世直し団の噂は出す。だが、正体の断定はまだしねえ」
「生き証人も、今は出さない」
「王都の中で消される線が見えなくなるまではな」
本部副長補佐はそれを否定しなかった。
代わりに、確認だけした。
「では、本部としては段階受領に切り替える。写しを先行。原本は保留。証人は教会側の保護下で容体優先。異論は?」
「ねえよ」
「ありません」
「ない」
小さな勝ちだと思った。
全部を守れたわけじゃない。
でも、昨日決めた順番は崩れなかった。
聞き取りが終わる頃には、朝の光が窓の位置を越えていた。
けれど、疲れは戦闘の後と違う。
体より先に、頭が削られる感じだった。
「最後に」
本部副長補佐が、記録紙を閉じた。
「私見を一つだけ述べる」
その言い方に、部屋の空気が少し締まる。
「君たちが持ち込んだ帳簿は重い。証人も重い。だが、それ以上に厄介なのは――」
彼は、俺の前の紙を指で軽く叩いた。
「この報告だ」
「報告、ですか」
思わず聞き返すと、本部副長補佐はうなずいた。
「これは冒険者の戦果報告ではない」
一拍。
「現場指揮官の報告だ」
その瞬間、背中が冷えた。
褒められた感じは、まったくしない。
むしろ、嫌な予感しかしなかった。
ミナさんが小さく顔をしかめる。
コルトさんは黙ったまま窓の外を見る。
テオさんだけが、何かを確かめるみたいに目を細めていた。
ガランさんは鼻で笑った。
「やっとそこまで来たか」
「嬉しくなさそうだな」
本部副長補佐が言う。
「嬉しいわけあるか」
ガランさんは即答した。
「こいつは、そういう席に座らせるほど気楽な駒じゃねえ」
そこへ、扉が叩かれた。
さっきとは違う。
短く、急ぐ音だ。
「入れ」
本部副長補佐が言う。
入ってきたのは、軍服の伝令だった。
靴音がまっすぐだ。
迷いがない。
その場の全員を見て、俺のところで止まる。
「王国軍本部より」
伝令は紙を差し出した。
「聞き取り予定、繰り上げ。対象はセイ、ガラン、テオ、コルト、ミナ。――本日、正午」
「早いな」
ガランさんが言う。
「上が急いでいます」
「上ってのは、軍の上か?」
伝令は少しだけ黙った。
それだけで十分だった。
俺は、机の上の地図を見る。
赤線。
青線。
戻れた線。
戻れなかった線。
戦場なら、それで足りた。
でも王都では違う。
線を読んだ報告そのものが、次の呼び出しになる。
守るために引いた線が、
今度は俺を、別の席へ連れていこうとしていた。




