第90話 第三の目
貴族の肩に刺さった矢は、まだ抜けていなかった。
血は流れている。
浅くはない。
けれど、急所は外れている。
助かったわけじゃない。
ただ、まだ終わっていないだけだ。
「動かせるか」
ガランさんの声は低かった。
焦りはない。
けれど、迷いもない。
俺は男の肩口を押さえたまま、呼吸の浅さと足の震えを見る。
血は出ている。
でも、自分の足で立てない状態じゃない。
「走らせるのは危ないです。でも支えれば歩けます」
「なら歩かせる。ここで止まる方が危険だ」
「はい」
その即答で、俺の中の線も揃った。
もう追う話じゃない。
守って離脱する話だ。
バルドさんが前へ出る。
盾は真正面に切らず、少しだけ斜め。
狭い通路で全部を塞いだら、今度はこっちの退き足が死ぬ。
だから、通しながら守る形を作る。
コルトさんは上の足場に残り、弓を引いたまま横穴と高所を見ていた。
テオさんは左の崩れた縁へ手を伸ばす。
「テオさん、さっきのところ、左だけもう一度お願いします」
「踏む場所だけでいいな」
「はい。それで十分です」
石の縁が淡く光る。
その光が必要な場所だけ広がり、崩れかけた石の縁の一部が締まって、足を置ける帯になる。
《ソイルリペア》。
全部を変えない。味方が次の一歩を置く場所だけ残す。
こういう時の土魔法は、派手さより正確さだ。
「立て」
ガランさんが貴族へ言った。
男は青い顔で見上げる。
「ま、まだ……いるのか?」
「いると思って動け」
「ひっ……」
「死にたくないなら、足を止めるな」
荒い。
でも間違っていない。
俺は男の脇に腕を入れた。
体重は軽かった。
上等な服を着ていても、体はかなり窶れていて、とても健康な人間の重さじゃない。
削られて、追い詰められて、もうずっと怯えていたんだと思う。
「セイ」
上の足場から、コルトさんの声がかかった。
「射線は消えた。だが静かすぎる」
「分かりました」
静かすぎる。
それが逆に不気味だった。
裏組織の下っ端なら、もっと仕事が雑になる。
焦って足音が乱れたり、怒鳴り声の一つくらい飛んでもおかしくない。
でも、さっきの射手は違った。
狙う相手をきっちり絞っていて、無駄な場所には一矢も流さない。
俺たちは証人を助けたつもりでいた。
けれど、本当は違う。
あいつらが消そうとしていた証人を、俺たちが先に確保しただけだ。
「行くぞ」
ガランさんが言う。
先頭はバルドさん。
その後ろに俺と、傷を負った貴族。
さらに後ろをガランさんとテオさんが締める。
コルトさんだけが上を並走する。
狭い場所では、この順番がそのまま生き残る形になる。
誰が前を受けるか。
誰の退き足を残すか。
誰が落ちたら詰むか。
そこでようやく、はっきりした。
敵が増えたんじゃない。
この場で動いている思惑が、一つじゃなくなったんだ。
裏組織は、証拠と証人を消したい。
俺たちは、証人を生かしたまま外へ運びたい。
そして、さっきの矢の主は――そのどちらとも少し違う目的で動いている。
曲がり角を一つ戻ったところで、コルトさんが短く言った。
「前に二人」
バルドさんの足が止まる。
止まり切る前に、俺は貴族を左の壁へ寄せた。
右肩を壁につけさせ、傷のある側を少し後ろへ引く。
正面から何か来たら、まず通すのは盾。
その次が俺。
貴族は一番後ろでいい。
「武器は?」
ガランさんが聞く。
「抜いてる。だが、構えが変だ」
「変?」
「通路を取りに来る形じゃねえ。通さねえ位置に立ってる」
暗がりの向こうに二つの影があった。
一人は短弓。
一人は短剣。
青布じゃない。
裏組織の見張りとも違う。
殺すだけなら、もっと嫌な位置に立てたはずだ。
だが立っていない。
通路を潰すためじゃない。
こっちの行き先を測る立ち位置だった。
暗がりから声がした。
「そいつを生かして、どこへ連れていく」
若い男の声だった。
怒鳴るでもなく、脅すでもない。
ただ、本気で行き先を確かめている声だった。
「ギルド預かりだ」
ガランさんが答える。
「教会とギルド、両方の目が届くところまで出す」
「王都か」
「必要ならな」
「王都の中で消されるだけだ」
その返しに、俺は少しだけ眉をひそめた。
脅しじゃない。
そういう目に遭った人間の言い方だった。
「帳簿を押さえなきゃ、何も変わらねえ」
今度は短剣の男が言った。
「証言だけ残しても、門の中で潰される」
「帳簿はもう別で動いてます」
俺が答えると、二人の視線がこっちへ向いた。
「証言も証拠も分けました。どちらかが潰されても、もう片方は残る形です」
「分けたのか」
「はい」
「……悪くない」
短剣の男の肩から、少しだけ力が抜けた。
まだ敵ではある。
でも、最初ほど張りつめてはいない。
「お前らが、さっきの矢を撃ったのか」
ガランさんが聞く。
「違う」
短弓の男はすぐに答えた。
「こっちが殺すつもりなら、もっと前でやってる」
「言い切るな」
「少なくとも、民を巻き込むやり方はしない」
その一言で、少し見えた。
この二人は、俺たちごと廃水路を潰せる場所に立っていない。
崩しやすい足場にも手をつけていない。
やる気なら、もっとひどいやり方ができたはずだ。
でも、そうしていない。
裏組織とも、ただの盗賊とも違う。
「そっちはそっちのやり方で動いてる」
短剣の男が言う。
「こっちにも、見逃せねえ相手がいる」
「お前らの頭は、何て言ってる」
ガランさんが低く問う。
少し黙ったあと、短弓の男が答えた。
「上は、民を踏みつけた奴しか裁かねえ」
名前は出さない。
でも、それで十分だった。
好き勝手に暴れる連中の言葉じゃない。
荒っぽくても、守る相手だけは決めて動いている。
その時だった。
後ろで石を擦る音がした。
振り向くと、さっき縛った裏組織の見張りの一人が、片手だけ抜いていた。
懐から細い針を取り出し、傷を負った貴族へ振る。
「下がって!」
俺は貴族を壁に押しつけた。
右足を軸にして、左足を半歩だけ外へ逃がす。
喉へ通る線だけを潰す。
深く刺さらなければ、それでいい。
次の瞬間、二本の矢がほぼ同時に走った。
一つは上から。
コルトさん。
一つは前から。
短弓の男。
片方が手首を、もう片方が足元を射る。
見張りは短く悲鳴を上げ、壁際で崩れた。
「バルドさん!」
「おう!」
バルドさんが前へ出るんじゃなく、横へずれた。
盾の縁で見張りの肩を押し潰し、壁に固定する。
振るより、潰す方が速い。
テオさんがすぐ足元の泥を締め、逃げ足だけ奪った。
終わりだ。
短剣の男が、小さく息を吐く。
「話が早いな」
「そっちもです」
俺が返すと、短弓の男は少しだけ目を細めた。
「貴族を庇ってる顔じゃない」
「庇ってません」
「じゃあ何だ」
「証言を使って、越えた線を見える形にしたいだけです」
「……なるほどな」
ガランさんが口を開く。
「今日はここで退け。こっちはこっちで運ぶ」
「そっちはそっちで掘る、か」
「そうだ」
「いい。だが覚えとけ」
短弓の男の声が、さっきより低くなった。
「王都の中は外より綺麗に見える。綺麗に見える分だけ、人を消しても気づかれにくい」
その言葉は、水路の冷たさより嫌だった。
森の危険なら分かる。濁りも、魔物も、地形の崩れも見て判断できる。
でも、人が取り繕った中に隠す悪意は見えにくい。
「次に会う時、敵かどうかはまだ決めない」
俺が言うと、短剣の男は肩をすくめた。
「それでいい」
二人は暗がりへ下がる。
追えない消え方じゃない。
けれど、追わない方がいい消え方だった。
「行くぞ」
ガランさんが言う。
「今度こそ、その証人を落とすな」
「はい」
俺たちは再び歩き出した。
肩を押さえる貴族の息は荒い。
でも戻る線は、まだ切れていない。
バルドさんの盾が前を作り、コルトさんが上を見て、テオさんが足場を守る。
この形なら帰せる。
出口の薄明かりが見えた時、壁に押さえ込まれた見張りが、血の混じった声で笑った。
「無駄だ……」
振り返らず、ガランさんが問う。
「何がだ」
「王都に入れば……同じだ……」
見張りは咳き込み、それでも笑った。
「あっちの方が……もっと気づかれずに消える……」
朝の光はもう外に差していた。
なのに、その一言だけが頭から離れない。
廃水路を抜ける直前、背後の暗がりから、さっきの短弓の男の声がもう一度届いた。
「次に搾られるのは、荷じゃない。人だ」
その一言で、俺は足を止めかけた。
でも止まらない。
今はまだ、この証人を運ぶのが先だ。
王都に近づくほど安全になるわけじゃない。
むしろ逆だった。
見えにくい形で、人を静かに追い詰めてくる。
それが、いちばん厄介だった




