第89話 北の廃水路
夜明け前、俺たちは小屋を出てすぐ二手に分かれた。
リアンがロスさんを支えて教会へ戻る。
ミナは焼け残った帳簿を布で包み、別の道でギルドへ向かう。
証人と証拠は分けて動かす。
どちらかを狙われても、もう片方は残す。
さっきガランさんが決めたのは、その形だった。
「リアン、ロスを頼む」
「はい。命はつなぎます」
「ミナ、帳簿を頼む」
「任せて。こっちは帳簿を持って戻る。そっちは残ってる一人を見つけて」
「分かった」
二人はすぐに離れた。
残ったのはガランさん、バルドさん、コルトさん、テオさん、俺の五人だ。
ここから先は、走ればいい話じゃない。
狭い場所へ入る。
相手が待っている前提で動く。
その順番を間違えたら、今度は俺たちが消される。
「行くぞ」
ガランさんが言った。
北の廃水路は、町外れにある古い排水路だった。
今は水量が減り、水は底の細い溝を流れているだけだ。
人が通れるのは、その脇に残った石の縁しかない。
左の縁はところどころ崩れかけていて、足を置ける場所が限られる。
しかも幅は狭く、大人が二人並ぶと退きにくい。
右側の壁の上には、点検用に使っていたらしい細い足場も残っていた。
「どう見る」
ガランさんが低く聞く。
「曲がり角の手前で詰まります」
俺は答えた。
「バルドさんが盾を出したら、後ろは一人ずつしか抜けられません。あの上を取られていたら、止まった瞬間に射たれます」
「左の縁は?」
「崩れてます。でも踏める場所は残ってます。通すならそっちです」
「上は空けるな、ってことか」
「はい」
コルトさんが先に動いた。
右側の壁の継ぎ目に手をかけ、そのまま高い足場へ上がっていく。
音が小さい。
こういう場所では、それだけで助かる。
「前は俺でいいな」
バルドさんが盾を持ち直す。
「はい。でも右足は大きく出さないでください。三歩先の石、端が浮いてます」
「分かった」
「テオさん、左の縁だけ少し持たせられますか」
「全部は無理です。踏む場所だけなら」
「それで十分です」
「分かった」
テオさんが指先で石の縁をなぞる。
薄く土の色が走って、崩れかけた縁の一部だけが締まった。
《ソイルリペア》。
味方が踏む場所だけを持たせる、地味だけどありがたい魔法だ。
俺たちは進んだ。
先頭はバルドさん。
その半歩後ろに俺。
ガランさんとテオさんが続き、コルトさんが上から並走する。
順番を決めるだけで、狭い場所は少しだけ通りやすくなる。
曲がり角の手前で、上から小さく砂が落ちた。
「来ます」
言った直後、正面の影が動いた。
布で口元を巻いた男が、短剣を逆手にして飛び出してくる。
狙いは殺すことじゃない。
ここで止めることだ。
奥へ行かせないための足止め。
俺は一歩だけ前へ出た。
右足を浅く送り、重心は左に残す。
踏み込まない。
相手の目をこっちへ寄せるための一歩だ。
「ガキが前か」
「前じゃないです」
男の肩が動く。
短剣が喉へまっすぐ伸びてきた。
その瞬間、俺は左足を半歩だけ外へ逃がした。
逃がした先は、さっき見ておいた硬い石の縁だ。
同時に、男の前足が乗る場所だけをわずかに緩める。
石と泥の境目。
つま先が沈めば、それで十分だった。
男の足がぶれた。
膝が前へ流れる。
腰が開く。
「今です!」
「おう!」
バルドさんが出た。
盾を真正面にぶつけず、男の胸の外側へ当てる。
体を横へ折らせる当て方だ。
短剣持ちの上半身が流れたところへ、剣の腹が手首を叩く。
短剣が石床へ落ちた。
その直後、上で弦が鳴った。
「上!」
「見えてる!」
コルトさんの矢が先に走った。
高い足場の奥で、金具を打つ音がする。
見張りは身を引いた。
完全には落とせていない。
でも、今は射てない。
「テオ!」
「もうやってます!」
曲がり角の脇に、膝丈の土壁が立ち上がる。
さらにその縁から砂が舞った。
目を閉じるほどじゃない。
でも、狙いを続けるには嫌な量だった。
「上、一人! 今は引いた!」
コルトさんの声が降ってくる。
「十分です!」
俺は答えた。
短剣持ちはバルドさんが膝で押さえ込み、テオさんが足首の横に土を盛って動きを奪う。
殺さない。
でも、もうすぐには動けない。
「先だ」
ガランさんが短く言った。
「残る口を拾う」
「はい」
そのまま奥へ進む。
曲がり角の先は、さらに狭かった。
右は水。
左は崩れた石積み。
天井も少し低い。
大人が武器を大きく振るには向いていない。
こういう場所は、前の人間が崩れた瞬間に全部が止まる。
「セイ」
ガランさんが呼ぶ。
「はい」
「止まる場所は」
「水門手前です。そこだけ抜ければ、奥は少し開きます」
「なら、そこまで止まらねえ」
「はい」
廃水路の最奥には、古い水門の跡みたいな空間があった。
鉄格子が半分曲がり、その奥に人ひとり隠せる空間がある。
そこに、若い男がいた。
手首を縛られ、石壁にもたれている。
服は上等だ。
でも泥と湿気で色が死んでいる。
頬はこけ、唇も割れていた。
顔立ちは整っているのに、もう貴族の余裕は残っていない。
ただ、生き残りたい顔だけがあった。
「助けろ……」
かすれた声が出る。
ガランさんが一歩前に出た。
「名前は後だ。喋れるか」
「み、水……」
「少しだけだ」
俺が水を口に含ませると、男はむせながらも飲み込んだ。
「他の二人は」
ガランさんが聞く。
「一人は街道側……一人は倉回し……俺は……」
「ここへ回された理由は」
「家名が使えるからだ……」
男は荒く息をした。
「生かしておけば、脅しに使えるって……」
嫌な言い方だった。
でも、妙に納得もした。
死体より、生きた人質の方が動かせる人間は多い。
「青布の連中が運んだのか」
俺が聞く。
男は小さく頷いた。
「でも、あいつらは運ぶだけだ……決めてるのは別だ」
「門の中か」
ガランさんの声が低くなる。
「……そうだ」
「荷印か。通行印か」
「どっちもだ。控えも……触れる奴がいる」
そこで男は急に黙った。
言っていいか迷ったんじゃない。
言いかけた瞬間に、何かを思い出した顔だった。
「名前を知ってるな」
ガランさんがさらに一歩詰める。
「言え。ここまで来たら、黙っても助からねえ」
「わ、分かってる……」
男の喉が上下した。
言えば終わる。
でも、黙っていても助からない。
その顔だった。
「……北第二徴税控所の副印吏、ヴァレスだ……」
「ヴァレス」
ガランさんが繰り返す。
「そいつが荷印も控えも触ってるのか」
「そうだ……あいつが通す……だから、三人も――」
そこで空気が切れた。
音は聞こえなかった。
でも、来る向きが分かった。
正面でも上でもない。
少し離れた横穴の暗がり。
そこから、真っ直ぐな線が男の喉へ伸びているのが見えた。
叫ぶより先に動いていた。
右足を男の前へ入れる。
左足は真後ろへ引かず、外へ開く。
襟と肩をまとめて掴み、そのまま左下へ引き倒す。
頭が石の角に当たらないよう、男のかかとの後ろの泥をほんの少しだけ崩す。
体が一拍遅れて沈む。
喉の位置が下がる。
次の瞬間、矢が飛んだ。
「っ、がああっ!」
男の肩に矢が突き立つ。
喉は外れた。
でも深い。
「コルト!」
「見えた!」
上の足場から、コルトさんがすぐに矢を撃ち返した。
けれど、撃った相手はもう引いていた。
さっきの見張りみたいな逃げ方じゃない。
身を引くのが半歩早い
無駄がない。
「テオさん、壁!」
「出します!」
土壁が男の横に立ち上がる。
バルドさんがすぐ前へ出て、盾を斜めに構えた。
追い矢が来ても受けられる角度だ。
「傷は!」
ガランさんが聞く。
俺は矢の位置を見る。
肩口。
深い。
でも喉も胸も外れている。
「即死じゃないです! 抜かなければまだ持ちます!」
「抜くな。そのまま押さえろ」
「はい!」
血を押さえながら、俺は横穴の暗がりを見た。
今の矢は、俺たちを止めるためのものじゃない。
この男の口だけを消すための矢だ。
しかも、裏組織の見張りみたいな雑な撃ち方じゃなかった。
裏組織だけじゃない。
この場には、もう一つ別の目が来ている。
――俺たちは証人を見つけたんじゃない。
向こうが口封じに来た相手に、先にたどり着いただけだった。




