第86話 裁き屋の横槍
机の上で、紙が擦れる音がした。
まだ朝の早い時間だ。
宿の一室には外の喧騒が届き切っていない。
そのせいか、紙をめくる音だけがやけにはっきり聞こえた。
俺たちは全員、机を囲むように立っていた。
昨夜持ち帰ったものは、もう全部机の上に出してある。
峡谷途中の中継小屋で回収した荷札。
焼けかけた帳簿の切れ端。
粗い地図。
テオが宿場の記録から抜いた替え馬の記録の写し。
通行記録の抜けと、交代予定欄の不自然な筆跡。
一つひとつは小さい。
でも並べると分かる。
三人の行方を隠すために、いくつもの場所で記録や手配に手が入っている。
エドガーさんは椅子に座ったまま、それを順に見ていた。
急かしはしない。
でも見落としも許さない。
だからこそ、こっちも見たことだけをそのまま話せた。
「以上です」
ガランさんが最後にそう言って口を閉じた。
部屋が静かになる。
俺はエドガーさんの判断を待っていた。
ここでどう決まるかで、俺たちの次の動きも変わる。
まだ気を抜ける場面じゃなかった。
エドガーさんは、焼けた帳簿の端を指先で軽く押さえた。
「まず、整理しましょう」
声は静かだった。
けれど、その一言で部屋の空気が締まる。
「三人は、自分たちの判断だけで逃げたわけではない。裏の運び手が動き、受け渡しの段取りまでつけたうえで、公の場から消されている。ここまではいいですね」
「はい」
ガランさんが答える。
「そして、小屋にいた末端の捕虜は、回収命令だと漏らした」
エドガーさんは一度だけ俺たちを見た。
「『あの三人は王都へ行かせるな』。この言葉だけを見れば、王都へ着かれると困る人間がいる、と考えるのが自然です」
それは俺たちも昨夜そう受け取った。
少なくとも、その時点では間違っていない。
だが、エドガーさんはそこで止まらなかった。
「ですが、それだけでは説明できない点があります」
テオが顔を上げる。
コルトも腕を組み直した。
「口封じだけが目的なら、その場で殺した方が早い。足もつきにくい」
「……はい」
俺は小さく答える。
「もっと言えば、死んだことにしたい相手なら、替え玉を置く、焼死体に見せかける、そういうやり方もあったはずです。ですが、そうしていない。わざわざ運んでいる」
バルドが眉をひそめた。
「じゃあ、すぐ死なれるのも困るってことですか」
「その可能性が高い」
エドガーさんは頷いた。
「王都へ着かれると困る。だが、その場で死なれても困る。だからまず生かしたまま隠す。必要な情報を抜く。使えるものだけ使う。そのあとで死んだ形にするか、消えた形にする。そう考えた方が筋が通ります」
リアンが小さく息を呑んだ。
「……かなり根が深いですね」
「ええ」
エドガーさんは否定しない。
「これは宿場だけで起きている話ではありません。街道の運び手だけで動かせる話でもない。その先で受け取る側や、王都へ向かう流れの中で手を貸している人間までいると考えるべきです」
その言葉で、机の上の紙が少し違って見えた。
荷札。
書き換えられた帳簿。
替え馬の記録にできた不自然な空白。
どれも小さな手掛かりだ。
でも並べると分かる。
誰かが三人を生かしたまま動かし、必要がなくなったら消せるように、記録や手配に先回りして手を入れていた。
「三人の件は、ここから先、私が引き継ぎます」
エドガーさんはきっぱり言った。
「宿場から王都方面への照会。徴税所と荷改め所への文書。身柄の直接追跡。これ以上は現場だけで追い切るべきではありません」
バルドが聞く。
「じゃあ、三人の件はここから先、エドガーさんが追うんですか」
「私が引き継ぎます」
エドガーさんは頷いた。
「ですが、諸君の仕事がなくなるわけではありません」
コルトがすぐに言った。
「三人を探すんじゃなくて、その周りを調べるんですね」
「そうです」
エドガーさんは答えた。
「三人を隠している連中は、人だけを動かしているわけではありません。帳簿や名簿、印章、通行記録、受け渡しの記録――そういう証拠も一緒に消そうとしているはずです」
そこで机の上の替え馬の記録の控えに目を落とす。
「現場では、三人の居場所より先に、そういう証拠を消す動きが見つかることがあります。だから諸君には、三人そのものではなく、その証拠を消している動きを追ってもらいたい」
テオが机の控えを指で押さえた。
「記録の抜けは確実にあります。宿場の中だけでやってる話じゃありません。先で受け取る側がいる前提で動いてます」
「その通りです」
エドガーさんが頷く。
「三人の直接捜索は、ここから先は私が引き継ぎます。諸君は、その周りで何が消されているのかを見てください。そこを押さえないと、たとえ一人を見つけても、王都へ着く前にまた口を塞がれる」
ガランさんが短く返した。
「了解した」
それで話は決まった。
三人の身柄はエドガーさんが追う。
俺たちはその周りで、帳簿と口封じの流れを拾う。
部屋を出る時、エドガーさんは最後にこう言った。
「焦って噛まないことです。相手は人だけではなく、記録も消している。まずは残すべきものを見つけなさい」
その一言が、妙に重かった。
犯人を追うことより先に、消される前の証拠を押さえること。
今の俺たちに必要なのは、たぶんそこだった。
宿場を出て半日ほどで、街道の景色が少し変わった。
往来が増える。
旅人の荷が整う。
馬具の手入れもよくなる。
王都へ近づくほど、人も荷も、きれいな顔をして重くなる。
だからこそ、表の流れが太くなるほど、脇へ紛れるものも増える。
俺は道の端を見ながら歩いていた。
表の轍は深かった。
それだけ荷車の行き来が多い。
だが、その外に横へ抜けた車輪痕が残っていた。
行き来する荷車が多いからだ。
だが、その外に横へ抜けた車輪痕が残っている。
草を潰した跡が、一度きりじゃない。
荷車一台分が、何度か表から外れている。
『右手へ逸れた車輪痕が続いています』
リラが言う。
『表街道の荷の量に比べて、横へ抜けた跡が多いです』
『見えてる』
心の中で返す。
『表の道だけで捌かずに、一部を横へ流してる』「ガランさん」
俺は前を見る。
「表から横へ逃がしてる流れがあります」
「こっちも見えた」
コルトがしゃがみ、土の縁を指でなぞった。
「表の道へ戻った跡より、そのまま横へ抜けた車輪痕の方が多い」
「祈りの保ちも、この先で薄くなっています」
リアンが言う。
「正規の通りを外れると、守りも弱くなります」
つまり、表の道から外した荷や人を、人目の少ない方へ運びやすい。
バルドが後ろを一度だけ振り返る。
「まだこっちを見張ってる気配はあるか」
「今は薄いです」
俺は答えた。
「でも、ここから先は相手の動きやすい場所です。押し込まれたら、こっちはすぐに引けなくなります」
「なら、欲張らねえ」
ガランさんが言った。
「見えるところまで見て、手を出すかどうかはそのあとだ」
「はい」
少し進んだ先に、崩れた石壁が見えた。
廃砦だ。
昔は見張りか詰所に使われていたんだろう。
今は壁が半分崩れ、塔の上も欠けている。
街道の脇に、石の影だけが残っていた。
その手前で、嫌な匂いがした。
血の匂い。
鉄の匂い。
それに、焦げた封蝋の匂い。
「止まれ」
ガランさんの声で、全員の足が自然に止まる。
俺たちは低い石積みの陰へ寄り、そこから先を覗いた。
荷車が一台止まっている。
横倒しにはなっていない。
馬も生きている。
だが、その周りに三人倒れていた。
護衛らしい男が二人。
御者が一人。
全員、生きてはいる。
でも、すぐには立てない。
「殺し切ってねえな」
バルドが低く言った。
俺も同じことを見ていた。
血はある。
だが飛び散り方が少ない。
倒れている位置も、ばらばらじゃない。
荷車の周りで短時間に制圧した形だ。
「手当たり次第に襲った盗賊のやり方じゃないです」
俺は言った。
「倒れてる位置が偏ってる。逃げ道を塞ぐ形で一気に動いて、必要以上には広げてない」
コルトが荷車へ目を細めた。
「そのうえ、一般の荷には手がついてねえ」
その通りだった。
布袋も樽も残っている。
食料も道具も散らされていない。
売れそうな物も、そのままだ。
なのに、荷台の奥だけが不自然に空いている。
「狙いは荷そのものじゃない」
コルトが先に動いた。
「隠して積んでた箱だ。軽いが大事なやつだな」
俺も荷台を覗き込む。
木片。
折れた錠前。
封蝋の欠け。
食料や布の陰に押し込むように積んであった場所だけが荒れている。
リアンが足元から紙切れを拾った。
「数字の並びがあります。帳簿の端だと思います」
ガランさんが低く問う。
「何が抜かれた」
コルトが荷台の内側を順に指した。
「三つ分だ。一つは帳簿。もう一つは印章か封印具。残りは紙束……名簿か伝票だろうな」
帳簿。
印章。
名簿。
さっき部屋でエドガーさんが言った通りだった。
消したいのは、人だけじゃない。
「それ以上触るな」
崩れた砦の陰から声が飛んだ。
バルドが半歩前へ出る。
盾を上げ切りはしない。
だが、次の一歩で俺たちを隠せる位置だ。
影から三人出てきた。
軽装。
旅装。
顔は半分隠している。
だが、ただの盗賊の出方じゃない。
武器は見せている。
でも振り回さない。
距離を詰めすぎない。
こっちの出方を見ながら、いつでも退ける余白を残して立っている。
真ん中の男が低く言った。
「そっちはそっちの規則で動いてるんだろ」
「だったら何だ」
ガランさんが返す。
「なら、その荷は見逃せ」
コルトが鼻で笑った。
「見逃せって言われて、はいそうですかで通ると思うか」
「思ってねえよ」
男はあっさり言った。
「ただ、こっちにも見逃せねえ線がある」
その一言で分かる。
ただ奪うだけの連中じゃない。
少なくとも、自分たちなりの筋を持っている。
「抜いたのはお前らか」
ガランさんが問う。
「そうだ」
男は否定しない。
「俺たちが持っていったのは、悪さの証拠だけだ。荷物そのものも、そこにいた人間も狙ってねえ」
「ずいぶん都合のいい理屈だな」
ガランさんの声は冷たい。
「そっちから見りゃそうだろうさ」
男は肩をすくめた。
「上からは、民を食い物にしたやつだけを狙えって言われてる」
名前は出さない。
だが、上がいることは隠さない。
バルドが唸るように言う。
「人を殺してねえのも、その上の方針か」
右にいた男が答えた。
「殺して得がある相手だけ殺す。こいつらは運んだだけだ」
リアンが倒れている御者を見て顔をしかめる。
「なら、治療の邪魔はしないでください」
「しねえよ」
真ん中の男はすぐに返した。
返しが早い。
つまり、ここで潰し合う気は薄い。
「三人の件と関係があるのか」
ガランさんが問う。
男は少しだけ目を細めた。
「あるともないとも言わねえ」
「答えになってねえな」
コルトが返す。
「こっちも全部喋る気はねえ」
男は即答した。
「そっちは人を生かして王都で喋らせたい。こっちは帳簿と名簿を先に押さえたい。噛み合ってねえだけだ」
そこで利害がはっきり見えた。
完全な敵じゃない。
だが同じでもない。
俺たちは、人を生かしたい。
こいつらは、証拠を先に押さえたい。
どちらも相手のやり方を丸ごと飲む気はない。
「こいつら、関係ない人間まで襲うやり方じゃないですね」
俺は小さく言った。
ガランさんが視線だけで返す。
続けろ、という合図だ。
「倒れてる位置も、傷も、荷の残し方も」
俺は相手から目を離さずに言う。
「短時間で制圧して、要るものだけ取ってる。好き勝手に暴れたんじゃない。引く場所を決めてる」
「褒めてんのか」
左の男が不機嫌そうに言う。
「別に」
俺は返した。
「でも、危険の線は見える」
真ん中の男が少しだけ目を細めた。
試す目じゃない。
拾われたことを確かめる目だ。
「セイ」
ガランさんが小さく呼ぶ。
判断を寄こせ、という声だった。
俺は相手の足元を見る。
真ん中だけが半歩前。
左右は少し下がっている。
囲むためじゃない。退くための余白だ。
倒れている三人の呼吸はある。
馬も落ち着いている。
向こうは、ここで本気でぶつかる気が薄い。
こっちから押せば、危なくなるのはこっちの方だ。
「押さない方がいいです」
俺ははっきり言った。
「ここで手を出すと、人も証拠も取り逃がします。そのうえ、こっちの状況まで悪くなります」
ガランさんは一拍だけ黙り、それから頷いた。
「分かった」
正面の男へ向き直る。
「今日は見逃す。だが次もそうだと思うな」
「こっちも同じだ」
男が返す。
「次は利害が合うかもしれねえし、逆に本気でぶつかるかもしれねえ」
嫌な言い方だった。
でも嘘っぽくはない。
リアンが御者へ駆け寄り、細い祈りを落とす。
バルドは盾を下ろさない。
コルトは荷台の残り方を見続ける。
俺は、相手がどの境い目で退くかだけを見る。
真ん中の男が最後に言った。
「あんたらは遅い」
目が、俺たち全員を順に見た。
「王都に着く頃には、帳簿も口も消される」
それだけ残して、三人は廃砦の裏へ消えた。
追おうと思えば追えたかもしれない。
でも、その先は向こうの場だ。
戻る線が細い。
だから追わない。
御者がうめき、リアンが祈りを深める。
護衛の一人も、しばらくして目を開けた。
「……持っていかれた……」
男は掠れた声で言う。
「帳簿と……印章……それに名簿……」
「誰の荷だ」
ガランさんが短く問う。
男は唇を震わせた。
すぐには答えない。
答えたくないからじゃない。
答えるとまずい相手が多すぎる、そういう顔だった。
それだけで十分だった。
ただ隠して運んでいただけの荷じゃない。
上の役人や商人まで関わっている話だ。
最低限の応急だけ済ませ、後から来る街道見回りへ現場を渡す段取りを決めてから、俺たちは街道へ戻った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に息を吐いたのはコルトだ。
「三人だけ追ってても足りねえな」
「はい」
俺も頷く。
「人を運ぶ流れと、証拠を消す流れが、同じ道に乗ってます」
「エドガーさんの見立てが当たってたわけですね」
リアンが静かに言う。
「ただ王都へ行かせたくないんじゃない。生かしたまま隠して、使って、それから消したい」
バルドが低く言った。
「話が思ったより大きいな」
「だから根が強いんだろ」
ガランさんが前を見たまま言った。
「末端を一人二人押さえたくらいじゃ、切れねえ」
俺は崩れた砦の方を振り返った。
もう石の影しか見えない。
けれど、あの三人の動きだけは頭に残っていた。
表の決まりに従って動く連中じゃない。
それでも、関係ない人間まで巻き込むやり方はしない。
欲しいものだけ取ったら、そこで引く。
人を守りながら退く動きも、少なくとも分かっている。
敵だ。
けれど、ただの悪党でもない。
そのややこしさが、むしろ厄介だった。
王都方面の空は、少し白く霞んでいた。
三人の件の主導は、もうエドガーさんが引き継いでいる。
だから俺たちは、ただ三人の影だけを追うわけじゃない。
今日分かったのは、敵が一つじゃないことだ。
三人を運ぶ連中がいる。
その一方で、帳簿や名簿を奪う別口も動いている。
どちらも、この件を途中で消したいのは同じだ。
なら、急がないと遅れる。
次に確かめるべきなのは、死体じゃない。
まだ生きているかもしれない一人の行方だ。




